毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

映画 「美しき緑の星」

2015年05月12日 21時10分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうも二つ目の記事アップです♪

きのう動画のリンクを貼らせてもらった フランス映画 「美しき緑の星」 。

すぐに消されてしまうかと思いきや そうでもなさそうなので 急いでご紹介したら、じきに消えてしまったようですが(^_^;)

あの記事の追記にも書いたとおり、私は3日間で4回見ました。




削除後にストーリーをご紹介するのもどうかと思うのですが、これからも動画や自主上映会などで まだまだ多くの人の目に触れる機会がありそうな映画なので、遅ればせながらあらすじを。




人々が 豊かな分かち合いの心を持ち、自然と調和した暮らしを営み、貨幣経済も 行過ぎた物質文明も はるか昔の話となった、ある美しい惑星。

この星からは、他の星の発展成長に支援の手を差し伸べるため 定期的に人が派遣されるのですが、その中で 地球だけは、あまりに原始的で意識が遅れていて危険なため 誰も行きたがりません。

そんな中、ひとりの女性が 「私行ってもいいです」 と名乗りを上げます。

さっそく地球に到着した彼女 ・ ミラですが、笑顔を忘れた人々、土も緑もほとんど見当たらない街、お金がないと何も入手できないシステム、からだに悪い食べ物や水、と いきなり難題続出。

そんなミラが 携えてきた 「切断プログラム」 。

前にも書いたように、人々本来の意識と 後付けの刷り込みによって思い込まされた概念を切り離す力を持っています。

やがてミラは、ひょんなことから “切断第一号” となった ある医師の家に世話になり・・・・




1回目に見たときは、いろいろと思い当たることもあり 面白いなとは思いましたが、想像したより淡々とした印象で、まあ一度見れば十分か、という氣持ちでした。

が、なぜか2回、3回と重ねて見るうちに、この映画の世界観にじわじわ引き込まれ 次第に愛着が湧いてきたのです。

面白いとか エキサイティングだとかいうのとは違う、親しみというか 懐かしさというか。。。。

ふとした折に浮かぶ 数々の場面が さまざまな思いを喚起し、見られなくなった今になって かえって味わいを増し、さりげなく身近に寄り添うような、不思議な映画です。

「美しき緑の星」 にまつわる話、これからも時おり挟み込ませていただくかもしれません(^^)




おしまいに、この映画の監督兼主演女優(ミラ役) ・ コリーヌ・セローさんのメッセージを。




世の中の仕組みを根底から問い直すクレイジーな映画を撮ってみたいと思いました。それで長い時間をかけて考証を行ったのです。無駄になったシーンやアイデアを書き留めたノートが何冊にもなりました。次から次へと疑問が生じたのですが、そのすべてに答えが得られたわけではありません。

そうして、風にそよぐ木々に見守られながら、台本の執筆に取りかかったのでした。完成した台本を見た人たちの反応は実にさまざまでし た。このプロジェクトの資金援助には乗り気でない人たちが何人もいるとプロデューサーのアラン・サルドが言います。「本当にこの映画を撮るつもりです か?」と彼が言うので、私は熱を込めて「もちろんです」と答えました。かくして映画は封切られたのですが、完全な失敗でした。誰も興味を示さなかったのです。客が入らず、批評家からは酷評されました。業界にとって、この作品は理解不能のUFOだったのです。しかし、この映画は死にませんでした。

こうした逆風にもかかわらず「美しき緑の星」は生き残り、生き物のように成長し話題となったのです。必要とされているからでした。この映画が世の中に発するメッセージのためだった。一緒に映画を見て語り合う「美しき緑の星」クラブのサイトが、いくつもネット上に見られるようになりました。

私は早すぎたのでしょうか? この映画のように価値観を根底から問い直すことで世の中を変えることが必要な、ぎりぎりの瀬戸際まで私たちは来ているのかもしれません。



コリーヌ・セロー





















行き先不明も面白い

2015年05月12日 09時37分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今から7年ぐらい前になるのかな・・・彗星探索家で臨死体験者の木内鶴彦さんの講演を 立て続けに4回ほど聞く機会があったのですが、その中で 奇妙なことに氣がつきました。

話の内容によって たやすく記憶されるものと 何度聞いても記憶に残らないものとがあるのです。

理数系に弱い私のこと、天文学 ・ 科学分野の話が頭に入りにくいのは不思議ではありませんが、木内さんが臨死体験を超えて ほとんど死亡体験といっていいような状況で 時空を超えて見たさまざまな世界の、歴史的 ・ 宇宙的な話題などについても、とても面白いのに どうしても記憶にとどめられない。

その一方で、里山の循環だとか 未来の経済のあり方、木内さん的アセンション論などは、人に伝えられるぐらいしっかり残っているのです。

まあ 関心のあるものほど身が入るから、留まり方に差があるのは 当たり前といえば当たり前なんですが、ただ その抜けっぷりが半端ないというか。

学生時代 テストのたびに一夜漬けで鍛えた短期集中記憶には 今でもそこそこ自信があるのに(笑)、このとき覚えられなかった話題については、今度こそ覚えてやるぞとすごく意識し 集中して聞いていたにも関わらず、あとになってみると その部分の記憶にぼかしがかかったようになっていて、単に忘れたというより むしろ意図的に見せまいとでもしているかのようなのです。

いったいなんなんだ、これは。。。。とずっと不思議だったのですが、あるとき不意にひらめきました。

記憶に残らない情報は、私の人生やお役目には関わりがなく (少なくとも今現在は) 不要だから残らないのだ。

だから それは抜けるに任せて、もっと自分に必要なことや意味のあることに集中しなさい、ということらしい と。




自分が思いもよらないほうへと導いたり 遠ざけたりしてくれる力の存在については、前から感じていましたが、こんな形での働きかけは このとき初めて知りました。

また、集中を妨げないためばかりでなく、繰り返し接するものに いつも新鮮な氣持ちで出会えるように、という配慮から 記憶を薄れさせる場合もあるようです。

心友に教わった 「エンジェルナンバー」、お氣に入りの占いと並んで よく自分の氣持ちを確かめる手がかりにさせてもらいますが、これも 同じ数字の項目を何度読んでも 内容がほとんど頭に残らない。

CMだって 10回も繰り返せばたいがい覚えるだろうに、と おかしいやらあきれるやらなのですが、確かに 毎度おなじみの数字に、ああまたそれ?もうよ~く知ってるし・・・と退屈に感じるのと、おお、こんな意味が! と毎回感動できるのとでは、信頼度が大きく違います。

また同じ文言、と思い込むと、ていねいにその意味を読み取ろうとする意欲が落ちてしまいますから。

そのつもりで読むと、同じ文でも その時々のシチュエーションによって違う意味合いを帯び、いい手がかりをいただけるメッセージです。




記憶に限らず、顕在意識が氣づかないところで、潜在意識がいろいろと配慮し 取捨選択して 私たちを守り導いてくれるというのは、頻繁にあることのようです。

だから、自分が意図したのと別のところで あれ? とか あらまあ、とかいうことが よく起こる。

以前は 起こっていることすら氣づいていなかったけれど (^^ゞ




      「人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと」


これは、写真家 ・ 星野道夫さんの友人で、著書にもたびたび登場する シリア・ハンターさんの言葉。

初めてこの言葉に出会ったときには よくわからなかったけれど、今は(私なりの解釈なのだろうけれど)大きくうなずけます。

意識できる範囲で立てる計画は 氷山の一角に過ぎない、もっと大きな私 ・ もっと大きな意思があり、それに沿って 人生は動いていくんだなって。

そう頭ではわかっていても、自分の思い通りに事を運びたいと執着してしまうことも まだまだあるのだけれど、あとから見ると、大きな意思に運ばれた先というのは、自分の小さな計画より はるかにスケールの大きい視野から選ばれた最善の場だと 思い知らされるんですね。

何度もそんな体験を重ねて、前よりジタバタせずにお任せできるようになったかも☆

1ヶ月、いや 1週間先のことさえまったくわからない今の暮らし、不安でないといえばうそになるけど、愛着も深いのです。