毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

大団円へ

2013年10月21日 10時45分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


正直、自分自身「経過観察中」であるテーマについて、ちょっと風呂敷を広げすぎたかなって氣がしています (^^ゞ

今 世界中で起きてる問題が。。。なんていう話、実のところ難しいんですよね。

なにが問題なのか、なにが解決なのか、そこの解釈からして 人によっても違うし、自分がどの次元に焦点を当てるかによってもどんどん変化するから。




二元対立が根本的解決にならないと言われようと、今すぐ立ち上がらなければならない事態だってあるでしょ、っていう見方もあると思います。

目の前で家が燃えていたら、火事の原因追究なんてしてる場合じゃない、まず消火だよね。

福一みたいに差し迫った問題で、人の命を軽んずるようなことは認められない、とはっきり意思表示することは 私も大事だと思う。

事と次第によっては、とりあえず力ずくで止めるしかないことだってあるかもしれないね。




あと、不誠実・不正直なものに対する怒りは、自然だしまっとうなことだとも思います。

怒りがなんでもかんでも問題なわけじゃない、それ自体は 自然な感情なんだもの。

ただ、その怒りを よりよい方に向かう原動力とするか、負の感情をふくらませて かえって解決から遠ざかってしまうか、その扱いがカギだと思うんですね。




人の数だけ答えがある、その中でも やはり私は、一番根本的な解決は、人でも世の中でもなく 自分自身を変えることだっていう氣がしてなりません。

自分の目に映る 周囲の世界は、自分の意識が投影された鏡だと思うし、また そこにどんな問題が映し出されようとも、私が変えたりコントロールしたりできるのは 私自身だけだとも思うから。

互いに相手ばかりを変えようとすれば 争いになるけれど、自分をできる限りいい方に進ませようとし続ける人が増えれば、それだけでも世界はきっとよくなってゆくはず。




まだ観察中ではあるけれど、自分の考えグセに手こずったとき、「からだの感覚を追う」っていうのは 有効な手立てだという確信が どんどん深まっています。

うんと小さいころに 無条件に受け入れてしまった思考パターンは 言葉の及ばないところに根付くから、慰めや説得ぐらいのことではビクともしない。

でも、過去スイッチが入ったときのからだの反応は 理屈を超えたところにある「原点」だから、それを 今・ここと切り離して 客観的にじっくり見つめることは、それが昔々の幻でしかないことを いやおうなく感じさせてくれる。

すでに かつてないほど穏やかな時間が長くなっている今、これをもっと続けることで どんな境地が開けるのか、楽しみでなりません




前回「敵とみなした相手をどれだけ憎んでも叩いても、長年溜め込んだ怒りは 消えも減りもしない」と書いたとおり、奪われたものを強引に取り返しても、怒りや恨みはなくなりません。

怒りを溶かすのは、その対極にあるもの、愛・喜び・充足・安らぎ などなど。。。そう、私たちの本質。

おとぎ話にもあるでしょう、怪物だの小人だのカエルだのに変えられてしまった主人公が、愛の力で呪いを解いて 元に戻るお話。

いきなり心優しいお姫様だの 白馬に乗った王子さまだのは 現れてくれないかもしれないけれど、まずは 自分で自分を喜ばせるところからスタートできます。

「好きなこと、わくわくすることをやるといいですよ、小さなことからでいいから」

これが、人生の転機へと 私を向かわせてくれた アドバイス。。。これに従ったことで、どれほど心が癒され 自信を取り戻せたことか。

そこから 「行って かえる」の「かえる」道のりが始まったんですね♪

古い怒りに曇らされずにものを見ることで、見える世界が変ってきます。




自分を見つめることを避ける人も多いんじゃないかと思うけど、それは「醜い自分を見たくない」という恐れや 「そんなことが幸せにつながるとは思えない」という不信からなのではないでしょうか。

たしかに、最初は「うわ」っていうようなものが目に飛び込んでくるけれど。

そこでひるまず、その「うわ」が生まれたさらにおおもとへと遡ると、見えてくるのは 幼い自分の姿。

醜いと思えたのは、幼児の意識を大人がまとう そのギャップから生まれた言動が 違和感を感じさせただけで、実は醜いものなんてなにもなかったんだっていうことが得心できるでしょう。

そして、ほんとうの自分を知ることは、自分にとってのほんとうの幸せを知ることでもあり、そこへ向かう確実な道のりを知ることでもあります。

人にも自分にも ごまかしたり ウソをついたりせず生きていける爽快さ、どんどんよくなっていく手応え、きっと「あきらめないでよかった」って思えるよ (^_-)




こうして、自分をとことん見つめて わかってくると、自分に否定的なレッテルって貼れなくなります。

歪んだのも 自然な成り行き、その苦しさを十分味わって 方向転換するのも予定調和、と素直に思えるから。

そして。

自分がそう見えると、人のこともそう見えてくる。

自他共に 人間ってそういうものなんだなって、すっと思えてしまう。

そうなると、「なにこの人」みたいな違和感を感じることはあっても、それ以上憎んだり嫌悪したり罵倒したりと エスカレートはさせられなくなっちゃう。

むしろ「なんでこの人こういうふうなんだろう、こういうこと言うんだろう」と、相手を知ろうとするほうへ 意識が向くチャンスが生まれる。

これが、前のブログに書いた「新しい視点から問題にアプローチする動きも あちこちで生まれているみたい」の新しい視点なんじゃないかなって思います。

そうなって初めて、「違う視点から 同じ解決を望む者どうし」として、テーブルの同じ側に立てるようになるのかもしれません。




こんなふうに ひとりひとりが自分の課題に向き合い、答えと出会っていく中で、世界の課題もどんどん解けて きっとよくなっていくはず。

世界を創っているのは、私たちひとりひとりの思いなんだもの(^^)