毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

戦わない解決

2013年10月12日 23時23分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


7月に参院選がありましたが、あれをきっかけに 少し前の6月ぐらいから浮上し続けているテーマが「二元対立」。

それ以来、折に触れてずっと ためつすがめつひねくり回すように 観察し 熟考してきたのですが、

現時点での結論はと言うと、




            戦いに勝つことで 問題を解決しようとするのは もう卒業☆







「二元対立」とは、善悪・真偽・貧富・寒暖・高低 などのように、互いに相反する二つの要素が 対となって対峙しているさま。

何かを具体的に知りたかったら、その何か以外のものが どうしても必要になります。

この世に自分ひとりしかいなかったら、背が高いも低いも、頭がいいも悪いも、優しいも意地悪もない。

自分以外の誰かと比べることで、「自分とは これこれこういう人間だ」と 他の人と区別して特徴づけ 理解することが可能になるんですね。

私たちは、そうやって 自分なりの解釈で、自分の世界を創り上げ 把握している。

その意味において、個人的な線引きの目安として使う限り、相反する二つの要素の存在は 有益なわけです。


“大いなるひとつ”は、自身を体験するために そんな具合にこの世を創った、とね(^^)





でも、「二元対立」だけなら、比較はあっても 争いはないんですね。

自分より背の高い人がいても、それはただ「誰それは私よりより背が高い」という事実でしかない。

ここに 正誤だの優劣だのという価値観を持ち込むと、争いごとが起こってくるわけです。

シリア問題・原発・TPPなどから 友人知人・家族間の揉め事に至るまで、多くの人の思惑が絡むほど 複雑さは増すけれど、おおもとは全部このからくり。

議論の焦点が「何が正しいのか」から「誰が正しいのか」に移ってしまうと、あとは 力勝負あるのみ。

武力・多数決など方法はいろいろあるけれど、とにかく戦うことは避けられない。

そして、一方が力づくで相手をねじ伏せても、他方に残る口惜しさや恨みは 争いの火種として潜伏し続け、いつかまた必ず再燃することになる。


正義が勝てば平和が訪れるなんて幻想でしかない、戦いで恒久的平和が得られたためしなんてないっていうこと、長い歴史と多くの犠牲から いいかげん学んでもいい頃だよね。




ここまでありありと見えてくると、戦いはNGと思いつつ ついつい古い思考パターンに引っ張られることを繰り返してきた私も、「戦いたい」「いや、だめだ」の不毛な行き来を脱け出して、そのどちらでもない新しい回路を育てようという氣が起こってきます。





今歩いている道が 行き止まりだ、とか、目的地に通じてない道だ、とか氣づいたら、なすべきことは二つ。

引き返すことと、どこで間違ったのか・正しい道はどれなのかを確認すること。

ではここで、「自分の正しい主張と、それ以外の正しくない主張」という線引きを、いったん手放してみてはどうでしょう。

正誤や優劣の物差しが入り込む前の、「私はこういう意見、相手はこういう意見」っていうただの事実認識の状態に戻してみるの。

そして、それぞれの意見を、これ以上たどれないっていう根っこにまで遡って、徹底的に吟味する。

もし本音や真実を言わない人がいたら、それをただ責めるのではなく、なぜ言わないのかも 同じようにとことんおおもとまで 尋ねて尋ねて尋ねてみる。

その意見や思いが生まれた原点まで立ち戻って、しっかり理解することをひたすらやり続ける。

感情的にならないで、客観的に、冷静に。

戦いになると、とにかく自己主張で押しまくって 相手を負かすことにばかり意識が集中しちゃうから、相手の言うことって 聞いてるような顔しても 実はまともに聞いてないんだよね。

理解する努力を放棄した時点で、もう解決から遠ざかる一方なのは 目に見えているもの。






ん?

「言うだけなら簡単だけど、そんなの理想論だよ」って?

ああ、そう、そうなんです、よぉくわかります。

いったんなじんだ価値観や 相手憎しで固まっちゃった感情を 理性であっさり変えられたら苦労はないよ、っていうことね。

おっしゃるとおりです。

なにを隠そう、私だって そこでいっちばん手こずったんだもの(- -;)




じゃあ 次回は、なんで せっかくの理想を思い通りに実行できないのか、私が探れるだけ探った範囲で書いてみますね。