毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

時間という幻

2014年07月08日 15時08分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その衝撃は、一冊の本からやってきました。

これまた私のバイブル本、西サモア・ウポル島の酋長ツィアビの演説集、エーリッヒ・ショイルマン著 「パパラギ」。

「パパラギ」 とは サモア語で 「空を破って現れた人」、つまり 宣教師として初めてサモアにやってきたヨーロッパ白人をさす言葉。



    そう、彼(パパラギ)は日々の新しい一日を、がっちり決めた計画で小さく分けて粉々にすることで、神と神の大きな知恵をけがしてしまう。

    柔らかいヤシの実をナタでみじんに切るのとまったく同じように、彼は一日を切り刻む。

    切り刻まれた部分には、名前がついている。 秒、分、時。

    秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。

    分が六十と、それよりずっとたくさんの秒が集まって一時間になる。

    このことはとてもこんがらかっていて、私にはまったくわけがわからなかった。

    だいいち、こんな子どもっぽいことに必要以上頭を使うのは、ただ不愉快になるだけだったし。       (「パパラギにはひまがない」 より)

                                                                        


幼いころから 当たり前に時計のある暮らしになじみ、その存在にいささかの疑問も抱くことがないまま 二十年を過ぎたところで、いきなり突きつけられた 目新しい視点。

固定観念が ど~んと揺さぶられました。

時間って、なんだろう?

なんのためにあるんだろう?





で、その後も 長きにわたって 時計の支配に組み込まれた暮らしを送りながらも、いっとき属していたグループの長の影響で なるべく時間というものから距離を置く(時計を身につけない、時間での約束を極力しない、など)ようになり、また その存在に疑念を差しはさませるような多くの情報と出会ってきたわけです。

中でも、「はてしない物語」 の著者、ミヒャエル・エンデ作の 「モモ」 の影響は大きかったと思っています。

さらに、それまでなんとなく知ってはいた 「パラレル・ワールド」 について目を開かせてくれた、「神との対話」 と 「ONE」 の存在。

そして、以前ここでも書かせてもらった、伊勢神宮への旅で、五十鈴川のほとりで 川面に舞い落ちた一枚の木の葉から パラレル・ワールド概念がすとんと取り込まれた体験を経て、すっかりあやふやになった時間意識を いっそう大きくぐらつかせてくれたのが、先日の「終わらせる」でご紹介したブログ 「HARMONIES」 のこの記事。



       時間軸再設定セミナー その1   時間軸再設定セミナー その2   時間軸再設定セミナー その3   メビウスの輪から銀河の中心へ



理数系論理思考にてんで弱い私、せっかくのお話をきちんと理解したとは言いがたいながらも、時計の針の先端に振り回されず、自分がその中心に立って 時を御する、というイメージだけは しっかり取り込ませてもらったのです。

そして、このイメージを引っさげて臨んだ 白浜での「実地研修」で、からだが三つ欲しいような忙しさの中、「物事はみな 意味あって起きているのだから、そのすべてに過不足なく収まる場所があるはず」 「時間が足りないという状況は、目の前のなすべきことに集中せず、焦りや苛立ちから氣持ちを乱すことで 自ら起こしている事態に過ぎない」という氣づきを得るに至りました。





で 今思うのは、


              とにかく いま ここ しかない  それだけでいい



つくづく 深まるほどに シンプルになってゆくものですね、氣づきって。





結局、時間というものは、私たちの頭の中にしか ないのですね。

ツィアビ酋長が言ったように、一日を 思いつきで 細かく分割してみる、やりたければやっても構わないけど、だから何?っていう話。

言ってみれば 子どもの遊びのようなものだったのを、人類共通のものさしに据え 権威を持たせたところから始まった、いのちの衰え。

だって、私たちのこの生きているからだには 「いま」 という時しかないのに、このものさしのおかげで 絶えず 「いまの前」 や 「いまの後」 を意識しなくちゃならなくなったんだもの。

で、みんな 今生きている自分と 記憶や予想の中の自分に 分裂し続けることに。

これも、本来のあり方からわざわざ離れようという 「行き」 の道にはフィットしていたけれど、現在の 「かえる」 道のりには どんどんそぐわなくなってきているんですよね。




「自分ではないもの」 を手放すほど 五感を超えた世界への信頼が増し、ふとしたひらめきや思いつきに従って動くことに抵抗がなくなり、またそのほうが間違いがないことを実感するようになります。

そうなってみて初めて、このものさしが いのちという観点から見て およそ実用的でないことを思い知らされるのかもしれません。

いのちの営みは、言ってみれば 常にアドリブで成り立っています。

今に焦点を合わせ、なにがしたいか、しようと思うか、瞬間瞬間すくい取って 素直に動く、その連続が 「生きる」 ということ。

時計に従って あらかじめ入れておいた予定に いのちは通っていません。

いのちが いのちでないものに制限されることを許したら、それはもう エネルギーを削がれて やせ細ってしまうのも当たり前ですね。




ちょうど 「パパラギ」 と同じころに愛読していた、桐島洋子さんの 「マザーグースと三匹の子豚たち」 に、


    ・・・・こんな結構な浜が近くにあると、潮の干満をいつも意識するようになる。

    そのかわり、日付や時間を氣にすることが少なくなった。

    「引き潮までに帰っていらっしゃい」 とか 「ハナミズキが咲いたら会いましょう」 とか 「次の満月に間に合わせるわ」 とか、

    近ごろはもっぱら自然のサイクルを暮らしの目安にしている。


という一節がありますが、やはりいのちに近くなるほど、時計やカレンダーから遠ざかるというのは、自然なありようだと思うのです。





いのちから外れる流れに追い風が吹く時代は、もう終わりました。

今追い詰められたように感じている人たちが、その苦しさに促され 方向転換する動きが 水面下で加速しているんじゃないかな。。。な~んて想像して なんだかうれしくなっている貴秋です。





ちなみに、わが愛読書 「パパラギ」。

ツィアビがヨーロッパの国々を回り 観察したことをもとに、島民に語って聞かせた 文明社会への批判や意見の書き起こしであるこの本、初版は1920年、時間概念のみならず、それまで当然と思っていた多くのことについての固定観念を打ち壊すさきがけとなった インパクトある導きの書です。