毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

この道の先に (*^^*)

2015年05月22日 07時27分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


映画 「美しき緑の星」 の動画、相変わらずいたちごっこのようで、見つけたと思うと じきまた消えてしまうので、なかなかご紹介できません。

探しておられる方は、検索をまめになさると うまく行き当たったり、上映会のお知らせに出会えたりすると思います♪

       


なんだか最近このブログ、金太郎飴のように “どの記事切ってもこの映画” という感じですが(笑)、それは この 「美しき緑の星」 が単なるファンタジーや絵空事ではなく、監督兼主演女優 コリーヌ ・ セローさんのメッセージにあったように、「世の中の仕組みを根底から問い直すクレイジーな映画」 として とことん作り込まれているからではないかという氣がします。




もちろんフィクションですから、未来の暮らしでは、家を持たず戸外で寝起きする、とか、家族ごとに 空中ブランコだの アクロバティックなロープ運動だのを得意とする、とか、そういうことが 実現するかどうかはわかりません。

そういった目に見えるところではなく、見えない根っこのありかたっていうのかな、その辺に 「行って かえる」 の 「かえる」 道のりと重なるものを感じるのです。




「行き」 の道々で、本来のあり方からどんどん遠ざかりつつ くっつけてきた、さまざまな観念や欲や尺度。

そして、それらをひとつひとつ見つめ直しては 手放してゆく、「かえり」 の道。

もともとの自分に戻るだけなんだから、と言ったって、山ほど抱え込んでしまった “自分でないもの” に取り巻かれて、もともとがどんなだったかなんて、すっかり忘れて見えなくなっている。

それでも、「このままでは なんかおかしいぞ」 という心の奥の小さな声を ふと信頼したとき、手探りの長い旅が始まります。



迷って 悩んで、ときには 不安に絡めとられ、立ちすくんで動けなくなって。

しかも、自分自身のことでありながら、本来の姿のイメージがなかなか湧かないから、目的地が見えにくく、どこを目指せばいいのかよくわからない。

自分はいったいなにやってるんだろうって、混乱して わけがわからなくなることも。

そんなときに、この映画の 高次の意識を持った人たちのありようを目の当たりにすると、ああ! と どこかほっとするのです。



「美しき緑の星」 の住人たちの、舌のみならず からだの細胞1個1個までが喜びそうな 新鮮な食物、完全にからだとひとつになった感覚を味わい楽しむ運動、頭を忙しくし 感覚を麻痺させるためにあてがう種々の娯楽を必要としない シンプルな暮らし。

前にも書いたように、欠けやとんがりのない まろやかで満たされた心があり、自他の壁がないに等しい そんなありようが当たり前になって初めて、無理なく自然に成り立つ生き方なんじゃないかな。

私もまだとうていそんな境地にはたどりついていませんので、想像がかなりの割合を占めていますが ( ̄ー ̄;)ゞ




もし今私が あの共同体に仲間入りしたら、たちまち第一級の問題児になること請け合いです(そんなこと請合ってどうする)。

まだまだ ざらつきやイガイガが残っているこの心を あそこに持ち込んだりしようものなら、人や自然が見事に融和した 絶妙なバランスを、きっと大きく揺らがせてしまうことでしょう。

ほんのわずかなアンバランスが、たちまち調和をかき乱す、人の心って そんな微妙さがあるような氣がします。

地球人の血が混じっていると知れたら 追放の憂き目を見るかも、というオザム(だったよね?)おじさんの心配も ある意味もっともです。

逆に、多くの穏やかな心に囲まれて 共振共鳴することで、こちらの歪みが正されるなら、とても幸せなことですが




今の私は、まだあの星の住人にはなれそうもない。

でも 行く手には、あんなふうに 「満ち足りているからこそ 多くのものを必要としない」 暮らしが きっとある。

自分ではないものを手放し続けるうちに、形はともかく、あの星の人たちの精神が きっと実現する。

なんとなくだけれど そんなふうに思える、だから この映画に 深い親しみを覚えるのかもしれません(^^)