Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ゆれる

2006-08-01 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★★ 2006年/日本 監督/西川美和
<梅田シネ・リーブルにて>


「息を呑んでスクリーンを見つめる」


女のドロドロした粘着質な物語「ヴァイブレータ」を描いたのは、男性の廣木隆一監督だった。そして32歳の若手女性監督西川美和は、男の見栄や嫉妬をさらけ出し、兄弟の再生の物語を作った。女性の監督だから繊細な物語が撮れるとか、男性だからダイナミックにできるとか、そういった男性、女性という分類は、もはや全く関係ない。ようやくそういう段階に来たのだ、と非常に感慨深く思う。

それにしても、西川監督の人間描写には全く恐れ入る。人間の心の裏側、その裏側まで徹底して侵入し、そして暴き出す。その「やり口」は、文字通り他の監督にはできない「西川流」とでも言ったところだろうか。前作「蛇イチゴ」でもそのやり口は存分に発揮されていたが、「ゆれる」ではさらに磨きがかかっている。

「蛇イチゴ」で、家族の仮面をはぎ取る役割を担っていたのは、兄の宮迫博之だった。「ゆれる」では兄弟に愛される女智恵子と、木村裕一演じる検事が、兄弟間の確執をあぶり出す役割を担っている。そのじわりじわりとあぶり出される確執を観客は固唾を呑んで見守っている。その緊張感たるやすさまじい。こんなに穴が開くほどスクリーンを見続けたのは久しぶりだ。抑えた演出と鋭い人間描写、そして弟が橋の上で見たものは一体何だったのか、二転三転するストーリー展開。これが2作目とは本当に信じがたい。

東京で好きな道を歩みカメラマンとして華やかな世界で働く弟、そして実家を継いで親の面倒を見ている兄。このふたりの構図は兄弟という縛りを越えて、様々な人間関係に当てはめることができると思う。人間は誰だって100%善人ではないし、時には嘘をついたり、見栄を張ったりして生きている。その上できっと相手はこう思っているだろう、とか、この人はこんな人だというイメージ、思いこみがある。が、しかし、それが全く違っていた時の恐怖。人間関係でこれ以上の恐怖ってないんじゃないかな。

橋の上で智恵子が嫌悪の表情を浮かべて「触らないで!」と叫ぶシーンも心がざわざわした。拘置所でにいちゃんが弟に唾を吐きかけるシーンも。でも、この映画のすばらしいところは、その徹底的な破壊の向こうに兄弟の再生を描こうとしていること。人間なんて、所詮こんなもの、と悪態を付くことは結構簡単だと思う。そこから、いかに希望を見せることができるか、それこそが映画が為すべきことなのだ。

主演オダギリ・ジョーの魅力も全開。男のずるさ、成功した人間の傲慢さが暴かれていく様子を渾身の演技で見せてくれる。少しずつ兄に不信感を抱き、揺れに揺れる弟の心。我々観客も、彼と同じように揺れに揺れていた。「にーちゃーん!」と叫びながら兄を追いかけるラストでは、涙が止まらなかった。

そして、兄を演じる香川照之にも心からの拍手を。洗濯物をたたむ後ろ姿、拘置所で弟に悪態をつくシーン、そしてラストの微笑み。今でも次から次へと印象的なシーンが蘇る。とにかく表情がすばらしい。多くを語らずとも、無言の表情が全てを物語っていた。また、検事役の木村祐一の存在感もすばらしかった。あのいやらしい突っ込み方が、実に堂に入ってましたねえ。

さて、現在多くの方が絶賛されており、評判が評判を呼んでいるのか、夏休みとは言え、超満席。平日の15:30開始で映画の日でもレディースデーでもないのに、立ち見も出てた。年齢層も実に幅広く、この映画が多くの人に支持されているのを認識。非常に嬉しく感じた。

クラッシュ

2006-08-01 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 2004年/アメリカ 監督/ポール・ハギス

「クラッシュさせることで、真実が浮かび上がる」



物語がダイナミックに動くわけではなく、非常に淡々とした展開。しかし、伝えたいテーマが非常にしっかりしている。観客を面白がらせよう、とか、ワクワクさせようといった媚びは一切ない。その潔さがすばらしい。ものすごく地に足をつけて撮りきっている映画だ。

複数のエピソードが並行して描かれてゆく。それが2つや3つではない。ゆえに、観客はそれぞれのエピソードを咀嚼するのが結構大変である。しかし、次から次へと展開される別々の物語(点)がお互いにぶつかり合って、つまりクラッシュして、次第にひとつの物語(線)になる後半から、観客はどの点とどの点が結びつくのか、固唾を呑んで見守ることになる。

この映画の最も大きなテーマは「人種差別」である。登場人物が非常に多いのでいちいち書かないが、それぞれの差別観というものは、日常のささいな出来事で顕わになる。例えば、サンドラ・ブロック演じる白人女性は、街角で若い黒人男性と擦れちがう時、思わず体をずらして夫の腕に手を回してしまう。それを黒人は「俺たちのことを怖がっているんだ」と解釈する。しかし、彼女に悪気はない。この悪気のない差別は、あちこちで発生する。しかし、お互いの領域に侵入することで(クラッシュすることで)、初めてこの「悪気のなさ」がいかに罪深いものであるかを人々は知ることになるのだ。

やはり数あるエピソードの中で最も印象深いのは、白人警官を演じるマット・ディロンだろう。職務質問と称して、黒人のリッチな夫婦に近づき、根掘り葉掘り聞いたあげく、警官という職に乗じて妻に卑猥な行為を働く。しかし、彼は偶然居合わせた事故で、警官としての正義感からその黒人の妻を命がけで助ける。死ぬかも知れない黒人女性に「あなたにだけは助けられたくない」と叫ばれながら。果たして、この白人警官は、黒人差別者なのかどうか、わからなくなる。しかし、人間の差別とは、得てしてこのようなものではないのだろうか、と思わせられるのだ。

立場や環境が変われば、差別観だって、変わる。逆に言えば、差別とはそれほど個々の強い信念の元に成り立っているわけではないのかも知れない。だが、この事実が結構やっかいなのだ。それは、ちょっとしたきっかけで差別がなくなることもあれば、またその逆もあるということ。「差別」というものがいかにファジィなもので、故にいかにやっかいなものかをこの映画は物語っている。しかし、それを知るためには我々はもっとクラッシュしなけれなならないのだ。差別でどん底まで落ちる主人公がいて、ただ声高に「差別はいけないのだ!」と叫ぶ映画とは、明らかに手法が異なる。しかし、だからこそ差別とは何なのだろうと観客に深く考えさせるのだ。