毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

戻るだけ

2013年10月30日 20時26分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


心の問題に取り組んでいて よく出会う、「否定的なことを考えず 前向きでいなさい」的なアドバイス。

そのとおりだと思う、思うんだけどね。。。

じゃあ どうすれば、ウン十年強化し続けたネガ思考回路を 前向きに切り替えられるのよ~?

と、犯人の名前が明かされずじまいの推理小説を読まされたみたいに恨みがましい氣持ちに よくなったものですが(^_^;)

今にして思えば、そこを試行錯誤しながら体験するのが 肝なんだよね☆

すべて答えが用意されて それをなぞるだけだったら、ほんとうの自分を体験したいという望みは果たされないし、わざわざ不自由な立場でこの世に生まれてきた意味もない。

ということで、以前はそこまではっきりわかってはいなかったけど、とにかく 繰り返し過去のネガ思考パターンに引き戻されつつも、あきらめず 思いつく限りのことを試みてきたわけです。




で、最近氣がついたのだけれど。

私、長い間 「前向きでいなさい」ということを、「否定的な自分をねじ伏せて、肯定的なものに創り変える」、つまり「前向きな自分を新たに創る」イメージで捉えていたらしい。

でも 今になって、新しく創るがんばりはいらないんじゃないかって思えてきたんです。

「否定的」な自分は 後付けだけれど、「前向き」っていうのは どうやらもともとの自分そのままの性質らしい。

もっと正確に言えば、ことさら前も後ろもなく、何を否定することもなく、ただ自ずと 幸せで 豊かで 満ち足りて 光の世界にある、それがもともとの自分というものらしい。

だから、努力して新しく創る必要なんてなくて、もともとの自分に ただ戻るだけでいいんだと。




そもそも、否定的な刷り込みは、往々にして 脳の配線が未完成の三歳ごろまでに、つまり、まだ言葉を身につける前の年齢に、理屈抜きで 取捨選択の余地なく 丸ごとそっくり取り込まれてしまうもの。

理屈抜きで刻み付けられたものを、あとから理屈で肯定的な情報に置き換えようとしても、乳児や幼児を理詰めで説き伏せられないのと同じで 土台無理な話。

「創り変える」イメージで 何度トライしても、すぐまた元の木阿弥で引き戻されてしまったのも うなずけます。




そんなときに、「否定的な感情を生むおおもとである からだの反応に注目する」という情報をもらいました。

当初は直感だけで受け入れたこの情報、ものは試しと実践するうちに、実際の効果と相まって 理解が追いついてきました。

からだの反応は、これもまた 理屈をすっ飛ばして起きるんですね。

スイッチが入ったとたん、ああだこうだ考える暇もなく反応しちゃってる。

怒りや悲しみなどの感情は、その反応に連動して あとから湧いてくるもの。

となれば、無条件の刷り込みに対しては、派生する感情をどうこうするよりも、理屈抜きのからだの反応に対応するほうが 理にかなっているし、実際にうまくいっているのだと。




で、そうやって 異質な感覚を 見つけては手放し、見つけては手放しを繰り返してゆくうちに。。。

ごくときたまではありますが、どうやら 本来の穏やかな自分が、思い込みの自分の向こうから ちらちらと顔をのぞかせ始めたようなのです。

立ちこめる雲がところどころ薄らいで、お日さまの光が漏れるように。

「雲」が 三次元の意識によって作られた“ニセの自分”なら、本来の自分は、新たに登場したり生まれたりしたわけじゃなくて、ずっと前から そのままの姿でそこにいたんですね。。。ただ隠されて見えなかっただけで。




まだまだかすかなものではありますが、体験してみてわかりました。

本来の自分と再び相まみえるのに、何かをする必要なんてなかった。

覆い隠しているものが 実はそこにないもの、あると思い込んでいただけのものだと 氣づくだけでよかったんだ。

「神との対話」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)で、「しなければならないことは、何もない」っていう一節があって、それが長いことわからなかったんです。

いやいや、こんな困ったちゃんな自分、しなければならないこと山積みでしょう!?って(>_<)

ようやっとわかってきました。

ただ ありのままに戻るだけでいいんだと。




今の世の中では、大人も子どもも、力をつけて 立派になって 目に見える成果を上げて 自分の価値を証明しなければならないっていう強迫観念が 強く刷り込まれてるんじゃないかなっていう氣がします。

そうやって まわりから認められないと 生きてゆけない、みたいな。

そんな観念が、よくあろう・よくなろうとする人たちの足を引っ張っているのかもしれません。

私もそんな価値観を引きずっていたから、カン違いで ずいぶん遠回りをしちゃったんだなぁ(^^ゞ

でも 実のところ、そんな不安にかられているとき 一番自分を認めてないのって、他ならぬ自分自身なんじゃないのかな。

不安の雲を払いのけて ありのままの自分を認め、ありのままでいられるようになったら、もうそんな観念に振り回されることはなくなるかもね(^_-)




・・・・と氣づいたからといって、いきなりビフォーアフターみたいな劇的変化を遂げたわけではなく 相変わらずの私ですが、ややこしく考えて力んでいたのが すぅーっと楽になったのは確か。

これからのことも、どう進んでいけばいいのか とりあえずの方向は鮮明になったから、改めて意欲的になれたしね♪

というわけで、あれこれ余計なことは考えず、ひたすらからだの感覚に注目する日々が続いています。




どうやら「かえる」道のりっていうのは、どこまでも 誤りに氣づいて 本来へと戻る道筋のようです(^^)