毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

名づける ・ その2

2014年07月22日 06時35分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


名前にまつわる力といえば、「西遊記」 に出てくる 金角・銀角の魔王兄弟のエピソード。

孫悟空たちとの攻防で使われる 彼らの宝具に、名を呼ばれたものが返事をすると 吸い込まれてしまう瓢箪があります。

吸い込まれると 中で溶かされてしまうため、互いに相手に名を知られないよう、また 名を呼ばれても うっかり応えてしまわぬよう用心せねばなりません。

これも、前回の話と考え合わせると、なにやら意味深だなぁ、と。

名前とその持ち主の結びつきの強さゆえ、名前を知られたり呼ばれたりすることで、相手に力を奪われてしまうことだってあるのですね。

実際、感じの良くない相手や 下心のありそうな相手には、なるべくなら名乗りたくない・教えたくない、名前で呼ばれたくない氣持ちってあるものなぁ。





名前が その持ち主に力を与えるというのは、良くも悪くも作用するわけですね。

以前、自分の子どもに 「悪魔」 という名前をつけようとして 役所に受理されず、話題になった親がいたと記憶しています。

なんでそんな名前をつけようという氣になったのか、いまだにわかりませんが、ふつうなら 愛するわが子のためには 精一杯すばらしい名前を贈りたいと思うものでしょう。

先日の読み聞かせで、初顔合わせの1年生さんたちに名前を尋ねたときも、親御さんの溢れる思いが込められた すてきな名前のオンパレードに ほのぼのした氣持ちになったものです。

漢字の名前の場合 特に、漢字ひと文字に 数行分の意味が詰まっているから、2~3字のことであっても、そのセレクトや組み合わせから 親御さんの託した夢や希望が垣間見えて、物語を感じるのですね。

そういえば、たしか桐島洋子さんの本だったかと思いますが、外国の人の名前の読みに漢字を当てて その意味を訳してあげると、自分のために一編の詩を作ってもらったようだと喜ばれるというエピソードを読んだ覚えがあります。

そういうときも、やはり ネガティブな意味合いを帯びた漢字は使わない配慮ってありますよね。

名前には、なによりも 最初にそれをつけた人の思いのエネルギーが強くこもっているのかもしれませんが、だとすると、「悪魔」 ちゃん騒動の親御さんにも それなりの理由はあったのかもしれないけれど、やはり不受理になってよかったと思わずにはいられません。

一生ついてまわって その持ち主に作用する力を持つ名前、いいエネルギーが乗りやすいものを選ぶって 大切ですよね。






名づけることで エネルギーを引き寄せようとする働きがある一方で、名づけないことで 力を持たせないようにするとか 距離を置くとかいうこともあるようです。

オードリー・ヘプバーンの映画で有名な トルーマン・カポーティの 「ティファニーで朝食を」 に、ヒロイン・ホリーが 自分の飼っているネコに名前をつけない理由を話す場面がありますが、たまたまめぐり合って仲良くなっただけで、互いに独立していて どちらのものでもないのだからというホリーの言葉に、名刺の住所欄がいつも 「旅行中」 の彼女の 自由だけれど心もとない身の上が象徴されているように感じたものです。

名前をつけるとは それだけ深い絆を結ぶこと、いつも 「旅行中」 で 安住の地を得られないままのホリーは、ネコとの絆を守りとおす自信が持てなかったのかもしれません。

また、刑務所や収容所などで、収監者を名前ではなく番号で呼ぶという話も聞いたことがありますが、ひとりひとりの人格や個性などおかまいなしに、ただ記号的に存在を認められるだけ、という扱いは、たしかに相手のエネルギーを削ぐものだろうな、という氣がします。

ブライアン・デ・パルマ監督で映画化もされた 「キャリー」という超能力少女の物語には、いじめられっこのキャリーが 校長先生に何度も 「キャシー」 と間違った名前を呼ばれて 感情を爆発させ、思わず能力を発動させて 灰皿(だったかな?)を吹っ飛ばしてしまうシーンがありました。

ナポレオンは 多くの部下の名前をきっちり覚えていたといわれていますが、実際好きな人や尊敬する人に 最初からきちんと名前を覚えてもらえればうれしいものだし、名前を間違えられたり忘れられたりすれば、大事にされていない氣がして 不快になったり自信がなくなったりします。

私が 絵本の読み聞かせの初回で 自己紹介をしあうのも、ただ本を読んで終わり、というに留まらず、これから6年間、あなたがたひとりひとりをしっかり見てるよ、大切に思ってるよ、という氣持ちを伝えたいから。

それだけに、名前を覚え切れなかったり 度忘れしたときなどは、冷や汗ものですが。。。。自分だけ覚えてもらえなかったとか間違われたとかでショックを与えてしまったら 逆効果だもの。

今年みたいに12人もいると、ハードル高いです (^_^;)




それにしても、この名前を介する関わりから生じる力っていうのは、バカにならない氣がします。

「エコ」 という名称は、いっとき爆発的に広がって、今でもあちこちでよく見かけます。

エコカーにエコバッグ、エコ住宅、エコライフ、と、なんでも「エコ」 をつければ 環境にいい、みたいなイメージが氾濫しているようですが、こういうキャッチフレーズがひとり歩きを始めちゃうのって 落ち着きの悪い氣持ちにかられます。

「エコ」 という言葉が記号化されて、それに触れると その意味まですっかりわかった氣になって 思考停止し、それ以上突き詰めて考えるのをやめてしまう。

「エコ」 とつけば、それだけで 自分の思考も行いも持ち物も清らかなような錯覚に陥ってしまう。

だから、そこら中の店でやたらとエコバッグが売られているけど、ほんとうに資源の節約になっているの? とか、ソーラーシステムって 廃棄処分するときに 節約した以上のエネルギーが使われるっていう話があるけど いいの? とか、いろいろと妙なことも起こってくるようで。

名前に反応して、肝心のその根っこまで深く切り込むことをやめてしまうのって、今みたいに混乱の多い時代には、特に危ないことのような氣がするのですが。





次に続きます。






















名づける ・ その1

2014年07月21日 17時31分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ミヒャエル・エンデ作 「はてしない物語」 の主人公・バスチアンは、以前も書いたように 太っていて チーズのような青白い顔にエックス脚、勉強も運動も苦手ないじめられっこ、という恵まれないありさまなのですが、そんな彼にも 特技がひとつありました。

それは、物語を作ったり、ものや人に名前をつけたりすること。

この名づけの才能によって、彼は 物語の国・ファンタージェンの危機を救うことになります。

ファンタージェンが滅びに瀕しているのは、この国のあらゆる命の中心である 女王・幼ごころの君が病に臥しているからであり、女王さまを救うには、外国(とつくに)から人の子がやってきて、女王さまに新しい名前をさしあげる必要があるからです。

一読者として このお話を読んでいる段階で、バスチアンには 瞬時に 幼ごころの君の新しい名前が浮かんでおり、その名を声に出して呼ぶことで、彼はお話の世界に入り込み、ファンタージェンの救い主となります。

その後、ファンタージェンでの冒険のさなかにも、彼はたびたび この名づけの才を発揮します。

この 「名づける」 という行為について、幼ごころの君が アトレーユにこのようなことを言う場面があります。



   「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができるのです。

    誤った名は、すべてをほんとうでないものにしてしまいます」



この言葉が 長いこと氣になっていました。

「正しい名前が大事」 っていう話、どうしても思い出せないんだけれど、この本を読む以前にもどこかで聞いた覚えがあったので、よけいに。

「名前をつける」 という行為に、いったいどんな意味があるのでしょう?





子どもの頃から大好きな、トーベ・ヤンソンさんの 「ムーミン」 シリーズの一冊、短編集「ムーミン谷の仲間たち」 の第一話 「春のしらべ」に、この 「名づけ」 に関する話が出てきます。

孤独を愛するスナフキンが、旅の途中で一匹のはい虫に出会うのですが、このはい虫くん、あまりにも小さかったため、名前をつけてもらえずじまいで、スナフキンに 自分だけの名前をつけてほしいと頼みます。

彼は スナフキンをひどく崇拝して、やたら話しかけては せっかくのひとりきりの時間をジャマしてしまい、いささか疎まれるのですが、結局 「ティーティ=ウー」 という名前をもらいます。

翌日、前夜のそっけないあしらいに氣がとがめたスナフキンが、彼を探しに戻ると、ティーティ=ウーは 新居にかける札作りの真っ最中。

いっしょに住んでいた母親の家を出て、新しく建てる家に 自分の名を書いた札をつけるのだと 夢中になっているティーティ=ウーに安心したスナフキンが、再び旅に戻るところで終わりです。

この二度目の出会いで、ティーティ=ウーが言うんですね。


   「ぼくはこれまで、そこらをとびまわるときによばれる名まえをもっていただけなんです。

    そりゃ、あれやこれやのことを、あれこれと感じたけれど、すべては、ぼくのまわりでただおこっているだけで、

    そんなものは、みんなくだらないことだったんです。

       (中略) 

    ところがいまは、ぼく、一個の人格なんです。

    だから、できごとはすべて、なにかの意味をもつんです。

    だって、それはただおこるんじゃなくて、ぼく、ティーティ=ウーにおこるんですからね。

    そして、ティーティ=ウーであるぼくが、それについてあれこれと考えるわけですからね」


初めてこのセリフを読んだとき、なにか大きな意味があるんだけれど、それがなんなのかわからない、という もどかしい氣持ちになったものでした。

その氣持ちを持ったまま、その後も繰り返し読み続けていたのですが。





名前をつけるっていうのは、他と明確に区別して 分け出すことなんですね。

区別されることで、それは その名を呼ぶものにとって 固有の意味を持つ。

名づけるという行為が、その人やものに 特別な意識を向けさせ、エネルギーを与えることになる。

ティーティ=ウーにとって、自分を 他の誰とも違う 「ティーティ=ウー」 として意識することは、大きな力が湧くもとになったんですね。

最初にスナフキンに出会ったときは、おずおずと おびえたような目つきで、スナフキンに認められようとけんめいになって、「あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ」と言われるほどだったのに、名づけてもらった後の彼は、また会えてうれしいと言いつつも、自分のことに夢中で スナフキンなどほとんど眼中になしといった様子に変わっています。





「はてしない物語」 でも、バスチアンは ファンタージェンの生き物たちから 魔法の砂粒(種)や剣や帯をもらうのですが、その都度 それに自ら名前をつけるよう促されます。

名づけることで それらは初めて力を持ち、所有者のために働くようになるのだからというのです。





名前がある・名前を持つ というのは、これまであまりにも当たり前に思えて、取り立てて考えたこともなかったのですが、今回、名づけるという行為に 思った以上の意味があるらしいとわかってきました。




またしても長い話になりそうなので、何回かに分けてアップさせていただきますね。

























思い出した・・・ けど

2014年07月20日 12時35分47秒 | ふと思うこと


うっかり忘れていたけれど、

きのうで、和歌山に来て 丸13年になりました。




でも なぜか、これまでと違って、ああ そうか と思いはするものの、あの日を振り返って感慨にふけるとか、感傷に浸るとか、そういう氣にはなれないんだなぁ。




ただ、13年という距離に詰まった もろもろの重みというか、密度の濃さというか、そんなのは ずしりと感じるんだけれどね。




変わったねぇ、自分。























下りてくるもの

2014年07月19日 17時53分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


絵本の読み聞かせに携わるようになって 8年近く。

読み聞かせは素人でいい、いや、むしろ素人であることに意味がある、とずっと思ってきた私が、ひょんなきっかけで 声のお仕事のプロである声優さんたちに関心を抱くようになりました。

プロの方々の技や力がどのようなものか知りたくて、いろいろな声優さんのお仕事ぶりを、アニメや映画などを通して 数多く聞かせていただいています。

そんな中、ときおりふと アニメのストーリーそのものに興味が湧くことがあって、そのたびに Wikipediaなどを通じて調べるうち、自分の子どものころにはなかった あるジャンルの存在を知りました。

それは、ゲームの物語が原作のアニメ。

家庭用ゲーム機が初めて発売されたと思しき頃、私はすでに成人していましたから、ゲームをしたこと自体ほとんどなく、まったく未知のジャンルでしたが、アニメのストーリーが知りたくて 解説を読むうちに、どういうものなのかが 少しずつわかってきました。





なんといっても面白いのは、ゲームの世界とは パラレルワールドであること。

通常のアニメのストーリーなら、「こういう人たちがいて、こういうことがあって・・・・」 と 一直線に話が進んでいくのですが、ゲームの場合は、ストーリーの選択肢が 複数あって、それぞれに違う結末が用意されているのですね。

どの道を選ぶかによって、登場人物の性格や立場、取り巻く状況、人間関係、ときには容姿までが変わったりすることもあるらしい。






話変わって、このブログにもたびたび引用させていただいている ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」。

やはりわがバイブル的愛読書のひとつですが、この中の かなり危なっかしい状況に陥っている地球の運命を変えられるかどうか ウォルシュ氏が神に尋ねる場面で、「将来起こることはすべて、すでに起こっている」ということを説明するのに、ゲームを例えに使った話が出てくるのです。



    子供たちがCD-ROMでゲームをやっているのを見たことがあるだろう?

    そのとき、子供たちのジョイスティックの動きひとつひとつにどう応じればいいのか、どうしてコンピューターにわかるんだろうと思ったことはないか?

          ( 中略 )

    すべてCD-ROMにある。

    コンピュータがあらゆる子供たちの動きにどう応じればいいのかを知っているのは、可能性のあるすべての動きとその適切な対応がすべて、

    CD-ROMに記録されているからだ。




つまり、私たちがとりうる選択肢のすべてが、今・ここ で同時に、可能性として あらかじめ用意されているということなのですね。

そして、私たちが選んだ道に従って ストーリーが進んでいき、その連続で めいめいのオリジナルのストーリー、すなわち人生が創られ、体験される、と。

ゲームのエンディングとは、この世を卒業することであり、もう一度やりたければ、チャンスは与えられる、ということなんですね。

具体的なゲームというものがよくわかっていなかったにも関らず、この例えは 「すべて 今・ここ にある」 という 捉えにくい概念を、とてもわかりやすく受け入れさせてくれました。






それからだいぶ経って、巷に広く普及し 多くの大人や子どもが遊び興じている 実際のゲームが、まさにこの説明どおりの形で進められていることを知り、ふと思いました。

ゲームを知らない私は、直線時間を当然のものとして 長年受け入れてきて、いったん染み込んだその概念を書き換えるのに四苦八苦したけれど、ゲームで遊び慣れている世代の人たちは、パラレルワールドというものをごく自然に受け入れる下地が すでに備わっているわけだ。

これって すごいことじゃない?

あとから 哲学的にだの 物理学的にだの学びなおそうとしたら 頭を抱えてしまいそうな世界観に、なんの苦もなく すんなり馴染んでいる人たちが おおぜいいる時代なんだね、今は。





天才作曲家、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトについて、彼の直筆譜に ほとんど推敲の跡がないことから、「彼は すでに天に存在している楽曲にアクセスして、下りてきたものを書き留めているんだ」 なんていう話を聞いたことがあります。

他にも、インスピレーションを通じて、さまざまなアイデアを下ろされている人たちが 数多くいるようですが、最近の世の中を見ていると、高尚・難解な世界ばかりでなく、誰にでも親しみやすい アニメやゲーム、ポップソングなどの形をとって、天から下ろされたように思える作品が いろいろと出回っている氣がします。

これって、そのままだと受け入れにくい知識や概念を、糖衣錠のように 取り込みやすい形にして、さりげなくそちこちにばら撒いて、人々の意識にすんなり入り込ませているように思えるのは、氣のせいでしょうか。

なんでそんなことをするのかって?

つまり、来るべき新しい世界へ スムーズに移行する準備、っていうこと。



な~んて、見通してるんだか妄想してるんだか、自分でもよくわからないんですが ( ̄∇ ̄*)ゞ

それでもなお、そんな筋書きもおおいにありだな、と ひそかに楽しんでる貴秋なのです





ちなみに、大好きなマンガ・尾田栄一郎作 「One Piece」 も そんな作品のひとつなんじゃないかと思ってるんだけど。。。どうなんでしょうね♪

























励まし合って

2014年07月18日 10時21分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


自分を見つめ あれこれ修正しながら 「かえる」 道を行くのが 三度のご飯より好きな貴秋ですが、そのたびに感嘆しきりなんですよね、“ 大いなる ひとつ ” の完璧な采配ぶりに♪

一生どころか おそらく何生もかけての壮大な 「行って かえる」 だと思うんですが、考えたら 「行き」 の手配のほうが難しいんじゃないかな?

だって、そもそも 本来の完璧なあり方からわざと離れるっていうのが 不自然でしょ?

あれこれ仕掛けをほどこして 道を外れるよう仕向けるにしても、あんまりさっさと解けても意味ないし、かといって 万全すぎて いつまで経っても解けないのも困る。

映画 「インセプション」 だって、効果的な植え付けを図るコブたち 大苦戦してたもんね☆





他の動物と違って、生まれてすぐの人間の赤ちゃんが いきなり立って歩き出したりできないのは、脳の配線がまだ未完成だから。

それを生後数年がかりで作り上げながら、まわりの大人たちによって それとなく 「行き」 のタネをインセプション(植え付け)させ、氣づかぬまま 成長と共に強化されていくようにセットしておく。

すごいことに、ネガ思考が強化されるほど それに見合ったトラブルに見舞われ 苦しくなって、もうこれ以上はー! となったところで 自分を省みて 「かえる」 道に移れるような仕組みになっている。

そんな往復のタイムスケジュールが 前もってしっかり組まれていて、しかるべきときに しかるべき人と出逢い、しかるべき出来事が起きるように、完璧に手配されている。

そして、ひとりひとりの仕込みだけでも十分すごいのに、さらにそれぞれが出逢うたびに、互いのニーズやタイミングがピタリとかみ合って 発動・進行するように出来ているんだから、もう凄すぎ。

とりわけ 「行き」 の道では、進むほど苦しくなる歩みに挫折してまわないよう あれこれ工夫がほどこされているように見えるんだけれど、中でも 解決の手立てが見えないときには 辛い記憶を奥にしまい込んで保留にし、向き合うだけの力をつけたときに 再び思い出して、取り組む氣を起こさせるようになっているっていうのが、もう、ね。





どんな引っかかりも問題点も いつかは必ず向き合わねばならないのだけれど、そこで誰もがひるむのは、それが醜くおぞましい闇に見えるから。

だからついつい、それを 「エゴ」 なんて呼んで、悪者扱いして、切り捨てたくなっちゃうんだよね。

でも、どれほど抵抗しても払いのけられるものではないとわかる日が、いずれやってくる。

で、勇氣を振り絞って まっすぐ見つめて、初めて氣づく。

あれあれ、おぞましい闇なんて どこにもないじゃない、って。





それまでわからなかったのは、抑圧されたことで もともとの形に無理がかかって歪んでしまったから。

さらに、それを置きざりにして成長したことで、ますます今の自分からかけ離れて そぐわないものになってしまったから。

どんなことでも、想像の中で恐れているときが いちばん恐いんだよね。

心の奥深くに押し込められている歪みを なんとなく感じ取って 厄介者扱いで目を背けているとき、それはおぞましい闇に見えた。

正面切って見つめて やっと思い出すんだよね、もともとは それなりの理由があって生まれた、それなりに筋の通ったものであったことを。

幼い自分には 手のつけようがないほど強大で恐ろしく見えたもの。

でも、大人になった今の自分が見れば、十分対処できるもの。

そこで初めて氣づくんだね、最初から悪者なんていなかったんだ、って。





さまざまな体験を重ねて ここまで氣づいてなお、やはり未解決の負に取り巻かれると、恐怖で足がすくみます。

でも、そこで これまでに得た知恵を総動員して、勇氣をふるって、えいやっと飛び込むのです。

そして、しばらく経ってから 安堵の溜息とともに思うんですね。

ああ、やっぱり大丈夫だったなぁ、守られているなぁ、って。





ちっちゃな個の身から見れば 波乱万丈の航海も、“ 大いなる ひとつ ” にとっては たわむれ・リーラに過ぎないわけで。

荒海を突き進む 雄々しいヒーロー・ヒロインのような氣でいても、実は 運命の掌の上で遊ばせてもらっているに過ぎないのかもしれないと ちょっと引きの視点から思い返すと、悲壮感も氣が抜けてゆくようです (〃∇〃)

な~んていくら言ったところで、辛いときはやっぱり辛いものだけれど、ここをくぐり抜けたら なぁんだって笑えるときがきっとくる、そうわかっているだけでも ずいぶん違うように思うのです。





誰かが渦の真っ只中にいるとき、誰かが少し離れたところから 引きの視点を思い出させて 励ます、そんなふうに助け合って進んでいけるんじゃないかな?

誰もがみな もともとひとつであったことを思い出す、そのときまで、ね

























おかえり エゴくん

2014年07月16日 12時12分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ここ数日、「神との対話」 「はてしない物語」 ほか数冊を並行して読んでいます。

連想がおもむくままに あっちに飛びこっちに飛びしているのですが、そんな中 あらためてふと思ったのです。

私、相変わらず 「エゴ」 っていう言葉が苦手だよなぁ、って。

いや、言葉自体がどうのこうの、使っておられる方がどうのこうのということではなくて、私の思いグセみたいなものです。




「エゴ」 って、言葉自体にすでに マイナスイメージが内包されているように思うのです。

少なくとも私の中では、前もってそういう色づけがされてしまっています。

「エゴイスティック」 と聞けば まずいい意味にはとれないし、「エゴイスト」 と言われれば あまりお近づきになりたくないなぁ・・・と思っちゃう

色づけ・クセづけされた視点のことを 「エゴ」 と表現することが多いのかな、と思いますが、愛そのものである “ひとつ” から分けだされた 異質な要素が 否定的な色合いを帯びるのは、まあ当然といえば当然の話。

でも、それについて語るとき、それをさらに 「あってほしくないもの」 と否定的にとるか、「良くも悪くもそういうものだよね」 的に 中立にとるかの違いは、自身のその先の歩みに大きな影響を及ぼす氣がします。

言葉自体の問題じゃなく、その言葉を捉える意識のあり方の問題なんですね。





私はふだん 「エゴ」 という表現を避けて 「我」 とか 「自我」 という言葉を使っていますが、もし 「エゴ」 を使うとしたら、そこには「コイツうざ~い、ジャマ」 っていう氣持ちが入ると思う。

じゃあ、ネガティブイメージのエゴくんは、ほんとうにジャマもの扱いされなければならない存在なのでしょうか?





今まさに地中から顔を出そうとする植物は、真上に石ころなんかがあったら、それをよけて 斜めに生えてきます。

だから、不自然に曲がった形になっちゃうんだけれど、それができなかったら 枯れるしかないのだから。

私たちも、なんの障害もなく あるがままにすんなり伸びられたら幸せだったのかもしれないけれど、でもそれじゃあ わざわざ自分でないものに分けだされた意味がなくなっちゃう。

だから、前もってしっかり障害の種を仕込んでおいて 生まれてくるんですね。

そして、計画通り 見事にひん曲がって(笑)、「行き」 の道を歩き出す。

つまり、エゴくんは いのち強い ともいえるんですね♪

曲がって その後のリスクを背負ってでも、生き延びる道を選んだんだもの♪





エンリケ・バリオス作 「もどってきたアミ ~ 小さな宇宙人」 に、「あるていどまでの水準の人生において、エゴは一種の“救命具”のような保護者的な役目をしている」 っていう一文があります。

自分の体験に照らすと まったくそのとおりで、エゴくんの働きに守られてきたなぁって思う場面が どっさりあります。

たとえば、過食の体験も、不安と向き合う術を知らなかった あのころの自分には、そこから氣をそらしてくれる癒しが必要だったのです。

逃れることも 解消することもできないまま、あれほどの不安にさらされ続けていたら、心が壊れていたかもしれない。

だから、ダイエットのたんびにリバウンドしていたのは、今思えば 自己防衛反応だったんですね。

攻撃的だったり 尊大だったり、今出くわしたら そそくさと逃げ出したいような 以前の私 も、「自分は強いんだ、えらいんだ」 と無理にでも思い込むことで 潰れずにいられたんですね。

グッジョブだ、エゴくん♪





で、おかげさまで生きながらえて、これまたエゴくんが引き寄せてくれた トラブルの数々に背中を押されて、「自分を変えよう」 と決心するところから、「かえる」 道のりが始まる。

エゴくん素晴らしい働きぶりです(笑)

なのに、かえり道では にわかにジャマもの扱いされちゃう (T_T)

でも、「抵抗すれば 相手はますます大きくなる」 と 「神との対話」 にもあるとおり、ジャマにすればするほど大きくなるのが エゴくんなわけで。

じゃあどうすればいいの?





その昔、「来たものをよ~く味わって、感謝して、お別れすること。でないと、先へ進めませんよ」 とアドバイスをもらったことがあります。

当時は いまひとつピンとこなかったけれど、今はつくづくそのとおりだと思います。

先の 「 抵抗すれば ~ 」 のあとも、「見つめれば 消える」 と続くんですね。

ありのままのエゴくんの成り立ちや その働きを 客観的に見つめて、味わって、自分を守り続けてくれたことに感謝して、お役目を解いて 戻ってきてもらう。

「あれ? お別れするんじゃないの?」 って?

貴秋イメージでは、お別れするのは エゴくんの性質やお役目だけ。

つまり、異質な色合いを帯びて分けだされたエゴくんは、その色やクセだけを手放して 「エゴ」 ではなくなり、本来の姿にかえって ひとつに統合されるのです。

以前のブログに書いた アニメ 「魔法騎士レイアース」 で、悪役であり ヒロインの分身でもあるノヴァちゃんが すっかり力を失って 迎えるヒロインの腕の中に溶け込み融合する あの場面です。

この世に 意味なく生まれてきたもの、あってはならないものなんて、なにひとつないんだもの。

そういう意味で、今の世の 「ジャマものは 叩いてけなして 切り捨てる」 といった風潮は、このままどこまでいっても解決には至らないだろうなぁ、という氣がするけれど、それはまあ 余談☆





このプロセス、エゴくんは かなり怖がってる氣がします。

それはそうだよね。。。。いくら見捨てたりしないよ、変わるだけだよ、って言われたって、自分が自分でなくなるとは、ある意味 死を迎えるようなもの。

私たちが、いくら 「本来死というものはない。死とは 消失ではなく 変容だ」 って言われたって、やっぱり死ぬのは怖いなぁ、と思ってしまうのとおんなじ。

だからこそ、その働きを十分認めて、感謝して、愛を込めて 「おかえり」 と迎え入れる姿勢が大事なんじゃないかな

「ジャマだから消えて」 なんて・・・そんなむごいこと、どうして長年尽くしてくれた大切な分身に言えましょうか (;_;)




というわけで、私は 私でないものを手放すことは どこまでも続けるけれど、分離した自分を 「エゴ」 呼ばわりしてジャマには やっぱりしないよ。。。。と結論づけるつもりだったんですが。

エゴくんエゴくん書いているうちに、なんかエゴくんって可愛いなぁ、って思えてきちゃって (*^▽^*)ゞ

もう 「エゴくん」 でも 「自我さん」 でもなんでもいっかぁ~♪ ・・・・・って、どーゆーオチだ(爆)


















雲間からさす日ざし

2014年07月14日 18時58分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


蒸し暑ぅ~

きのうまでの雨がたっぷり染み込んだ地面に 昼ぐらいから徐々に日が照りつけて、この時間になっても かなりの高温多湿状態です (^_^;)

まあ、天然無料サウナだと思えば。。。。と強がっておこう(笑)

いよいよ本格的な夏到来かな?

夏生まれのくせに 暑さにはてんで弱い私だけど、なぜか毎年この季節には ときめきを感じてしまいます♪

根拠もなく 「なんかいいことありそう」 って ワクワクしちゃって

梅雨明けまでに もうひと雨ぐらいありそうだけど、それもまたよし♪

外がだろうとだろうとだろうと、私は私の中の調和をはかることに専念していましょう♪





最近のように 異常氣象が続くと、からだのほうもついていくのが大変で、感覚を通して いろいろと注意信号を送ってくるから、もちろんそれには素直に従うのがいいでしょう。

日陰に入る、水を飲む、横になる、などなど、早目の手立てが大事☆

ただ、それとはまた別の感覚もある氣がするんだよね。





たとえば、暑いものを率直に暑いと感じる以上に、暑さに腹が立ったりイラついたり イジワルされているような氣がしたり、と 妙に感情的に反応していることに氣がついたら、はい、そこですかさず からだの感覚に注目~!

そう、まだやってるんです、これ。

っていうか、習い性として ますます磨きがかかってます♪

内側をたどると、必ずといっていいほど、その感情を生み出す元になっている感覚に行き当たります。

で、よけいな解釈など抜きで ひたすら観察を続けていると、時間の長短はあれど やがては消えていきます。

たいていの場合、感覚と共に感情も消えるなり薄らぐなりするようですが、残っていても すかさず意識の焦点を他に移すと、それ以上つきまとうことはまずありません。





以前ここにも書いたかどうか、消えても消えてもまた執拗に上がってくる感情があって、やり方がマズくてうまくいってないのか、それとも このやり方ですべての感情が消えるとは限らないのか、と悩んだことがありました。

それでもなお めげずに続けていたら、だんだんわかってきました。

どんな感情も、そもそも湧いた時点できちんと受け止め 味わっていれば、それで消えるものらしい。

でも、払いのけたりスルーされたりしたものは、そのまま心の奥に留まって、何年でも注目されるときを待ち続ける。

役目を果たすまでは、自然消滅したりはしないようですね。

で、長年の繰り返しで 同じ感情を溜め込めば溜め込むほど、消えるにも時間がかかるらしい。

宿題だって、三日分溜めるのと 三か月分溜めるのとじゃ あとの大変さが違うでしょ? って どんなたとえだ (^◇^;)

とにかく、そうやって長い間無視してしまって どっさり溜まった感情は、そのすべてを感じ尽くすまでは 何度でも繰り返し現れるようなのです。

たゆみなく対応していれば、やがては感情自体が和らいで、上がってきても さほどの苦痛を感じなくなったり、ちょっと注目すれば たちどころにすぅっと消えたり、と変化するようです。





何事も 続けてみるものですね♪

感情と向き合い なだめるのは さんざんやったし、それも続けていれば いずれはすっかり解放できるのかもしれません。

でも、両方やってみての手応えとして、感覚に注目するより はるかに時間がかかって効率が悪いのはたしかだと思います。

そもそも感情っていうのは、うれしいとか悲しいとか すでに自分の中に取り込まれて ストーリー化しかかった状態で 認識されるのですね。

だから、客観視しようにも まず切り離しがしにくいし、自分自身を見つめるよりも 作られた物語のほうに氣がいきがちだし、ヘタをすれば そこからさらに お話を発展させてしまいかねません。

でも、からだの感覚は、物語ではなく 単なる現象です。

だから、言葉化することなく 自己と切り離して 客観的に見つめやすいのです。

わざわざ感覚の中に入り込んで同化するようなことをしない限り、それ以上大きくしてしまうことはまずないし、消えるまでの時間も 感情を見つめるより ずっと短いようです。





そしてうれしいことに、否定的感情の総量が減ってくると、それに代わって 明るく前向きな氣持ちが 自然と前面に出てくるんですね。

分厚くさえぎっていた雲が薄くなったことで、切れ間から日の光がさし込んでくるようなものかな♪

そう、最初からずっとそこにあったんだものね♪

喜びや豊かさこそ 私たちの本質、本来のありようだものね♪

負の感情がデフォルトという思い込みが 勘違いだったとわかって、大きく自信を取り戻しつつある貴秋なのです \(^o^)/





念のために申し添えると、これはあくまでも、私個人の体験から導き出した 私仕様の答えです。

誰にでも当てはまるかどうかはわかりません。

私自身、あまりにも強く訴えかける圧迫感や息苦しさなど、これ以上感じ続けていられないと判断して振り払い(甘いものを食べる、DVDを見るなどの癒しによって 氣をそらし)、中断したことが何度かあります。

心の痛みがからだの症状としてはっきり現れている方などには、かえって危ない場合もあるかもしれません。

どなたでも、試される場合は、ご自身の判断で 様子をよく見ながらなさるようお願いしたいと思います。

ただ、負の感情というのは とても深く入り込んでいて とてもじゃないけどコントロール不可能なように思えたこともありましたが、解放できないものでは決してないと 身をもってわかったのは確かです。

時間もエネルギーも忍耐も必要だけれど、薄紙を剥ぐような変化でも 焦らず重ねてゆけば、想像をはるかに超えた 満ち足りた境地にたどりつけるものだと 今なら心から言える氣がします。





この観察、心に引っかかるものがある限り、この先もずっと続けていくつもりです。

また新たな発見などありましたら、随時ご報告させていただきますね。
























おもてなし

2014年07月11日 18時35分38秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あのお茶のお稽古のなつかしい思い出から さらに発展して、

そっか~

っていうところに思い至ったお話です(^^)





小学生の私が あのときあんなにもくつろいだひとときを過ごせたのは、何よりも 先生が そういう空間を創ってくださったから。

まったくゼロからのスタートだから、先生がおっしゃるとおりに所作をこなし、先生のなさることをいちいち真似ながら 進んでいくわけですが、せっかく覚えても、1週間経つと、次のお稽古のときは もうあらかた忘れているわけで (^^ゞ

でも、それで叱られるわけでもなければ、きちんと覚えることを強要されたり 宿題を出されたりしたこともなく、また一から教わりながら、淡々と進んでいく。

だから、余計な氣を回したり頭を使ったりする必要がいっさいないまま、ただひたすら お茶室の雰囲氣に浸り込み、先生に支えられ 先導してもらっているという安心感のもと 純粋にお手前を体験できたわけです。

また、一緒に通っていた親友も、騒いだり自己主張したりというところがまるでなく、穏やかでおっとりしてて ほのかなユーモアも持ち合わせた子だったので、すんなり場に溶け込んで 違和感ない空氣をかもしだしてくれていて。

そんな場だったから、安心して 丸ごと自分を預けて ゆだねていられたんですね。





・・・・とここまで思いが進んだところで、あ! と思い当たったのが、読み聞かせのこと。

あそこもちょうど あのお茶室と同じようなことになっていたのかな、って。





本を選ぶとき、内容がわかりやすいかなとか 明るく楽しいお話がいいかなとか、いろいろ考えることはありますが、一番重要視するのは、自分自身が読んでいてワクワクする、楽しめるお話であること。

だから、読みながら自分もお話の中に入り込んで、お話の氣持ちそのものになっているんですね。

もしそこに、ウケを狙うとか 知識を詰め込もうとか よけいな計算を持ち込んだら、お話とも場の空氣とも分離して、子どもたちが夢中になってくれるような空間は生まれないんじゃないかな。

私が単純に楽しんでいて、そこに子どもたちも乗っかって楽しんでくれているのかもしれないね。





と、このように お茶と読み聞かせが重なったところで思ったのは、

おもてなしって こういうことだったのか~

っていうことでした。




お茶席で、見栄を張るとか ひけらかすとか よけいな演出をいっさい排して、動きもシンプル かつ優美に 洗練を極める、その奥には、お客さまに安心してゆだねてもらい、お茶を飲むことそのものを味わい尽くしてもらえるような場を創るという 細心の心遣いが込められているんですね。

ひるがえって、わが読み聞かせの場に そんな心遣いをした覚えはまったくないけれど、ただひとつ、自分自身が幼い頃から 両親をはじめ まわり中の大人にしょっちゅう本を読んでもらって、その心地よさは身に沁みていました。

そして、自分ひとりで本を読むようになってからも、お話の世界に入り込むことが どれほどの楽しみや安らぎを与えてくれるか よぉくわかっていたし。

だから、誰よりもまず自分がお話を読むことを単純に楽しめる場を 無意識のうちに創っていて、それが子どもたちにも伝わったのかなって思います。

そして、それを無邪氣に喜んで受け取ってくれる子どもたちに、私のほうがもてなされてもいたんですね。

また 先生方も、読み聞かせのときは 子どもたちに混じって、場からはみ出しそうな子がいれば さりげなく連れ戻すなどの氣配りをなさりつつも、受身に徹して 聞き手側に溶け込んでくださり、終われば 「ありがとうございました」 「楽しかったです」 などとねぎらってくださって、やはり場創りを 縁の下の力持ち的に助けてくださって。

無意識のうちに発していた私の意図を、やはり無意識のうちに みんなで協力し合って盛り立ててくれていた、っていうことかな☆





正式な茶道のことなんて何も知らない私ですが、漠然と見聞きしたことや 読み聞かせの体験と重ね合わせて、主側が心を込めて創った 体験とくつろぎの場を、客側が無心にゆだねることで 受け取って楽しむ、そうやって 双方から創り上げるのがお茶の世界であり おもてなしっていうことなのかな~、なんて思ってみたりして。

相手を喜ばせることで 自分も満足や幸せを感じるもてなし側と、それを素直に受け取って楽しんで、結果相手をも喜ばせるお客側と。

互いに 「 相手を喜ばせる = 自身の幸せ 」、つまり 手っ取り早く言えば、自他一体。





そして、このおもてなしが成立する肝心かなめは、その思いやりや受け取り方が、よけいな意図や下心なしに 純粋なものであること。

過去や未来に関係なく、いま ここ で 瞬間感じるものに素直であること。

見えない根っこに そんな氣持ちがあれば、見える形は どんなでもお好み次第。

毎日の暮らしにだって、お商売にだって、イベントにだって、いくらでも応用できる。

そんなお楽しみに夢中になるのが、いま ここ にいること、なら、みんなして そちこちで 無心に 「喜び 喜ばせ」 の暮らしを楽しむだけで、巷に漂っている不安なんて 吹き飛ばせちゃうんじゃない? \(^o^)/





。。。。な~んてことが、なつかしい思い出を発端に、一瞬のうちに駆け巡ったのでした




で、一瞬の思いが なんで2000字以上のブログになるんだ? とかの突っ込みはナシでお願いしますね
























土砂降りですが

2014年07月10日 08時16分03秒 | 自然


夕べもまた寝落ちして、ブログアップがけさにずれ込んじゃいました(^^ゞ

まだ暗いうちに 電源開発のダム放流アナウンスと 市役所の波浪警報発令アナウンスで、続けざまにたたき起こされましたが(笑)

そして、たったいま 二度目のダム放流サイレンが。

電源開発さん、2011年9月の水害から学んでくれているのかなぁ。。。雨音が大き過ぎるのか 放流水量を知らせるアナウンスがほとんど聞き取れなかったんだけど。

あのとき 役場の災害放送と合わせて 肝心なときほど聞こえなかったと だいぶ問題視されてたはずだよね?

台風の勢力はかなり削がれたようで 格別心配もしていませんが、断続的に雨音が激しくなると、2011年のトラウマとでもいうのか ちょっと胸のうちがざわつきます。

まあ、あのときに比べれば まだまだたいしたことないんだけれど

トラウマも幻ですよね、過去を今に当てはめてる自分がいるだけで☆

氣持ちでわざわざ引き寄せちゃったりしたらつまらないしね。。。。うん、氣を楽にして なにか夢中になれるような楽しいことしようっと♪




みなさまのところは 天候いかがでしょうか?

お出かけになられる方は、どうかお氣をつけていらしてくださいね。

こんなお天氣でも にっこり笑って、きょうもよき日、決まり~ (^^)























無心

2014年07月10日 07時44分25秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「通奏低音」 とは、主にバロック音楽における伴奏形態を指す言葉で。。。。な~んて、その昔受けた西洋音楽史の講義を思い出すなぁ

譜面には 一番低音のパートのみが単音で記され、そこに和声を示す数字が添えられているので、その低音部自体を指す言葉としても使われます。

現代音楽に比べれば それはそれは慎ましやかなバロック音楽、中でもこの低音パートなんて あまりにも地味で ほとんど意識されないのですが、低音部を抜いた演奏と聴き比べると、「あ~ぜんぜん違う~、けっこう存在感あったんだなぁ」 と初めてその重みがわかる、というか。

突然なんでこんなことを言い出したかっていうと、この地味~な存在感の通奏低音って、「不安」 と似てるなぁ、って かねがね思っていたから。





「思い出は 美し過ぎて ~ 」 なんていう八神純子さんの歌があったけど、美し過ぎるどころか ふつうに美しいとか懐かしいとかいう思い出も ほとんどないといっていい貴秋。

そんなにいいことなかったの? どんな人生!? とか思われそうだけれど、そういうわけではないのです。

もちろん楽しいこともうれしいことも 一杯ありました。

ただ、記憶として振り返ると、意図的に集中して思い出そうとしない限り、ほとんど上がってこない。

最近は 後ろ向きでなくなったためか、良くも悪くも ことさらその傾向が強いのです。





ひとつには、幼い頃から 無自覚に感性を鈍らせていたせいでしょう。

まともに感じていたら あまりにもストレスの多い環境だったため、氣づかないところで防衛本能が働いて そういうことになってたみたいです。

記憶のもとからぼやけちゃってるんだから、思い出が鮮やかに上がってこないのも当たり前か (^^ゞ

もうひとつ思い当たるのは、前述の通奏低音のごとく 無意識のうちに常にまとわりついていた 「不安」 に遮られるせいか、と。

当時は氣づいていませんでしたが、どんなに楽しく浮き立っているときでも、実はひそかに 四六時中といっていいほど ベールのような不安に覆われていたらしい。

せっかくの記憶に届くより先に 手前のベールに触れてしまうおかげで、素敵なはずの思い出が 色調がくすんで見えたり不鮮明に映ってしまうようなのです。

そもそも、楽しいことに向かう動機自体が、純粋に楽しむためというより 「不安を忘れるため」 っていうのがほとんどだったみたいだから、それはもう不安につきまとわれるのも当然なありようだったのかもしれませんね (^_^;)





そんな私が、とりとめもなく浮かんでくる思い出に ひとつ 不安の影が混じってないものがあることに氣づいたのは、ついおとといのこと。

それは、小5のときにしばらく通っていた お茶のお稽古の記憶。

クラブで一緒だった 一年上の先輩のお母さんが お茶の先生をしておられるのがわかったとかで、これから毎週土曜の午後 そこにお稽古に通わせるから、とある日突然母から言われたのです。

しかも、同じクラブ所属の親友と二人で。

私の方から行きたいと言い出したわけではなかったけれど、けっこううれしくて 楽しみにしていたのを覚えています。





で、そのお稽古。

先生は、いつも着物をお召しで、子ども相手であっても 言葉遣いがとても上品で丁寧な 優しい方。

「友だちのお母さん」 というイメージとあまりにもかけ離れたその雰囲氣に、感嘆しきりだったものです。

本格的なお茶室に 親友と並んで座って お手前を教えていただくのですが、厳しくされたことは一度もなく、親友が教わっている間など どうやらすっかりリラックスして、ぼぉ~っと場の雰囲氣に浸り込んでいたようなのです。

肝心のお手前の手順ややり方などは きれいさっぱり忘れてしまっているのに、その場の情景や 味わった空氣は、今でも鮮明に覚えています。

午後の日がさす障子に映る、南天か何かの 庭木の影。

釜の蓋を開けるたび しゅんしゅんとたぎる湯から立ち上る湯氣。

たたんだ袱紗で なつめの蓋を拭くときの 丸みを帯びたなめらかな手触り。

しんと静かで ぴんと引き締まっているのに、ぴりぴりした緊張感はまったくない、得もいわれずたおやかで心地よい空間。

うっとりくつろいで味わう甘い和菓子、続いていただく抹茶の苦味さえ まろやかで優しい。

視覚的というより 心情的なものなのでしょう、ひとたびほどけ出すと あとからあとから湧き上がる、涙が出るほど懐かしい思い出。





思い出すこと自体は これまでにも何度となくありましたが、今回はっと氣がついたのは、この記憶に不安の影がまったくないのは ただ純粋にその場を感じて体験していたからだ、ということ。

つまり、あのお稽古中の私は、今 ここ に 完璧なまでに同化していて、不安の入り込む余地がまるでなかったのです。

あのころは、若いクラス担任の先生が 手のかかる子どもたちを うまく統率できず、自信をなくしてお休みしがちで、クラス全体が不安定になっており、そんな中で まわりとうまくなじめず 孤立していた私には、つらいこと・氣の重いことがやたら多い日々だったのに。

他の時間については、家だろうと学校だろうと 鮮やかな記憶なんてまったくといっていいほどないのに、このお茶の時間の記憶だけが 別格状態で インナーワールドに大切に大切にしまわれて、今なお輝きを放っているのです。





不安はやはり、今 ここ とは相容れないのですね。

過去のうれしくない記憶に 未来への懸念が合わさって生まれるのが、不安。

意識の焦点を 今 ここ にぴたりと合わせている限り、頭の中にしか存在しない不安につかまることはないのだと、思い出に教えられました。

つまりは、無心 ということ。

なにかに夢中で打ち込んでいるようなとき、不安が忍び寄る隙はない。

よく聞く 「ワクワクすること、大好きなことをしなさい」 というアドバイスは そういうことだったのね、と、おおいに得心がいったのでした。