前回を始め これまでのブログの中で、親に抑圧された話をずいぶん書いてきました。
今は、三次元を超えた視点がかなり定着してきたおかげで、何事であれ ひとつ見方からそうそう思い詰めることはなくなりましたが、今身を置いているこの世界がすべてだった頃は、「親に虐げられた自分」という見方から抜け出せなかったんだよね(^_^;)
幼くて 親のいいなりになるしか選択肢がない状況で 理不尽な強要をされるというのは、それはもう 被害者意識が生まれるのもやむなし、という感じなんですが、大人になって 力をつけた後でも その意識がそっくり残ってしまうと、なにかとややこしい事態が生じるわけで。。。
親自身、そのまた親からいろいろと背負わされたきたものがあるはずで、人間なんだから 完璧じゃないのは当然だと思います。
親との意識のズレは 確かに感じたけれど、それだけなら単なる「違和感」「腹立ち」で済んだかもしれない。
でも、申し開きや親への批判的言動、さらに自分が感じるままに話すこと動くことまで禁じられたツケは、その後何十年にも渡る影響を残したと思うんだよね。
痛ければ痛い、苦しいなら苦しい、と率直に言えたなら、ここまで尾を引くことはなかったんじゃないかな。
からだの苦痛は訴えられても、心の苦痛を訴えることは許されない。
いや、正面切って禁止を申し渡された記憶さえないから、無言の圧力っていうことかな。
親の意図を読み取った私は、縮こまって 自分の殻に閉じこもり、精神的感度を鈍らせ 心を閉ざして生きるようになったのだと思います。
そしてその間に、氣づいてはいなかったけれど、膨大な量の怒りを溜め込んでいたんだよね
そうやって 意識せぬうちに大きく育っていたのが、「仕返ししたい」という強い欲求。
平たく言えば、奪われ続けたエネルギーを取り返して、プラマイゼロにせにゃあ氣が済まん、ということです
ここで厄介なのは、相手が必ずしも親でなくても構わない、という点。
要は プラマイゼロにできればいいのだから。
いや むしろ、親に対しては この期に及んでも「愛されたい」という期待を捨てきれないので、必然的に 親を思い起こさせるような他人に エネルギー奪還の欲求が向かう可能性のほうが 大きいわけ。
私、和歌山に来てから、親と似たタイプの人と やたらトラブルを起こす自分を自覚するようになったけど、今にして思えば、この「取り返すぞ」という執着が そういう人や状況を引き寄せてた。。。つまり、無意識のレベルでは「望むところだ!」だったんだよね (^◇^;)
そんな欲求は、目の前の人だけでなく、マスメディアに登場する人たちにも向かいました。
むしろ、歯に衣着せず悪口雑言をぶちまけるには 格好の相手だったかもしれない。
敵役として遜色ないしね、政治家や企業トップなんて いかにも貫禄タップリ「悪代官」ってイメージだし(笑)
ただ、ここに大きな問題が。
自分のこの困ったクセを追求していて氣づいたんです・・・・敵とみなした相手をどれだけ憎んでも叩いても、この長年溜め込んだ怒りは 消えも減りもしないっていうことに。
自分では プラマイゼロになるまで、のつもりだった。
それならいずれは「よっしゃぁ、満足した、もういいや♪」ってにこやかに言える日がくるはずだよね。
でも、怒り猛る自分をよくよく観察すると、どれほどエネルギーを奪う行動をとっても 悪口雑言を吐き散らしても、一瞬の満足は確かにあるけれど、過去の傷が癒され 心が満たされる状態には 決してならない。
空っぽのカップに ザバザバと奪い返しては入れているつもりで、実は一滴も入ってない
昨今「怒れる老人が多い」なんて話をよく聞くけれど、そういう仕組みだから 年を重ねるごとに ますます怒れる人が増えちゃうんだね(T_T)
むしろ、かつてなかったような怒り方をする「切れやすい人」とか「モンスターペアレント」とか、社会全体で 怒れる人も 怒りの度合いも増してない?
嫌○のヘイトデモなんか これまであまり見たことないような すごい憎悪の念を感じる。
ただ。。。それはほんとうに隣人たちに向けられたもの?
実は お互いに 怒りを呼び覚ますスイッチの押し合いをしちゃってるだけ、なんてこと ないですか?
せめぎ合いを促すのは、実は 今ここの問題意識以上に 氣づかず抱え込んでいる 遠い昔の怒りなのでは?
今世の中で起こっている大小さまざまな問題、そのほとんどが 賛成反対の二元対立の図式の中にあるけれど、敵とみなす相手をどれだけ責めても氣持ちは収まらないし、きのうも書いたように 責められる方は 反省するより先に防御や反撃に回っちゃうから、どこまでいっても平行線、結局は力押しでの一時しのぎの決着で終わってしまう。
争いの火種は どこまでも持ち越し。
そもそも 敵あっての「敵対」なのだから、対立すること自体が 敵を生み出しているともいえるわけだしね。
今のままどこまでいっても ほんとうの解決に至ることはないって、もう多くの人が うすうすわかっているのではないでしょうか?
最近「無気力・無関心層」と呼ばれる人が増えているのは、現状では解決が見出せないことをなんとなく感じ取り、なのにそれに代わる解決法が見つからないことに絶望して、「もういっそ見ない・聞かないで 刹那的でも今を楽しむ方がマシ」と考える人が多いからなんじゃないかな?
その一方で、新しい視点から問題にアプローチする動きも あちこちで生まれているみたい。
「電力会社を敵視しただけで原発問題が解決するわけではない」とおっしゃる ドキュメンタリー映画「六ヶ所ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」の鎌仲ひとみ監督みたいに、敵対することをやめ 新しい方向を見出そうとする人も、確かに増えていると感じます。
12日の「戦わない解決」でも書いたけれど、戦いで恒久的平和が得られたためしがないことは 長い歴史の中でもう十分証明されているものね。
二元対立を離れての 私見「戦わない解決」、私なりの色合い・偏見をますます強めつつ 続きます。