Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

桐島、部活やめるってよ

2013-01-30 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2012年/日本 監督/吉田大作
(映画館にて鑑賞)


「学校カーストと桐島マクガフィン」


高校生たちの閉塞感を鮮やかな切り口で見せ、かつ映画ファンの心をくすぐる仕掛けにあふれた快作。
昨年度の邦画、ナンバーワンに面白かった。

「バレー部キャプテンの桐島が部活を辞める」その一報に揺れ動くそれぞれの高校生たち。
ここで描かれている彼らの世界は「学校カースト」とも表現されているそうで、
「部活で活躍しているかどうか」
「それは体育系か文化系か」
「異性にモテるか」
という条件の掛け算でそれぞれの階級が割り出される。
バレー部キャプテンで美人の彼女がいる桐島は学校カーストのピラミッドの頂点であり、
神木隆之介演じる映画部の前田はその最下層。冴えない映画ヲタで女子からはほとんどいないものとされているような存在。
映画部員同士のマニアックなやりとりはかなり笑える。

おそらくこれをネタバレしても、全く映画の面白さは変わらないだろうから書いてしまうのだが、
桐島は冒頭からいつまでもたっても出てこない。桐島はいわゆるマクガフィンだ。
そして、桐島をとりまく生徒たちの反応がそれぞれの視点から、繰り返し金曜日の朝から描かれてゆく。
このそれぞれの視点からという手法は原作通りではあるけれど、映画では桐島の不在がより強烈に浮かび上がっている。
「アウトレイジ」でアイツが死ねばコイツが出てくるといった人間模様が次々と玉突きのように動き始めるのと同様、
桐島の不在が生徒同士の立場を微妙に変化させてゆく。その語り口が非常に巧い。
また原作小説が比較的淡々と彼らの心情をなぞっているのに対して、映画は生徒たちの心のざわつきをとても丁寧に掬い取っている。
不安に駆られる生徒たちの様子はまるで4本足の椅子の1本がもげてしまったようで、ふらふらと安定感を失っている。
ある種諦めにも似た感情で自分の身を置いてきた階級制度がピラミッドの頂点を失ってしまったことにより、バランスを失ったからだ。
大人の目から見れば、部活くらいで、彼女がいるかいないかくらいで、と思える事柄も学校という閉じた世界にいる彼らは
それらの「スペック」が全てであり、一度己に貼り付けられた階級は二度と変えることができないと思っている。
ところがラストに向けて、決して向き合うことのない上級カーストと下級カーストがある出来事によって邂逅する。


(以下、ネタバレ)



ゾンビ映画撮影中に全ての階級の生徒達が入り乱れて乱闘となるシーンのカタルシス。
そして、その後ビデオカメラの蓋が引き合わせるふたりの生徒。
このラストシークエンスには、映画への愛がいっぱいで胸を打たれた。
このところの邦画ではやたらとゾンビ映画がモチーフとして使われているのだが、
これはただの偶然ではないように強く感じる。
自分たちの作りたいものを、自分たちの手で作る。そんな映画作りの原点回帰にも似たメッセージが
「ゾンビ映画」というシンボルとして繰り返し現れている。そういう気がしてならない。