毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ブラックボックス

2013年10月14日 17時17分51秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


中身がなにかわからないポットにお湯を注いで傾け、緑茶が出てくれば緑茶の葉っぱ、紅茶が出てくれば紅茶の葉っぱが入っていたんだな、とわかります。

でももし、緑茶の葉っぱとお湯を入れたはずなのに、出てきたのが紅茶だったら・・・・・(^◇^;)




プロセスの初めと終わりだけは見えるけれど、なぜそういう結果になるのか 過程がさっぱりわから~ん という仕組みを、ブラックボックスといいます。

そして、人生に不満を抱えながら、どうすれば望む変化を起こせるのかわからない人の思考回路って、世にも壮大でややこしいブラックボックスだと思うんだよね





とにもかくにも怒りっぽい私、それは 生まれ持った性格なんだと ウン十年の長きに渡り 思い込んでいました。

そして、やたらイラッとくるのは、まわりの人や状況がそうさせるからだと。

いや待て自分、それはほんとうにそうなのか!?

当然と思い込んでいるうちは そこで思考停止、が、絶え間なく悩まされる状況に たまたま出会った情報が揺さぶりをかけ、疑念が差し挟まれたら、ブラックボックス解明のチャンス到来。




いくらブラックで仕組みが見えないといっても そこは自分自身のこと、理想や望みに実際の行動が伴わないなら、その理由は 記憶の表面に上がってこないだけで、探せばどこかに必ずあるはず。

今は、さまざまなセミナーやセラピー、ワークショップなどで 力を貸してくれるところもあるようだけれど、私はひたすら 本やサイトの手がかりを頼りに 自力でトライしたので、そちらについてはよくわかりません。

いや、あるひとつの講座にだけは、十年以上の長きに渡って参加し続けたんだっけ。

今にして思えば、それまで三次元視点しか持たなかった私に 高次の視点の存在を教え、新たな視角や発想を植え付け、「行って かえる」の「かえる」道を歩む土台を育んでくれた、重要な場だったなぁ。

そことの決別は、さあ 準備は整ったよ、いよいよここからはひとりで行くんだよ、という 天からの促しだったのでしょう。

そこから先は、共依存だのインナーチャイルドだのと 親子関係のひずみがのちのちに影響するような 心理学的な情報をヒントに、ひたすら自分の中に沈潜して 記憶を辿りながら「なぜ?」「なに?」と問い続けた、それだけ。

でも 面白いことに、「問えば必ず答えは得られる」ものなんですね。

すぐとは限らないけれど、問いかけておけば、しかるべき時に必ずなんらかの形でひらめきがやってきます。




幼少期に遡るほど 記憶がおぼろげになっていく中で、ときおりぽつんぽつんと鮮やかに残っている場面ってあるでしょう?

あれって もしかすると、こういうときの手がかりとして 個人の意思を超えた(魂レベルの)ところで 意図的に残された記憶なんじゃないかって氣がします。

私の場合、大きくなってから 特に意味もなく繰り返し再生されていた断片的な記憶が、このタイミングで 次から次へと手がかりとして その意味をひも解かれていったから。

大音量で鳴る雷の中、怯えて食事が飲み込めなくなり、母にひどく怒られている場面。

外出先で たまたますれ違った知らない子に、しっかり握り締めていた赤とピンクの風船のどちらかひとつを 母に促されて(たぶんその子がうらやましがって駄々をこねたのでしょう)あげる羽目になり、渋々ながら どちらの色を渡すか悩む場面。

いずれも3歳になるやならずやの頃のことだったと記憶していますが、ただの思い出でしかないと思っていた そんな数々の場面が、突然「ああ、こういうことだったのか!」と、今の自分のひずみやねじれとつながって、新しい意味を持ってくる。


魂レベルでいえば、仕込んでおいたものが しかるべき時が来て、予定通り発動したってところかな☆




自分で体験してみて、こういうのって 理屈じゃないなと思います。

内側の世界で こういうときものを言うのは、「意志の力」のような氣がします。

今の自分にはない、と思える素質や記憶でも、それを持とう、思い出そう、というまっすぐな意志があれば、多少時間はかかっても 必ず道が開けるようです。

問いと答えでは 答えの方が先にある、っていう話を以前書いた記憶がありますが。

答えは最初から自分の中にあって、問うことで引き出されるのを待っている、と。

だから、難しいのは 答えを得ることじゃなく、正しい問いを立てることのほうなんですね。

そして、問いかけの原動力になるのが、「このままではいられない」という状況。

解決したいという望みが 解決しようという意志へとつながり、的確な問いを導き出してくれる。

ほんと、うまくできてるなぁ♪





なんであれ、イメージできるものは すべて存在している、という話があります。

今の自分が 望む素質や記憶をとうてい持っていると思えなくても、それがイメージに上がってきた以上、必ずどこかにあるのです。

だから、ほんとうに欲しければ、必ず手に入れるぞ!という意志を 遠慮なく持っていいんです。

きっとそのとおりになります(^^)





さて、こうやって 一歩ずつ歩みを進めて、ブラックボックスの謎を解き明かしていくんですね。

なぜ 特定の状況や 特定の相手に 怒りを爆発させずにいられないのか。

なぜ 望んでいるのに 実行する前から諦めてしまうのか。

なぜ 従うべきとわかっていながら 反抗心を抑えられないのか。

この過程で、自分の真の望みを明確にしながら、その実現を妨げるものを ひとつひとつ見つけていく。





そんな作業を 数年にわたり こつこつと続けてきたわけですが、それからどうなったかといえば。。。

次に続きます



















身を持って知る 「三つ子の魂百まで」

2013年10月13日 18時53分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


人って、生まれたての頃が一番 “大いなるひとつ” であった頃のありように近くて パワフルなんじゃないかなぁって思います。

赤ちゃんは、あんなに無力で無防備なのに、自分自身にも 周囲の世界にも なんの不安も疑いも持ってなさそう。

ただ心を開いて 澄んだ瞳で 無邪氣ににこにこ笑っているだけで、誰もが心を溶かされ、その子を大切に世話し 守ってあげたくなる。

赤ちゃんを見ていると、無垢な愛情と信頼こそが この世でもっとも強い力だと 苦もなく信じられる氣がします (*^ー^*)



でも 残念ながら、いつまでもそのままでいられるわけではなくて。。。

大半の赤ちゃんたちは、まわりの大人を通じて、いつも自分の意図がまっすぐ受け止めてもらえるわけではないと思い知らされることになるのですね。

そうやって、だんだんと生まれ持った力や純粋さを失い、本来とはかけ離れた歪んだ世界観を刷り込まれていく。



三次元視点で見ると「うわ、大変」って感じだけれど、魂の見方からすれば これも生まれる前からの計画通り、「行って かえる」の行きの道のりを構築するための いわば“仕込み”なんですね。





まだ自分のことをまるでわかっておらず、一人前だ、出来る奴だ、なんて思い上がっていた頃でさえ、やたら荒れ狂う怒りや 常に立ちこめる不安、重苦しく胸をふさぐ不平不満などの感情には 手を焼いていました。

その後、環境を変えたのをきっかけに、自分の負をいやおうなしに目の前に突きつけられる機会が増え、どうにかせねばと苦闘する中、これはと思う数多くの本を読み、サイトを渡り歩いて、おおぜいの先達から たくさんのありがたい智恵をもらいました。

が。
ほぼすべてに共通する智恵として、感情のコントロールの大切さについて書かれているのですが、じゃあ その感情をうまくコントロールするにはどうしたらいいの?というところは 多少のヒントだけで ほとんど記述がない。


あの頃は、意地悪でもされているような氣がしたけれど、今にして思えば、「そこを自力で体験するのが肝じゃない。手取り足取り教えちゃったら意味ないでしょ?」ということだったんですね(^^ゞ

今ならわかるなぁ、その配慮。。。それはまあ たいへんだったけどね(笑)





自分の心の動きに目を凝らし 本やサイトのご著者の助言をお借りしながら ああだこうだとやっていくうちに、少しずつわかってきたのは、こうすればいいと頭ではわかっていても、がんとして首を縦に振らないなにかが 自分の中に場を占めていること。

で、これいったいなに?と ひたすらたどっていくと、おおもとにいたのは決まって 幼い頃の私でした・・・・と、これはもう 繰り返し何度も書かせてもらったお話。

わけもわからずきつく叱られたり、思いのままに振舞うことを禁じられたり、まるで氣持ちに馴染まないことを強要されたり、とさまざまな縛りをかけられて、万能で自由な自分を忘れ、この世は怖ろしいところだ、自分は抵抗する術のない被害者だ、などと 本来の自分とはかけ離れた世界観を身につけ、それに沿った世界を構築して、ますます思い込みを強化してしまったんですね。

でも、その世界観は、幼い子どものおぼつかない思考を基準に生まれたもので 大人の自分にはそぐわないものだということぐらい、成人した今なら氣がついてもよさそうなもの。

幼く無力な日々には ひたすらがまんして従うしかなかったことでも、成長して力がついた今なら、もっと意に沿った選択や行動ができるはず。

・・・と理屈ではわかっているのに、心がどうしても言うことを聞かない。

なぜなんだろう?

それは、まだ脳の配線が未完成な 三歳頃までの子どもは、与えられた情報を 取捨選択することなく 無条件に受け入れ 取り込んでしまうから、なのだそうです。

「三つ子の魂百まで」の例えどおり、幼い頃に身近な大人から受けた影響は、それだけ深く刻み付けられてしまうってことなのね。





なぜこんなに感情が暴れるのかわからないまま、引きずり回されているしかない。

理性が冷静に進むべき方向を示しても、従おうとすると すさまじく抵抗するものがある。

前回の話に戻って、私たちが「そんなの理想論だよ。そうできればいいのはわかっているけど、そうそううまくいきっこないよ」などと言いたくなるときも、この幼い頃の強力な刷り込みが 主導権を握って、現在の自分の自由な選択をさえぎってしまっているんですね。

これ、ほんとうに辛いです(T_T)

葛藤の中ですごく消耗するし、自分にとって最善の選択が出来ず 本意でない結果ばかり引き寄せるから、人生がうまく運ばず 自信を失ってしまう。

と ここまで見えてくれば、この「洗脳」を解こうとせずにはいられません。

いかに根深くとも、後付けである以上 きっとなにか手立てがあるはず。

そして、これほど苦しいものだからこそ、なんとかせねば、してやろう、という思いをかき立てて、「行って」から「かえる」への方向転換を促す原動力になってくれるんだよね。。。そう思うと、なんてまあ うまく仕組まれているんでしょうね

















戦わない解決

2013年10月12日 23時23分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


7月に参院選がありましたが、あれをきっかけに 少し前の6月ぐらいから浮上し続けているテーマが「二元対立」。

それ以来、折に触れてずっと ためつすがめつひねくり回すように 観察し 熟考してきたのですが、

現時点での結論はと言うと、




            戦いに勝つことで 問題を解決しようとするのは もう卒業☆







「二元対立」とは、善悪・真偽・貧富・寒暖・高低 などのように、互いに相反する二つの要素が 対となって対峙しているさま。

何かを具体的に知りたかったら、その何か以外のものが どうしても必要になります。

この世に自分ひとりしかいなかったら、背が高いも低いも、頭がいいも悪いも、優しいも意地悪もない。

自分以外の誰かと比べることで、「自分とは これこれこういう人間だ」と 他の人と区別して特徴づけ 理解することが可能になるんですね。

私たちは、そうやって 自分なりの解釈で、自分の世界を創り上げ 把握している。

その意味において、個人的な線引きの目安として使う限り、相反する二つの要素の存在は 有益なわけです。


“大いなるひとつ”は、自身を体験するために そんな具合にこの世を創った、とね(^^)





でも、「二元対立」だけなら、比較はあっても 争いはないんですね。

自分より背の高い人がいても、それはただ「誰それは私よりより背が高い」という事実でしかない。

ここに 正誤だの優劣だのという価値観を持ち込むと、争いごとが起こってくるわけです。

シリア問題・原発・TPPなどから 友人知人・家族間の揉め事に至るまで、多くの人の思惑が絡むほど 複雑さは増すけれど、おおもとは全部このからくり。

議論の焦点が「何が正しいのか」から「誰が正しいのか」に移ってしまうと、あとは 力勝負あるのみ。

武力・多数決など方法はいろいろあるけれど、とにかく戦うことは避けられない。

そして、一方が力づくで相手をねじ伏せても、他方に残る口惜しさや恨みは 争いの火種として潜伏し続け、いつかまた必ず再燃することになる。


正義が勝てば平和が訪れるなんて幻想でしかない、戦いで恒久的平和が得られたためしなんてないっていうこと、長い歴史と多くの犠牲から いいかげん学んでもいい頃だよね。




ここまでありありと見えてくると、戦いはNGと思いつつ ついつい古い思考パターンに引っ張られることを繰り返してきた私も、「戦いたい」「いや、だめだ」の不毛な行き来を脱け出して、そのどちらでもない新しい回路を育てようという氣が起こってきます。





今歩いている道が 行き止まりだ、とか、目的地に通じてない道だ、とか氣づいたら、なすべきことは二つ。

引き返すことと、どこで間違ったのか・正しい道はどれなのかを確認すること。

ではここで、「自分の正しい主張と、それ以外の正しくない主張」という線引きを、いったん手放してみてはどうでしょう。

正誤や優劣の物差しが入り込む前の、「私はこういう意見、相手はこういう意見」っていうただの事実認識の状態に戻してみるの。

そして、それぞれの意見を、これ以上たどれないっていう根っこにまで遡って、徹底的に吟味する。

もし本音や真実を言わない人がいたら、それをただ責めるのではなく、なぜ言わないのかも 同じようにとことんおおもとまで 尋ねて尋ねて尋ねてみる。

その意見や思いが生まれた原点まで立ち戻って、しっかり理解することをひたすらやり続ける。

感情的にならないで、客観的に、冷静に。

戦いになると、とにかく自己主張で押しまくって 相手を負かすことにばかり意識が集中しちゃうから、相手の言うことって 聞いてるような顔しても 実はまともに聞いてないんだよね。

理解する努力を放棄した時点で、もう解決から遠ざかる一方なのは 目に見えているもの。






ん?

「言うだけなら簡単だけど、そんなの理想論だよ」って?

ああ、そう、そうなんです、よぉくわかります。

いったんなじんだ価値観や 相手憎しで固まっちゃった感情を 理性であっさり変えられたら苦労はないよ、っていうことね。

おっしゃるとおりです。

なにを隠そう、私だって そこでいっちばん手こずったんだもの(- -;)




じゃあ 次回は、なんで せっかくの理想を思い通りに実行できないのか、私が探れるだけ探った範囲で書いてみますね。



















カテゴリー追加しました☆

2013年10月11日 18時09分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“大いなるひとつ”は、自分の素晴らしさを ただ知るだけでなく 体験し味わうために、自身を無数のいのちのかけらに分けて、この三次元世界に送り込みました。

世の中には、人の数だけ異なる視点があり、そのすべてが“大いなるひとつ”から分けだされたパーツ、神のひとかけら。




・・・・っていうのは、これまでも幾度か書いてきたけれど、いろいろな方々の文章から 腑に落ちるところ・しっくりくるところを取り入れさせていただいて、私なりの表現で再構築した、私色の世界観・宇宙観。

新しい観念や概念を取り入れるとき、最初はいつでも“仮説”という扱いです。

その仮説と常に照らし合わせながら さまざまな体験を重ねてゆく中で、仮説への信頼が高まり 内容がどんどん密になって 定着することもあれば、「?」がちらっと挟み込まれて いったん脇に置かれ、そのままお別れとなることもあり、新たな見方を付け加えて 復活することもあり。

そうやって日々変化してゆく視点から見える景色の断片を、ときおりこうしてブログに書かせてもらったりしているわけですが。




つねづね肝に銘じているのは、自分にとっては紛れもない「正解」であるものも、他の人から見れば、前述の「人の数だけ異なる視点」のひとつに過ぎないって言うこと。

共感・賛同・反対・拒絶、その他さまざまな受け取り方があって当然、そして そのどれにも正誤はないのだと。

さらに、自分自身つねに変化し続ける以上、その意見だって 終始一貫などということなく つねに変化し続けるのであり、以前書いたものを読み返したとき「うわ~、なにこの未熟な見方」と赤面する羽目になるのは避けられないのだ、ということも。




そして、そこまでわかってなお、この貴秋という視点は、自分にとっての「正解」も、外から見れば単なるヒントや偏見に過ぎないことを知りつつ、それでも この広い世界に観察データがひとつでも多く提供されるのは悪いことじゃあるまい、と思っているのです。




一時期 ブログのカテゴリーに「氣づき」なんてワードを入れていたこともあったのですが、自分にはどれほどすごい氣づきでも 他の人から見れば 無数の視点のひとつでしかないと自覚した時点で、あまりおおげさな言い回しはやめようと「ふと思うこと」という表現に変えて、これまでずっと使ってきました。

が、最近「ふと思った」というより もう少し強い口調で 文章を綴りたくなっている自分がいることに氣がついて。

で、新しいカテゴリー「貴秋の視点、あるいは偏見」を設けました。

このカテゴリー名がくっついているときは、「普段より断定的な文章で 好き放題書かせていただきますが、それはあくまで個人的な一意見に過ぎず、また、その日記のアップされた時点(ブログは投稿日時がはっきり表示されるのでありがたいです)での見方考え方でしかないと自覚した上でのことです」と但し書きがついているものと思っていただければ幸いです。


正直、「ふと思うこと」カテゴリーの日記にしたって、偏見であり その時点での見方であることに変りはないのですから、このふたつのカテゴリーの使い分けができるものかどうかも心もとないのですが (^^ゞ

まあ、とにかくやってみることにしましょう☆


やってみないとわからないことも いっぱいあるんだものね



















忘れぬ笑顔

2013年10月08日 18時19分33秒 | ふと思うこと


きょうは 台風の影響か、灰色空に 時おりしとしと雨。

予報どおり、やや蒸し暑いです。

お昼過ぎ、家のすぐ近くで ツクツクホウシの鳴き声が聞こえました。

たった1匹、ほんの数分のことだったけれど、夏と変らぬ力強い声。

いささか時期外れのこの季節でも、どうか生きる喜びを感じて 与えられたいのちいっぱい生きて欲しいと、心から願いました。






私がまだ奈良に住んでいたときのこと。

当時の私は、いつも心が落ち着かず、感情的に不安定で、ちょっとしたきっかけで すぐカッとなったりイラッときたり、あの日も 何がきっかけだったかはもう忘れましたが、ひどく不機嫌で。

ムカムカする氣持ちを持てあましたまま むすっとした表情で家を出たところで、工事か何かで来ていたらしい 作業服姿のおじさんと出くわしました。

おじさんの顔をちらっと一瞥した私、不機嫌を絵に描いたような仏頂面だったことと思います。

が、そのどこの誰とも知らないおじさんは、私に向かって にっこりと笑いかけてくれたのです。

なんという晴れやかで 邪氣のない笑顔。

幼い子どもと仏様を合わせたような 胸に染み入る満面の笑みに、固くしこった私の心は見る見る間にに溶け、誘われたように 私もおじさんにぎごちない笑顔を返していました。

見知らぬ人との、すれちがいざま ほんの一瞬の出会い。

小柄で年配の どこにでもいそうな普通のおじさんという以外、ほとんどなにも覚えていません。

なのに、その笑顔のあたたかさ、無邪氣さ、清々しさだけは、20年近く経った今でも あざやかに心に焼き付いているのです。

あのときの記憶がよみがえるたびに思うんだよね。。。あのおじさん、人間に姿を変えた神さまだったのかもしれないなぁ、って。

心を開けないまま 感情に振り回されて悩み続ける困り者に、言葉を超えた 20年越しのありがたい教えを垂れてくださったのかもしれません。





だいぶ前、ブログにこんなふうなことを書いた覚えがあります。

今の自分にできるのは、しかめ面より笑顔、不機嫌な言葉より明るい言葉、とほんのささやかなことだけ、でもそれでいい、そこから始めればいい、と。

あれから10年やそこらは経ったというのに、相変わらずその程度の域から出ていない ちっぽけな私。

ありゃま、あまり成長してないねぇ

でもね。。。開き直るわけではないけれど、それでもいいのかもしれないな、とも思うのです。

今の世の もろもろの芳しくない状況を眺め、さて 自分になにができる?と振り返ると、事の大きさに比べ、自分のあまりの小ささ、非力さに 情けなさを覚えることもしばしば。

でも、ひとりで大きな事を成さねばと焦らなくてもいいのかもしれない。

ひとりひとりにできることはちっちゃくても、おおぜいが集まれば、大きな力になるものね♪




みなそれぞれに いろんな課題を抱えているから、笑顔を浮かべるのが難しいときもあるかもしれないけれど。

それなら もっとささやかなことでも構わない。

笑顔が作れないなら、眉間のしわを少し減らすだけでもいい。

優しい言葉が出てこないなら、トゲトゲしい言葉をぐっと飲み込むだけでもいい。

そんな小さな一歩でも、前進には違いないのだから。





ジョン・レノンじゃないけど、想像してみて。

もし、世界中の人が、1時間、いや、30分、ううん、10分でもいい、いっせいに心からの笑顔をキープできたら、どんなことが起こるか。

それでもまだ 争いごとを続けようって思うかな?

うまくいけば、地球上の戦争すべて 終わってしまうかもしれないよ



力がなくても お金がなくても、手を伸ばせば届くほどのささやかな優しさで、世界を変えられるかもしれないね















かえる道

2013年10月01日 23時46分08秒 | ふと思うこと


まだ奈良にいます。

今回もけっこう長い滞在になっちゃったなぁ(^^ゞ

明日には帰る予定なんだけど。

来たときにはまだ感じられた夏の熱氣のお名残りも、すっかり涼やかな秋の空氣にとって代わったみたいだね。






実家で 日頃目にすることのないテレビや新聞の情報に触れていると、今の世の中って こんなに希望が持てず 居心地悪いものなのかって印象を受けることが多いけれど、一方で それはなかなかいいことなのかもしれないという氣もします。

よくないことならよくないことで、その事実が もはや見えないところに隠れていないで 私たちの目にきちんと触れているっていうことだもの。

あの日記にも書いたけれど、アラバスタ国王の言うとおり、今ここで起きていることを まっすぐに認めて、そこから始める決心をして、初めて前進できるんだものね♪




私の幼少期は 高度経済成長期に当たっていて、また 成人してから「バブル」なるものを垣間見たこともあるけれど、今思えば あの一見きらびやかな繁栄の陰に、原発であれ いじめであれ 経済の行き詰まりであれ 現在表沙汰になっているさまざまな問題の芽が すでに潜んでいたっていうことだよね。

不完全な土台の上に、見た目だけやたら豪華な建物が建っているようなもの。

外見だけいくら飾りつけたって、いずれ傾いて使えなくなるのは目に見えている。

そして、今がちょうどその「いずれ」なのでしょう。

この期に及んで 問題なんかないふりをしてみたって、何の解決にもならない。

今こそ、土台をじっくり点検し どこがマズかったのかをきっちり確認して、もっと確かな土台に作り変えるときなんじゃないのかな。




この前「行って かえる」の話を書いたけれど、個人個人だけでなく、世の中全体の流れもそんなふうなんじゃないかなっていう氣がします。

本来の姿からいったん離れて、そこから得た体験や知識を元に、再び本来の自分にかえっていく。

今ちょうど私たちは、その「かえる」道のりにいるのかもしれません。




おととしの台風12号による大雨被災体験から受け取ったメッセージは、過去の体験や常識では計りきれないような未知の事態が これからどんどんやってくるよ、というものでした。

目先の富をひたすら追いかけて それでもどうにか辻褄を合わせていられた「行き」の道の尺度では、これからの「かえる」道のりには合わないでしょう。

問題は山積みなのに、どれひとつとして確実な答えは見出せていないように見える。

今まで見ないふりで先送りしてきたツケが 次々表面化している事態に、今までと同じ対処で臨もうとしても意味がない。

こちらも、過去の決まりや慣習を飛び越えて、思い切った発想で 向き合わないとね☆




自分の体験から思うのは、「かえる」道とは、それまで当然と思っていたことに疑念を持ち、よくよく観察することで そこから距離を置き 抜け出して、新しい世界観に置き換える、その繰り返しだっていうこと。

自分で自分の足元を突き崩すようなことを ひたすらやり続けていくわけです。

地味で地道で、根氣も勇氣もいる作業だけれど、自分をどっしり支えてくれていると信じ込んでいた大地が、実は幻でしかなかったとはっきり氣づくことが、ほんとうの答えにたどりつく 一番確かな、いや、ただひとつの確かな道なんだと思っています。

見た目だけ豊かで安全な 偽りの世界にいる間は決して見えてこなかった、私たちのほんとうの目的地。

一見困難だらけで心もとない今という時代こそ、そこへ向かわせてくれる 大きなチャンスを内包しているのかもしれません。





・・・なんてことをつらつら思いながらの 足掛け12日。

今回も たくさんの収穫をもらいました。

父が外に事務所を構えて毎日出かけていくようになったので、いっしょに過ごす時間は少なくなったけど、そんな中でも とってもいい話ができたしね♪

ぽかぽかの心を抱えて そろそろわが家に戻るとしましょうか(^^)