毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

負のからくり、負の痛み

2013年10月18日 12時15分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


連日長々と書き連ねているこの日記、ようやくここで発端の「戦わない解決」の話に戻ります。

あの話の終わりのほうで、「そんなの理想論だよ」という意見がきっと出るだろうと言いました。

「いったんなじんだ価値観や 相手憎しで固まっちゃった感情を 理性であっさり変えられたら苦労はない」と。

なぜそう思ったかっていうと、私も含め 世の大半の人は、自分の過ちや履き違えをたどることはおろか、そんなものがあると認めることさえ耐え難いように見えるから。

たとえ明らかに誤りだとわかっていても、人からそれを指摘されれば、受け入れるより先に まず身構えてしまう。

理性で「聞き入れるべきだ」とわかっていても、心が抵抗するから 形だけのものとなってしまい、問題解決につながらない。

そこで相手が責めや非難の色を見せようものなら、理性など吹っ飛んで、全力で防御し、ときには反撃に回る。

多くの人に どうもそんな思考回路があるのではないかと。

こうして、共に力を合わせて解決する機会を逃し、対立して不毛の争いを繰り返してしまうんですね。

じゃあ、どうしてこういうことが起こるのか。




「ブラックボックス」の話の中で、幼少期のおぼろげな記憶の中に ときおり鮮やかに残る場面が ブラックボックスを解き明かすために意図的に残された手がかりなのでは、っていうことを書きました。

私自身の記憶のひとつに、こんなエピソードがあります。



まだ幼稚園に入る前の話。

ある日、私は 友だちと二人して れんげなどの野の花を摘んで回っていて、どこかのお百姓さんの畑に入り込み、栽培されていた菜の花を摘み取ってしまったのです。

私たちには、道端に咲く花と 栽培された花の違いがわからなかった。

しかし、家に帰ってその花束を母に見せると、すごい剣幕で叱り飛ばされた上、今からお百姓さんに謝りに連れて行くと申し渡されたのです。

叱られる中で 畑と道端の花の違いは なんとなくわかってきました。

しかし、それをまだ知らなかったときにしてしまったことについて、なぜそこまでひどく叱られなければならないのかはわからなかった。

わからないまま、ただひたすら怖ろしかったことだけは鮮明に覚えています。

それと、謝りに行かねばならないことを ひどく恥ずかしく思ったことも。

今にして思えば、それは 母がよく恥辱を感じさせるような叱り方をしていたからです。

私の中では、叱られること = 恥 という刷り込みになっていたのです。

結局畑に行くと お百姓さんはおられなくて、そのあとどうなったかはわかりませんが、ともかくホッとしたことだけは覚えています。



この体験が、その後の私の 過ちを指摘されたときの反応の原点になったんじゃないかと思います。

もちろん、似たような体験が 前後にもっとあったかもしれません。

とにかく、強烈に心身に刻み付けられたんですね。



なぜそうなったのかをたどることで 過ちを祝福に変えられるなんていう発想はゼロ。

恥も責めも必要ないよ、ただ込められたメッセージを読み解いて 学びにすればいいんだよ、なんて、誰も教えてくれなかったんだもの(T_T)

しかも、たとえ相手がだた指摘しただけであっても、私には非難と恥辱をかぶせられるようにしか聞こえない、受け取れない。

叱責の体験以来、また誰かにわけもわからず怒られるんじゃないかって いつもビクビクして身構えてたから。

誰かの言葉を非難と取った瞬間にスイッチが入り、からだの感覚が湧き起こるところから始まるのは、他のすべてのネガ反応と同じ。

その苦しみから逃れるには、とにかく抗弁して 誤りを認めないこと。

申し開きのしようがない場合は、詫びる体裁をつくろい 恭順の意を示して、それ以上責め立てられないよう身を守ること。

その前に、できることなら 過ち自体が見つからないよう 全力で隠すこと。

そんな歪んだ刷り込みが、やたら押しが強く弁が立ち、見た目は優等生で手のかからない、その陰で 誰に対しても心を開くことを知らず、陰湿な氣の遣い方をする子へと、私を形作っていきました。



およそ自慢できない話ですが、敢えてこれを書いたのは、このからくりの原型って 枝葉の違いはあれど おおもとは多くの人に共通なんじゃないかと思うから。

そして、そのからくりどうしの噛み合い・ぶつかり合いが、今起きているさまざまな争いごとの根っこにあるんじゃないかという氣がするからなんです。




どんな手段を講じても 他の人を踏みつけにしてでも 自分たちに都合のいい方にすべてを持っていこうとするように見える、政治家や企業上層部。

守り 導く役目のはずなのに 弱い立場の者からエネルギーを奪わずにはいられないように見える、一部の警官・教師・親など。

新聞やテレビ、ネットニュースをちらっと一瞥するだけで、こういう人たちの話題には事欠きません。

そして実は 彼らみな、めいめいのブラックボックスの中に 自分でも氣づかぬまま、こういうからくりを刷り込まれているんじゃないだろうか。

彼らが抗弁したり 隠そうとしたりすればするほど ますます悪いヤツに見え、こちらの怒りもエスカレートする。

彼らを憎んだり責めたり叩いたりするのは簡単なこと。

少し前までは、私自身 ためらいなくしていたことです。

だから、そうしたくなる氣持ちはよぉくわかる、わかるのだけれど、それをどこまで続けても 問題が解決を見ることはないし、苦しんでいる人たちも救われないのですね。




そして、責める側にも、やはりブラックボックスに隠れた思考のからくりがあるのです。

これについては、次のブログで。