毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

おもてなし

2014年07月11日 18時35分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あのお茶のお稽古のなつかしい思い出から さらに発展して、

そっか~

っていうところに思い至ったお話です(^^)





小学生の私が あのときあんなにもくつろいだひとときを過ごせたのは、何よりも 先生が そういう空間を創ってくださったから。

まったくゼロからのスタートだから、先生がおっしゃるとおりに所作をこなし、先生のなさることをいちいち真似ながら 進んでいくわけですが、せっかく覚えても、1週間経つと、次のお稽古のときは もうあらかた忘れているわけで (^^ゞ

でも、それで叱られるわけでもなければ、きちんと覚えることを強要されたり 宿題を出されたりしたこともなく、また一から教わりながら、淡々と進んでいく。

だから、余計な氣を回したり頭を使ったりする必要がいっさいないまま、ただひたすら お茶室の雰囲氣に浸り込み、先生に支えられ 先導してもらっているという安心感のもと 純粋にお手前を体験できたわけです。

また、一緒に通っていた親友も、騒いだり自己主張したりというところがまるでなく、穏やかでおっとりしてて ほのかなユーモアも持ち合わせた子だったので、すんなり場に溶け込んで 違和感ない空氣をかもしだしてくれていて。

そんな場だったから、安心して 丸ごと自分を預けて ゆだねていられたんですね。





・・・・とここまで思いが進んだところで、あ! と思い当たったのが、読み聞かせのこと。

あそこもちょうど あのお茶室と同じようなことになっていたのかな、って。





本を選ぶとき、内容がわかりやすいかなとか 明るく楽しいお話がいいかなとか、いろいろ考えることはありますが、一番重要視するのは、自分自身が読んでいてワクワクする、楽しめるお話であること。

だから、読みながら自分もお話の中に入り込んで、お話の氣持ちそのものになっているんですね。

もしそこに、ウケを狙うとか 知識を詰め込もうとか よけいな計算を持ち込んだら、お話とも場の空氣とも分離して、子どもたちが夢中になってくれるような空間は生まれないんじゃないかな。

私が単純に楽しんでいて、そこに子どもたちも乗っかって楽しんでくれているのかもしれないね。





と、このように お茶と読み聞かせが重なったところで思ったのは、

おもてなしって こういうことだったのか~

っていうことでした。




お茶席で、見栄を張るとか ひけらかすとか よけいな演出をいっさい排して、動きもシンプル かつ優美に 洗練を極める、その奥には、お客さまに安心してゆだねてもらい、お茶を飲むことそのものを味わい尽くしてもらえるような場を創るという 細心の心遣いが込められているんですね。

ひるがえって、わが読み聞かせの場に そんな心遣いをした覚えはまったくないけれど、ただひとつ、自分自身が幼い頃から 両親をはじめ まわり中の大人にしょっちゅう本を読んでもらって、その心地よさは身に沁みていました。

そして、自分ひとりで本を読むようになってからも、お話の世界に入り込むことが どれほどの楽しみや安らぎを与えてくれるか よぉくわかっていたし。

だから、誰よりもまず自分がお話を読むことを単純に楽しめる場を 無意識のうちに創っていて、それが子どもたちにも伝わったのかなって思います。

そして、それを無邪氣に喜んで受け取ってくれる子どもたちに、私のほうがもてなされてもいたんですね。

また 先生方も、読み聞かせのときは 子どもたちに混じって、場からはみ出しそうな子がいれば さりげなく連れ戻すなどの氣配りをなさりつつも、受身に徹して 聞き手側に溶け込んでくださり、終われば 「ありがとうございました」 「楽しかったです」 などとねぎらってくださって、やはり場創りを 縁の下の力持ち的に助けてくださって。

無意識のうちに発していた私の意図を、やはり無意識のうちに みんなで協力し合って盛り立ててくれていた、っていうことかな☆





正式な茶道のことなんて何も知らない私ですが、漠然と見聞きしたことや 読み聞かせの体験と重ね合わせて、主側が心を込めて創った 体験とくつろぎの場を、客側が無心にゆだねることで 受け取って楽しむ、そうやって 双方から創り上げるのがお茶の世界であり おもてなしっていうことなのかな~、なんて思ってみたりして。

相手を喜ばせることで 自分も満足や幸せを感じるもてなし側と、それを素直に受け取って楽しんで、結果相手をも喜ばせるお客側と。

互いに 「 相手を喜ばせる = 自身の幸せ 」、つまり 手っ取り早く言えば、自他一体。





そして、このおもてなしが成立する肝心かなめは、その思いやりや受け取り方が、よけいな意図や下心なしに 純粋なものであること。

過去や未来に関係なく、いま ここ で 瞬間感じるものに素直であること。

見えない根っこに そんな氣持ちがあれば、見える形は どんなでもお好み次第。

毎日の暮らしにだって、お商売にだって、イベントにだって、いくらでも応用できる。

そんなお楽しみに夢中になるのが、いま ここ にいること、なら、みんなして そちこちで 無心に 「喜び 喜ばせ」 の暮らしを楽しむだけで、巷に漂っている不安なんて 吹き飛ばせちゃうんじゃない? \(^o^)/





。。。。な~んてことが、なつかしい思い出を発端に、一瞬のうちに駆け巡ったのでした




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