前の続き。
せっかく貴重な情報をもらって、感覚と感情を切り離すことで 今度こそ怒りの暴走を止められるようになるかとうれしかったのに。。。
たしかにえんえんと大荒れすることはなくなったけど、いくら収まっても すぐまた新たな怒りが持ち上がる いたちごっこの繰り返し。
いったいいつまでこんなことやってればいいんだろう。。。
そんなあるとき ふと氣づきました。
私、「イヤなもの、ジャマものを消し去りたい」っていう氣持ちで これをやっている!
いつまで性懲りもなく上がってくるの、こんな苦しい感情。。。これだけがんばってるのに。。。いいかげんきれいさっぱり消えてよ
そういう氣持ちで、「消すために 見つめる」という作業を機械的にこなす自分に いつの間にかなっていた。
でも、ちょっと待って。
すべてのことは 意味があって起こってるんだよね。
私たちは そもそも完全無欠の存在だったのに、わざわざ制限された不自由な身として この世に生まれてきたんじゃなかったっけ?
不自由である、欠けているという体験を通して、本来の完全さを心ゆくまで味わうために。
だったら、怒りでも苦しみでも ただ疎ましがって消そうとするのは違うんじゃない?
これこそ 私が進んで体験したかったことなんじゃないの?
無心に見つめていたはずが、いつの間にか 「消したいから見つめる」と 消し去るための手段になっていた。
すべての体験を糧に成長するはずが、いつの間にか イヤなところからさっさと抜け出したい自分になりかわっていた。
氣がつかないうちに、あり方そのものがずれちゃっていたんですね。
これを機に、初心に帰って ただ無心に自分と向き合い、今(からだに)起こっていることを観察する立場に戻りました。
「これを体験したくてここにやってきたんだよね」って声をかけながら。
そして ふとまた氣づいたら、怒りそのものがなくなったわけではないけれど、持続時間がびっくりするほど短くなっていました。
事あるごとに「ムカッ」と発火するのは相変わらず。
でも、そのあとの“怒りのストーリー”は 自分が好きこのんでせっせと紡いで発展させている構図が 自分で自分にバレバレになっちゃってるんですね。
そうなると すっかりしらけちゃって エキサイトできない。
はいはい、そのお話もういいよね~って 自然鎮火してしまうんです
これ、余計な感情移入なしに ひたすら観察し続けたから はっきり見えたんだと思います。
言い訳も正当化も抜きで、ただ自分の中で何が起こっているかが あからさまになった。
理屈でなく からだ全体で「ああ、そういうことだったのね」と すとんと腑に落ちた。
ここまでからくりが明白になってしまえば、いまさらお芝居に戻って熱演なんて、しらじらしくて できるものではありません。
無心に観察することの意味を知りました。
「神との対話」の「抵抗すれば 相手は強くなる。見つめれば 消える」ってこういうことだったんだなぁ。
そういえば、バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)の「究極の旅」にも「<ものみ>でいなさい」っていう言葉があったけど、あれも同じだね、きっと。
怒りは相変わらずちょくちょく発生します。
発生しては すみやかに消えていきます。
ときたま うっかり発展させかけて、「そうだったぁ、感覚、感覚」ってなることも(^^ゞ
まあどのみち そう大きくなることはありません。
たぶん、怒りの回路自体は この先もずっと残るのでしょう。
でも、感情を通すことがなくなれば その回路はいずれないのと同じになっていくんじゃないかな☆
怒りを例に出したけれど、他のあらゆることも同じですね。
自動的に反応していることに氣づけば、コントロールを自分の手に取り戻すことができる。
こうやって 三次元世界でさまざまな体験をし、少し離れた高みから その全体を見渡して観察し、意識的に選び直して、この世での人生を さらに洗練させ 楽しむ。
さまざまな次元(視点)を行ったり来たりしながら 曇りを落として だんだん成長して賢くなって、いつの日か すっかり本来の自分に還る。
早くゴールにたどりつくのが目的じゃない、私たちみんな、このプロセスを存分に体験するために この世にやってきたんですね。
しみじみ味わい深い旅です(^^)
せっかく貴重な情報をもらって、感覚と感情を切り離すことで 今度こそ怒りの暴走を止められるようになるかとうれしかったのに。。。
たしかにえんえんと大荒れすることはなくなったけど、いくら収まっても すぐまた新たな怒りが持ち上がる いたちごっこの繰り返し。
いったいいつまでこんなことやってればいいんだろう。。。
そんなあるとき ふと氣づきました。
私、「イヤなもの、ジャマものを消し去りたい」っていう氣持ちで これをやっている!
いつまで性懲りもなく上がってくるの、こんな苦しい感情。。。これだけがんばってるのに。。。いいかげんきれいさっぱり消えてよ
そういう氣持ちで、「消すために 見つめる」という作業を機械的にこなす自分に いつの間にかなっていた。
でも、ちょっと待って。
すべてのことは 意味があって起こってるんだよね。
私たちは そもそも完全無欠の存在だったのに、わざわざ制限された不自由な身として この世に生まれてきたんじゃなかったっけ?
不自由である、欠けているという体験を通して、本来の完全さを心ゆくまで味わうために。
だったら、怒りでも苦しみでも ただ疎ましがって消そうとするのは違うんじゃない?
これこそ 私が進んで体験したかったことなんじゃないの?
無心に見つめていたはずが、いつの間にか 「消したいから見つめる」と 消し去るための手段になっていた。
すべての体験を糧に成長するはずが、いつの間にか イヤなところからさっさと抜け出したい自分になりかわっていた。
氣がつかないうちに、あり方そのものがずれちゃっていたんですね。
これを機に、初心に帰って ただ無心に自分と向き合い、今(からだに)起こっていることを観察する立場に戻りました。
「これを体験したくてここにやってきたんだよね」って声をかけながら。
そして ふとまた氣づいたら、怒りそのものがなくなったわけではないけれど、持続時間がびっくりするほど短くなっていました。
事あるごとに「ムカッ」と発火するのは相変わらず。
でも、そのあとの“怒りのストーリー”は 自分が好きこのんでせっせと紡いで発展させている構図が 自分で自分にバレバレになっちゃってるんですね。
そうなると すっかりしらけちゃって エキサイトできない。
はいはい、そのお話もういいよね~って 自然鎮火してしまうんです
これ、余計な感情移入なしに ひたすら観察し続けたから はっきり見えたんだと思います。
言い訳も正当化も抜きで、ただ自分の中で何が起こっているかが あからさまになった。
理屈でなく からだ全体で「ああ、そういうことだったのね」と すとんと腑に落ちた。
ここまでからくりが明白になってしまえば、いまさらお芝居に戻って熱演なんて、しらじらしくて できるものではありません。
無心に観察することの意味を知りました。
「神との対話」の「抵抗すれば 相手は強くなる。見つめれば 消える」ってこういうことだったんだなぁ。
そういえば、バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)の「究極の旅」にも「<ものみ>でいなさい」っていう言葉があったけど、あれも同じだね、きっと。
怒りは相変わらずちょくちょく発生します。
発生しては すみやかに消えていきます。
ときたま うっかり発展させかけて、「そうだったぁ、感覚、感覚」ってなることも(^^ゞ
まあどのみち そう大きくなることはありません。
たぶん、怒りの回路自体は この先もずっと残るのでしょう。
でも、感情を通すことがなくなれば その回路はいずれないのと同じになっていくんじゃないかな☆
怒りを例に出したけれど、他のあらゆることも同じですね。
自動的に反応していることに氣づけば、コントロールを自分の手に取り戻すことができる。
こうやって 三次元世界でさまざまな体験をし、少し離れた高みから その全体を見渡して観察し、意識的に選び直して、この世での人生を さらに洗練させ 楽しむ。
さまざまな次元(視点)を行ったり来たりしながら 曇りを落として だんだん成長して賢くなって、いつの日か すっかり本来の自分に還る。
早くゴールにたどりつくのが目的じゃない、私たちみんな、このプロセスを存分に体験するために この世にやってきたんですね。
しみじみ味わい深い旅です(^^)