毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

盛夏ならではのお楽しみ♪

2014年07月27日 08時35分15秒 | 日々の楽しみ


きょうも この時点ですでにあっつぅ~いです

セミの大合唱、遠くから草刈り機の音、夏の風物詩だなぁ♪

きのうから梅干しの土用干しを始めました。

陽射しがあまりにも強烈なときは、それを生かせることをするに限ります。

厚地のものの洗濯、冬布団干し、乾物作り、などなど☆

また、掃除道具を洗って 殺菌を兼ねてがっちり干すと、次から氣持ちよく使えるし♪

こういうのって、照りつけが強いほど トクしてる氣がして、いい氣分になれるでしょ

またまた猛暑記録を更新したらしいきのうなんて、土用干しにはうってつけ♪

この調子なら、去年よりずっといい出来栄えを拝めそうです(*^^*)





人間がめげそうなほどの猛暑日には、ぜひドライトマト作りをどうぞ♪

ミニトマトを半分に切り、切り口を上にして ザルに並べ、ひたすら日に当てて干すだけ。

以前ドライトマトの作り方をいろいろ研究したことがあって、オーブンなどを使うのもいいですが、やっぱり最高なのは天日干し。

といっても 通常の陽射しで干しただけでは、干し足りずにカビてしまいやすいので、こういうケタ外れの晴天のときが狙い目。

異常と言いたいほどのトンデモ晴れだからこその、貴重なドライトマト日和♪

切ったトマトに ぱらりと塩を振って、キッチンペーパーなどで水氣を吸わせると 乾燥させやすいですが、欲張りな私は トマトの濃厚なエキスをムダにしたくないので、切っただけでいきなり日に当ててます。

数日がかりで干し上げ、水氣がなくなり、二まわりぐらい縮んで 全体にぐにゃっとレーズンっぽくなってきたら、出来上がり。

すぐ使うならそのままでもいいですが、天日干しは 常温でも冷蔵でも やはりあとあとカビやすいので、オリーブオイルに漬けておくと、長期保存できます。

干したてのをそのままパクッといただくと、トマトの濃縮した旨味がもうたまりません

おやつにもおつまみにも最高! \(^o^)/





青ジソの乾燥したのも、長期にわたっていい香りを楽しめます。

さっと洗って水氣をふき取ったシソの葉を、ザルに並べて 陰干しするだけ。

家の中で、お天氣がよければ 一日で乾くから、お手軽です。

こちらは しっかり乾燥させてあれば まずカビたりしないので、ビンに詰めて 常温保存OK。

海苔と同じように 手でもんで細かくして、薬味にしたり、うどんやパスタにかけたり、ご飯に混ぜたりと、何にでも使えます♪





夏の暑さを逆手に取った お楽しみの数々で、毎日をいい氣分ですごしましょ♪

常温暮らしの貴秋、きょうもばりばり元氣です (⌒∇⌒)ノ





















自由選択

2014年07月27日 06時42分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


突然 胸の奥から痛みがこみ上げてきて、涙がにじむことがあります。

それも、え? なんで今? と思うような状況で。





書きかけのブログを うっかり消しちゃった、とか、洗濯機のスイッチを入れ忘れて ぜんぜん洗えてなかったとか、きちんと保存しておいたはずの食品が傷んでいた、とか。。。。

それはまあ ショックなのはわかるけれど、この深くインパクトある痛みは、そんな日常的な原因と ダイレクトにつながっているようには どうも思えない。

これはぜひとも探らねば、と 痛みのもとをたどってみると。。。

まだ言葉もしゃべれないほど幼かったころへと導かれます。





生まれて間もないころの私たちは、まだ “大いなる ひとつ” であったころの記憶や感覚を 多分に残しているようです。

だから、頼りない身の赤ん坊も、少しも心配していない。

ありのままの自分でいるだけで大丈夫、万事滞りなくうまくいく、と信じ切っている。

それが、すでに本来のあり方からだいぶかけ離れてしまった大人との関わりによって、いきなりガン!と 違和感の壁にぶち当たり、なにこれ!? なんで? とショックを受けるようです。

こんなはずでは。。。。なんでうまくいかないの? と、思い通りに進まないことへの恐怖や痛み、いらだちをを覚えるようです。

実際にそんな年ごろの記憶が残っているわけではないので、直感の示唆の下、あとは想像を働かせるしかないのですが (^^ゞ





で、ショックを受けるたびに、わぁ~っと泣いて発散してしまえば それで済むのだけれど、少し大きくなって、「泣いちゃいけません」 「怒っちゃいけません」 と押し留められてしまうと、抑圧された感情が 行き場のないまま内に溜まって、持ち越しとなるようです。

そして、解消できるだけの力がついたと判断されたとき、なんらかのできごとがきっかけとなって 突然記憶のフタが開いて、わっとこみ上げてくる、と。





私たちは、幼時の記憶が抜けているから、どうしても目の前のできごとと 上がってきた痛みや涙を直接結び付けてしまうけれど、そのできごとというのは、実はそのほとんどが、押し込められていた痛みや涙を誘い出すきっかけに過ぎないみたいです。

期待していた結果が起こらず失望した → 自分への信頼が揺らいだ、というパターンは 昔も今も共通なのだけれど、できごと自体と湧き上がる感情との度合いが違い過ぎる。

この二つがつり合っていないと、自分のことでも他人のことでも 「感情に走りすぎ」 「大人氣ないなぁ」 などと異様に思ってしまうけれど、幼い子どもが感じた怖れや悲しみだったとわかれば 理解できます。

否定も非難もせず、ずっと持ち越されていたそれを しっかり味わって表現して 終わらせればいいだけです。





身のまわりで頻発するトラブルを 苦の種にしていたころもあったけど、あれは 自分の心のありようを知らせるとともに、押さえ込みっぱなしだった感情を解放するチャンスを与えてくれてもいたんですね。

それを、「いい年してみっともない、情けない」 などと 大人の分別で またしても押さえ込もうとしたから、同じことを 繰り返し体験するハメになったのだけれど、痛いものは痛い、怖いものは怖い、と率直に認めて、その場で泣くだけ泣いて、怒るだけ怒って、出し切って終わらせてしまえば それでよかったんですね。





さらに、必ずしも自身の体験でなくとも、実話やフィクションなどを通じて流す涙も、うまく使えば 同じ役割を果たすようです。

そう氣づくと、泣ける小説や映画、ドラマ、ドキュメンタリーなどに これだけ人氣が集まるのも納得です。





この辺のことがわかってからは、不釣合いな感情でもなんでも、むしろ進んでたっぷり味わい ためらうことなく発散して、心の大掃除をさせてもらっています。

と同時に、人のことも なんでこの程度のことで こんなに怒るんだろう? 落ち込むんだろう? と驚いたりあきれたりしなくなりました。

表には見えないところで、その人なりにいろいろあるんだって わかってきたから。

大人氣なくてもみっともなくても構わない、自分のほんとうの氣持ちをわかって 受け止めて 解放してあげるだけで、自分もまわりもどんどんよくなっていけるんですものね。

一度しっかり出し切ったものは、それ以上は戻ってこないようです。

私自身、何度も繰り返すうち 残量が少なくなったのか、以前のように激しい感情の揺れが長時間続くことは ほとんどなくなりました。

その分、前にも書いたように 内と外のバランスがとりやすくなってきたのかもしれません。





長いこと、自分が悲しい思いや腹立たしい思いをするのは、そうさせるものが外にあるからだと思っていました。

でも実際には それは内側に、心の中にあったんだと氣づきました。

ある意味、外のせいにしてしまえば楽なんですね。。。。自分はなにもしなくて済むから。

でもそれは、自分は無力だと宣言するも同じこと、そして そんな意識どおりに 「無力な自分をいいように翻弄する」 世界が どんどん広がり 進行していきます。

自分の思いが 自分の世界を創るのだから。





ここから先は、各自の自由選択ですね。

あなたの世界をどんなふうにしたいですか? 今のままでいいですか?・・・・・連日目にするさまざまなニュースの見出しに 問いかけられているような氣がします。