え~っと。
市長選、対立候補の方 いらっしゃいました。
って、投票台の前で初めてわかっても~
ポスターも貼ってなければ 選挙カーも回ってこないし、選挙の広報みたいなのもぜんぜんこなかったし、まるで知らなかったよぉ
・・・なんて今さら騒いでもしょうがない。
終わったことはともかく、これにどんなメッセージが潜んでいるのか見きわめて、今後に活かさないとね(^^ゞ
何日ぐらい前になるか、人氣のない林道を散歩していたあるときのこと。
さわやかな風に吹かれ、鳥の声や 木々のざわめきを聞くともなしに聞きながら、いい氣分で歩いていたら、不意に 胸の内にぱっと花が開いたように インスピレーションが弾けました。
自分の内側に、自分でありながら自分ではないような 叡智の源とでも呼びたい何かがあるとは、ずっと感じていました。
ただ これまでは、どちらかというと 頭に近いところでイメージしていたようで、その源は 口径の小さな望遠鏡から覗いた宇宙のように、内側ではあるけれど はるか彼方に ほんのちっちゃな入り口がぽつんとあるだけ、そんな印象でした。
それが、急にその入り口が 大きく近くに感じられ、奥行きがぐーっと深まって、さらに奥に行くほどぐんぐん広がり、自分のからだなど軽く超え、周囲の木々から向こうの山々に、空に、そしてもう視覚では追えないほど広がって広がって、ああ、五感では掴めないけど これは果てしない宇宙に続いている、無限に広がっているということなんだな、という思いが走りました。
からだという器の中に納まっているように思い込んでいたものが、入り口は確かに自分の内にあるのに、その中をたどっていくと、いつの間にか内と外が逆転して、浜の真砂のかけらのようにちっぽけな自分のからだが 無限の宇宙にくるみ込まれている。
その昔、人体とは 食道から腸までつながった内側の管が 口と肛門を介して外側にめくれたのが体表、内と外がひと続きにつながり合っているのだと何かで読んで、「ひょえぇぇぇぇぇ (^◇^;) 」と思った記憶がありますが、今回の閃きは それ以上のインパクト。
内から外へ広がりながら、果てしない宇宙となって、個である私など そのどこに位置するかも定かでないほどちっぽけな存在として すっぽり包み込まれてしまうのですから。
でも、不安や怖ろしさはいっさいなし。
むしろ、自分の中に無限に展開する宇宙を思うと、心の芯からさわやかな風が吹き通り 晴ればれするようで、さらにその宇宙が 自分もまわりの自然もすべておおらかに包んで 胎児のように大切に守ってくれているという安心感に満たされて。
山の中の狭い道にいながら、そこが広大な宇宙の一点でもあることに突然氣づかされたような、なんとも不思議な一瞬でした。
これまでいつも「内なる答え」と表現してきたけれど、内とは外でもある。
からだという器を境に 内と外に分けること自体が意味をなさないとも言える。
自分は、分けだされた小さな小さな「個」であると同時に、無限の宇宙の一部でもある。
「内なる答え」とは、宇宙とひとつである自分を感じた瞬間に、“共有”している叡智のひとかけらに目覚めるということなのかもしれない。
そもそも「宇宙にある」と「自分の内にある」は同じことで、宇宙の一部である自分を思い出すことで、求めていた智恵が最初から自分の一部として存在していたことをも思い出しただけなのかもしれない。
そうやって、切れ切れに「パズルのピース」を呼び覚ましながら、やがてパズルが完成し、宇宙そのものである自分に目覚める日がやってくる。。。のかどうか。
ここから先は、今の時点ではよくわからないけれどね☆
子どもの頃から好きだった、メーテルリンクの「青い鳥」のお話。
あの結末が物語るように、「青い鳥は、最初から自分のもとにいる」って よく言われるけど。
これってこういうことだったのかな。。。と、なんとなく腑に落ちた氣がします(^^)