Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ミリオンダラー・ベイビー

2006-08-15 | 外国映画(ま行)
★★★★☆ 2004年/アメリカ 監督/クリント・イーストウッド
「極限で結びつく魂の物語 」


クリント・イーストウッドという監督は題材選びがうまいなあ、と本当に思う。目の付け所がいい、というのかな。しかも、問題定義の仕方がひと筋縄じゃない。その問題点を煮詰めて煮詰めて、周りに付着しているいろんなものをそぎ落としながら、「芯」だけにして「どう思う?」と目の前に突きつけるような感じだ。公開が迫った「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」ではついに戦争を描くが、いったいどんな研ぎ澄まし方をしたのか、今から興味深い。

これは貧しい女性ボクサーマギー(ヒラリー・スワンク)と老トレーナーフランキー(クリント・イーストウッド)の信頼の物語でありながら、その軸にまとわりつくのは白人の貧困層問題、移民問題、尊厳死問題と実にヘビィな題材ばかり。しかし最終的に私が感じたのは、このヘビィさを補って余りある2人の愛の物語だ。ギリギリのところで生きようとするふたりだからこそ感じられる魂の結びつき、とでも言うのかな。

ボクシングという死と隣り合わせのスポーツを通して2人の魂は堅く結び合う。だから、マギーは本当に死を目の前にした時に迷うことなくフランキーに自分の命を委ねることができた。もちろん、マギーはフランキーに亡くなった父を見いだし、フランキーはマギーに自分の娘を重ねているのだと思う。だけれども、「父と娘」という関係ではしっくり来ない。やはり、これは一人の若い女性と年老いた男の愛の物語だと感じた。

誰もがこの映画を見て感じることは、マギーが成功を収めてからそこへ「尊厳死」という全くとんでもない方向へ物語が進むことへのとまどいだろう。私も正直、この展開には随分驚いた。貧しいながらも努力し、血の滲むような練習を続けようやくつかんだ栄光の座。それが一転マギーは四肢麻痺になってしまう。

どう見ても救いようのない展開ではあるが、尊厳死を選択するマギーとフランキーに私は崇高なものを感じた。もちろん、そこに至るまでの苦悩が生半可なものではないのは承知だが、マギーが死を懇願しそれを受け入れるフランキーの2人からは非常に宗教的で厳かな佇まいを感じる。しかし、この2人は敬虔なカトリック信者。道義的に考えれば尊厳死など許されるはずはない。この相反する事柄が示す矛盾は、日本人よりも欧米人の方に訴えかけるものは大きいのだろう。宗教に関して多くを語ることのできない日本人にとっては、様々な事を汲み取るのが非常に難しい映画だ。しかしそれでも、魂を込めて生きようとした2人の姿は多くのことを我々に訴えかけるだけの力を持っている。


ミスティック・リバー

2006-08-14 | 外国映画(ま行)
★★★★☆ 2003年/アメリカ 監督/クリント・イーストウッド
「クリントの問題提議を真摯に受け止めなければならない」



見終わってつらい気持ちになっても、そこから感じ取れることがたくさんある映画。アメリカ社会が抱える幼児性愛者の問題。「目には目を」の考え方が持つ危険性。郊外住宅地における閉塞感。確かにラストは悲劇的だ。だが、ここまで悲劇的だからこそ、我々は様々な教訓を得なければならないと思わせてくれる。

ただ、描き方があまりにも救いがないためか、最終的に暗い気持ちしか残らない、という感想が多く見受けられる。しかしそれは考えようによっては、それだけイーストウッドの極めて醒めた目で描ききった演出力のレベルが高かったからこそではないだろうか。

ちょっとしたボタンのかけ違いで悲劇が悲劇を生む、という作風に関しては「砂と霧の家」でも述べた。今作では、デイブはもちろん、「あの時車に乗せられたのが、デイブじゃなかったら」という思いは、ジミーにもショーンにもくすぶり続けている。何気ない行動や判断がとんでもない悲劇を呼び込む。何と人生とは不条理なものか。しかし、神でもない我々はいかなる不条理をも受け入れ生き抜くしかない。しかし、デイブは友人であるジミーによって殺されてしまう。しかも、大きな誤解をもって。デイブの死は現代社会が抱えている問題の象徴だ。

ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン。3人の俳優の演技力は、もう非の打ち所がない。ショーン・ペン演じるジミーは、短絡的で暴力的で本当に嫌な奴なんだけれども、彼が演じるとただの悪党にならないのが本当に不思議。ケビン・ベーコンはここのところ悪役が(しかも本物のワル)多いんだけども、悪の匂いを残した人間くさい警官を見事に演じてた。ティム・ロビンスは、最近こういう暗い役が多いなあ。あの挙動不審なところなんて、やっぱりアンタなの?と私も疑ってしまったもんね。トラウマを抱えたまま成長した男のもの悲しさが滲み出てました。

映画のラストは、原作よりもさらにぼかした終わり方になっている。それはこの問題をしっかり受け止め、考えて欲しいというイーストウッドの気持ちがそうさせたのではないだろうか。

みんなのいえ

2006-08-13 | 日本映画(ま行)
★★★ 2001年/日本 監督/三谷幸喜

「部屋を飛び出したら、予想通りつまらなくなった」



あれほどの名作を次々と送り出している三谷幸喜がなぜ?という哀しみの後、「いや、これはわざとこうしたんだ、そうとしか思えない」という思いにかられ、なぜこの作品を撮ったのか無理矢理理由を考えてみる、という不毛なことをしてみる。もちろん、個人的な勝手な想像で三谷幸喜が聞いたら怒るかもしれんが。まあ、見ることも聞くこともなかろう。

「シチュエーションコメディでしか、面白いものが作れない」という枠から一度出てみたかったんじゃないだろうか。そうとしか思えない。今作品は、家を建てたい若夫婦の奔走、ということで、文字通り部屋を飛び出し、様々な場所でのロケーションが多く使われている。映画的に言うと「長回しの撮影」が多く見られるらしいのだが、当たり前のことだが、長回しすれば映画的になるわけではない。私はこの作品で三谷幸喜の良さがことごとく削がれているような気がしてならない。内輪ノリの面白さを、今作では敢えて使わないようにした。「家を建てる」という一大ドラマをめぐる人々の悲喜こもごもをペーソスあふれる作品に仕立て上げたかった。しかし、そこに残ったのはありきたりな、そうあまりにもありきたりで、泣けもしない笑えもしない家族愛だ。

三谷幸喜が描く人物に多く共通しているのは「ゆるい感」である。なんかやる気のない人たち。そして、逆に人よりもやる気満々な人、つまり「勘違い野郎」がそこへ混じって騒動を起こす。今作品ではゆるいのが若夫婦八木亜希子と田中直樹だろうか。いや、田中直樹はいいとしても、八木亜希子の役割が何だったのか、今いちはっきりしない。この居心地の悪さは結局最後まで尾を引く。設計を頼んだ唐沢寿明と大工の棟梁である父の田中邦衛との板挟みになる彼女だが、本来はこの点において、あっちの味方だったり、こっちの味方だったりして、右往左往することできっと面白い小ネタがいっぱい出たはずだが、ついに不発。もう、これは敢えて「小ネタ」は封印したんだな、と思うしかない。

それから、私が大いに不満なのは、「デザイナーと大工棟梁のいがみ合い」という構図があまりにも陳腐な点だ。今作品は三谷幸喜自身が家を建てた時の体験に基づいているらしいが、本当だろうかと疑いたくなる。「新しきもの」と「旧きもの」が対立し、双方「いいものを作りたい職人気質」をもって和解と、す。んな、アホな。デザイナーも棟梁も一般的に「誤解されているキャラクター」をそのまま踏襲しているのも納得できない。世の中そんなにワガママ通している設計士ばかりではないし、棟梁はいつだって頑固なわけじゃない。この映画を見て「家を建てるってこういうことなんだ」とは、絶対思って欲しくない。夫が住宅の建築士なので、よけいにそう思う。この映画を見終わった夫はがっくり肩を落としていたもの。

というわけで、この作品は三谷幸喜作品だと思わずに見れば、そこそこに楽しめるのかも知れない。ただ、デザイナーと義父である棟梁があまりに仲良くなるのを夫である田中直樹が嫉妬する、というシーンがある。こういうエピソードは実に三谷幸喜的なのだが、これまた実に消化不良な処理のされ方のまま、放ったらかしなのだ。ううん、解せん。とにかくこの映画は解せぬ事づくめなのだ。

ラヂオの時間

2006-08-12 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 1997年/日本 監督/三谷幸喜

「ツボというツボは全部押すテクニシャンのマッサージ師映画」


名脚本家が満を持しての監督作品、しかも唐沢寿明、鈴木京香などの豪華俳優出演と聞いた時、正直私は「大丈夫か」と思ったものだ。しかし、その心配は杞憂に終わった。豪華出演陣がノリノリで大いに笑わせてもらった。まあ、そういう不安から入ったのが、良かったのかも知れない。

やはり、三谷幸喜はシチュエーション・コメディでこそ、その才能を存分に発揮する。私が最も好きなドラマは「王様のレストラン」。閉じられた空間で繰り広げられる内輪の小ネタ集。「小ネタ」と言う言葉は、何だか非常に軽いもののように感じられるが、小ネタで笑わせるというのは実は非常に難しいんだと思う。次から次へと小ネタを出すために、たくさんの伏線を張る。もちろん、それらの伏線は整然としており、かつ一つの結論へと収束されねばならない。

登場人物が多く、場面もほとんど変わらないため「12人の優しい日本人」と比べてしまう。やはり、監督が三谷幸喜なので、ドタバタした感じは否めない。ただ、このドタバタはギリギリボーダーラインをうまくキープできていると思う。例えばラジオ収録シーンの井上順のセリフ回しなんか、オーバーアクトでないと出せない笑いだし。そもそも、パチンコ屋で働く主婦の物語が、一人の主演女優のワガママによって、なぜかアメリカの弁護士の話になってしまうという展開そのものがハチャメチャだもんね。

「内輪ネタ」で笑えるというのは、観客がいかにその「内輪の世界」に入り込めるかというのが大きなポイント。見た目はゆるゆるでも、内輪の世界観はしっかり一人ひとりの役者が共有していないとできないことだと思う。そういう点でもこの作品は各俳優陣がラジオ局のスタッフを自然にこなしていた。こんな人いそう、というゆるい感をみんなが演じられていた。それは、何か演出の妙ということではなく、「三谷幸喜の世界」をそれぞれの役者がわかっているから、なんだと思う。

数ある出演陣の中で私が好きなのは、布施明。あの軽薄な感じがまずおかしい。そして忘年会の景品で当たった、という電子ピアノ(なにゆえ電子ピアノ?)を担いで収録現場に現れる→次のシーンで何気に机の上でそれを弾いている。ここで私は声を出して笑ってしまったよ。でもね、人によってはそれのどこが可笑しいの?と思うかも知れない。これこそが「小ネタ笑い」の深みである。小ネタ笑いのツボはビミョーなポイントのため、人それぞれビミョーに違う。それをまるでゴッドハンドを持つマッサージ師のように「ここか?ここがポイントか?」とツボ押しが続く。あまりに次々とツボ押しの矢が放たれるため、「そこが効く~」と叫ぶ客の笑い声がそこかしこで起きるのだ。

エンドロールが流れ、最後のシメとも呼ぶべきツボ押しが。「千本ノッコの歌」だ。しかも朗々と歌い上げるのは、布施明。やられた。未だに何度聞いても吹き出してしまう。

12人の優しい日本人

2006-08-11 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1991年/日本 監督/中原俊

「日本のコメディもやるじゃん、と初めて思った」


名作シドニー・ルメットの「12人の怒れる男」をベースに、もしも日本に陪審員制度が導入されたらを描くコメディ。この当時は鼻で笑っていたけれども、あれから15年。なんと日本にも陪審員制度が導入されることが決定。もしかしたらこの映画のようなことが、実際に起きるかも知れない、と思うと安易に笑ってもいられないのだが、まあそれはさておき、これは実に面白い映画です。

これを観て日本のコメディも悪くないな、と思い、脚本家の名前を頭に入れて、以来ドラマの三谷幸喜作品は欠かさず見るようになった。演劇好きの人であれば、まず東京サンシャインボーイズから入るのだろうが、演劇が苦手な私はこの「12人の優しい日本人」を経由して三谷ファンになったのだ。

登場人物が12人と多いのだが、観客はすぐにそれぞれのキャラクターを把握できる。それが、審議を始める前に喫茶店に飲み物を注文するくだりだ。何でもいいという人、誰かの注文に合わせる人、メニューにない物を無理に頼もうとする人、ぎりぎりになって注文を変える人…。この短いシーンで12人の個性が顕わになるのだ。私は冒頭のこのシーンで三谷幸喜のセンスにすっかりやられた。しかも喫茶店の注文一つまとめられない状況が、今後の審議の進まぬ状況を予感させるのだ。

シーンは、裁判所の一室の中。最初から最後までセリフの洪水。まさに脚本力がないと、116分ももたない。それにしても、各出演者のかけあいの間が絶妙。セリフがまるで「合いの手」のように次から次へとぽんぽん投げ出される。聞いてて、心地よいリズム感がある。「責任を取りたがらない」「人の意見にすぐ左右される」といった、日本人気質を逆手に取った自虐的なセリフが次から次へと飛び出し、大爆笑。

また三谷幸喜は12人それぞれに非常に深いキャラクター性を与えている。12人の人と成りを作り込んで、それぞれが突っ込みの矢を放ち合いながら、議論をあっちへこっちへと振り回す。裁判所の部屋の中、というシチュエーションが全く変わらない状況で、これだけスリリングな展開が作れるなんて、本当にすばらしい。一体、どんな結論になるのか、ハラハラドキドキだ。

さて、この映画。監督は、三谷幸喜ではなく、中原俊である。私は、中原監督の誇張しすぎない静かで丁寧な作り方が、この映画を実に品の良い作品にしたと思う。ドタバタコメディにしようと思えばできる素材である。それを、比較的ゆったりとしたトーンで描いているのが、非常に良かった。判決が決まり、ひとりずつ部屋から出て行くラストシーン。初めての部屋以外の場面になること、ドアを開けて去ることが、12人の開放感を表している。一人ずつ去ってゆくことで観客も映画の余韻をしみじみ味わうことができる。

最後に。この映画を見て弁護士を演じる(実は俳優だったのだが)、ひと際存在感を示す若い役者に私は一目惚れ。エンドロールが流れる中、その俳優の名前を頭にたたき込んだ。豊川悦司。以降、私は彼の大ファンになったのだ。


ツユクサ

2006-08-10 | 四季の草花と樹木
ブルーがきれいですねえ。身の回りの花を撮っていると、自然の花で青い花って少ない、というのに気づきました。やっぱり、白や黄色が多いです。しかも、このツユクサの青はとても鮮やかですねえ。

基本的に花の花びらがなぜ5枚かというと、頂点を結んだ五角形の形が非常に安定したフォルムだからだそうです。自然界のものは、そうやって安定した形を自分で選び取って、生き残っていくんですね。(これは息子が科学館でもらったDVDの受け売り^^)

で、このツユクサは花びらが上に2枚だけ。こういった花びらが5枚じゃない花を見ると、何だか頼りなげではかなげに感じるのは、この不安定なフォルムを選んで賢明に生きている姿に、何かを感じるからかも知れません。


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ヨウシュヤマゴボウ

2006-08-09 | 四季の草花と樹木
わっさ、わっさと林道脇に生えている。でも、ひとつずつ花を見ると結構白い小さな花が集合していて意外とかわいいのだ。

下向きに垂れ下がるようにして咲いているので、ゴボウというよりもブドウって感じなんだけどなあ。


こちら、実が成った状態。何かに似ていると思いませんか?田舎暮らしの私は、もう真っ先に大嫌いなアイツを思い浮かべました。
ムカデです。
もう、ホントに大嫌い。未だに発見したら「ぎゃーっ!!」と叫びます。ちょっと脱線しますけど、春先に撮ったコレ。たぶんシダの仲間だと思うんだけど。


これもムカデに似てるでしょ~。ああ、気持ち悪い。しかも赤いってのがねえ、さらに似てる。あんまり似ているので写真撮ってしまったよ。

話戻って、このヨウシュヤマゴボウは真っ黒な実がなるんです。つぶすと赤紫の汁が出るんだけど、これは染料なんかになるのかな?草木染めとかって、結構興味あるんだけど、なかなかきっかけがありません。藍染めはやったことあるんだけどね。


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蛇イチゴ

2006-08-08 | 日本映画(は行)
★★★★★ 2003年/日本 監督/西川美和

「普通の人間を普通に描くとこんなにも恐ろしくなる。」


普通の平凡な家族の仮面をはぎ取る、その何気ない光景に背筋がぞっとする。仮面をかぶった家族たちの冷ややかな視線、言動。人間って、こんなに恐ろしくて醜い生き物なのだろうか、と思う。しかし、だからと言って絶望的な気分になるかというと全くそうではないのだ。なぜなら、家族が集うシーンは、ドキュメンタリーかと思うほどリアルな描写で、この本物っぽさ、生っぽさに非常に引きつけられるからだ。これは西川監督を見いだした是枝監督の影響なのかも知れない。そのリアルさに、まるで隣の家族をのぞき見しているような感覚を覚える。

役者の演技は非常に抑制されていて、セリフ回しも淡々としている。しかし、時折見せられるシニカルでコメディタッチの演出が小気味よくて、全く飽きさせないし、面白い。それにしても嘘つきで、傲慢で、卑屈で見栄っ張りな人間の裏側をじわーっと見せる西川監督の演出力には舌を巻く。20代でにこんな映画を仕上あげてしまうなんて、ほんとすごいよ。この人には、人間の表と裏をさんざん見てきた老獪な年取った監督が乗り移ってんじゃないの。

明智家で展開される場面は、全てが名シーンと言っていい。いいかげんで嘘つきの兄(宮迫博之)、いい子を演じ続ける堅物な妹(つみきみほ)、リストラされたことを隠している父(平泉成)、ボケた祖父の面倒で疲れ切った母(大谷直子)。特に、平泉成と大谷直子の演技には、本当に唸らされてしまった。娘の婚約者が帰ったあと悪態をつく平泉成の二面性。男としての建前ばかりを気にして結局家族に迷惑かけてるくせに、とどのつまり自分じゃ何もできない男を飄々と演じている。

その平泉成の上を行くのが大谷直子の演技である。面倒を見ている祖父に、こんなもの食えるか!と皿を投げつけられた後の少し首を傾げた沈黙の後ろ姿。ストレスで円形脱毛症になった頭を鏡に映したときの表情。一緒に暮らす妹ではなく家出した兄に「おにいーちゃん」としなだれかかる息子偏重の愛情表現。どれもこれもが、すごいです。

母親にも息が詰まると言われた妹は、ラスト、嘘だらけの兄に子供の頃の思い出話を持ち出し、その真相をせまる。それは、兄を信じられない自分に対する賭けだったが…。

ラストの余韻もすばらしい。兄のメッセージを受け取った妹は、これから変わってゆくんだろうか。久しぶりに見直したのだけど、本当にすばらしい映画だと思う。音楽のセンスもとてもいいし。(今作音楽を担当したカリフラワーズは、「ゆれる」でも参加している)「ゆれる」が大ヒット中なので、きっと本作も鑑賞して、西川監督の手腕が多くの人にさらに認識されるのではないかと思う。



ハンニバル

2006-08-08 | 外国映画(は行)
★★★★ 2000年/アメリカ 監督/リドリー・スコット 

「ハンニバル・レクターの独壇場」


前作「羊たちの沈黙」があまりに良かったので、この作品はなかなか見れなかった。なぜなら、FBI捜査官クラリス・スターリング役をジョディ・フォスターではなく、ジュリアン・ムーアが演じていたからだ。

物語は、前作でハンニバル・レクターことレクター博士が逃亡して数年経ったところから始まる、文字通りの続編。レクター博士はフィレンツェの権威ある古い教会で司書としての職を得ようとしていた。なるほど、イタリアねえ。拷問や処刑といった中世イタリアの歴史が、レクター博士の口から次から次へと語られると怖いの何の。そういうアンタは次に何をやらかすんだい?とゾクゾクする。レクター博士には莫大な懸賞金が懸けられていて、彼の存在に気づいたイタリア人刑事が金目当てにチクるんだけど、それは観客の期待通り、レクター博士の餌食になってしまうんですよね。ああ、バカな奴。

それにしても、こんなに猟奇的で悪魔の化身のようなレクターという男を、ある種高貴なまでの存在に仕立て上げてしまうアンソニー・ホプキンスはさすが。「羊たちの沈黙」では、天才的なサイコキラーだったレクター博士が、今作では優雅さと気品を身に付けてしまった。宮殿にたたずむレクターはまるで神の啓示を受けた大司教のようだ。

一方、再びレクター捜査に関わることになったクラリス。いや、FBIという組織からその正義感ゆえにつまはじきにされ、強制的にレクター探しを命じられるわけだが、その孤独感をジュリアン・ムーアはうまく演じている。が、それでもこれがジョディだったらなあ、という思いは否めない。FBI捜査官という立場のクラリスは前作「羊たちの沈黙」で猟奇殺人犯であるレクター博士に癒されるわけである。以来、クラリスはレクターを殺人犯だとわかっていながら、心の奥底では自分のただ1人の理解者であるという思いを抱き続けており、そこから湧き出る苦悩と戦っている。その複雑な思いに苦しむ姿は、やっぱりジョディの方が似合っている。苦しさを強固な意志の力で乗り切る、普通にしててもそういう顔なんだもん、ジョディ・フォスターって。

それから、映画は原作とはかなり内容が違うらしい。実は「ハンニバル」は未読なのだが、どうやらクラリスはレクター博士と共におぞましい物を食するほど、親密な関係になるようなのだ。この改変が映画として成功だったのかどうかは、判断が付きかねる。前作でレクター博士の精神世界に強烈に惹かれていたクラリスが、次回作でそのような関係に陥ることは推測できる。しかし、それを映像化するには、反発の方が大きかったのでないだろうか。この件に関しては、原作を読んでからまた書いてみたい。

さて、イタリア人刑事が殺される中盤から、物語は一気に加速し、世にも恐ろしい晩餐会へと突入していく。これはね、ほんとに恐ろしいです。覚悟して観ないと寝られません。ホントに怖い。ひとりでは見ない方がいい。あまりの恐ろしさに固まったまま、見つめるエンドロール。そこで私はようやく気づいた。レクターの餌食となり見るもおぞましい姿になり、彼に莫大な懸賞金をかけていたこの物語のもう1人のキーパーソン、ヴァージャーを演じていたのは、私の大好きなゲイリー・オールドマンだったよ!よくこんな役引き受けたなあ。びっくり。


羊たちの沈黙

2006-08-07 | 外国映画(は行)
★★★★★ 1990年/アメリカ 監督/ジョナサン・デミ

「サイコスリラーの潮流を作り出した原点であり名作」


サイコものの歴史は「羊たちの沈黙以前、以後」と分類されるほどの記念碑的作品だと思う。例えば、少し視野を広げてオカルトやホラーというジャンルにすると「エクソシスト」とか「オーメン」などの名作あるわけだが、私はこれらの作品を観ていない。それは、ひとえに怖い映画が苦手だからだ。首が回るのも嫌だし、たくさん血が出るのも嫌だ。(最近かなりホラーが見れるようになってきたので、これらの古典物は一度じっくり見直そうとは思っている)

で、戻って「羊たちの沈黙」だが、この作品はこれらのホラーやオカルトといったジャンルが苦手であった私のような人間に対して「怖い映画って面白いんだ」という目を開かせてくれた。私が今「リング」や「CUBE」や「SAW」が見れるのは「羊たちの沈黙」が面白かったからに他ならない。そして、「猟奇殺人物」というアンダーグラウンドな世界が一気にメジャーなエンターテイメントとして確立されたのも今作品が興行的にも大成功を収めたからだろう。

おどろおどろしい殺人劇が中心でありながら、アカデミックな雰囲気が全編に漂う。このあたりのニュアンスが多くの人々を引きつけたのは間違いなく、それはひとえにFBI捜査官クラリスを演じるジョディ・フォスターとハンニバル・レクターを演じるアンソニー・ホプキンスの演技力の賜物である。殺人がおぞましければおぞましいほど、2人の冷静で落ち着いた演技がいっそう際だつ。また、「犯人は誰なのか」というスリラー物の主軸よりも、犯人逮捕の協力を要請するクラリスとそれを受けるレクター博士、2人の心理劇をしっかりと描ききっているのがいっそうこの映画をすばらしくした。

クラリスとレクター博士との駆け引きは、原作でも非常に重要な部分を占めているのは間違いない。だが、それを映像化すると考えた時に、物語を引っ張る猟奇殺人事件とのバランスをどう取るかというのは、一つの大きなポイントだったろうと思う。場面は常に拘置所の中。2人には大きなアクションもなく、セリフのみの心理戦が繰り広げられる。だが、この心理戦の場面が非常にスリリングで面白いのだ。ふたりの立場は、殺人犯と警官でありながら、時に父と娘、または医師と患者、または恋人といった関係性をさらけ出す。この複雑な心理状況をジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスは見事に演じている。

原作も何度も読んだし、映画は何回見たかな。たぶん10回以上は見ていると思う。私の中でこの作品は、俗に言う「エデンの東」とか「七人の侍」のような名作の域に入っている。

川遊び

2006-08-06 | 子育て&自然の生き物
近くの河原もいいけど、せっかく姪っ子が来たので、上流の水のきれいなところまで行ってみる。車で走ること20分。



川の向こう側に使い勝手の良さそうな広い河原があるため、川を横断する。これが結構流れがきつい。子供たちは、さっさと渡るが、私が一番へっぴり腰である。夫は鮎釣りで慣れているようで、釣り道具を担いでさっさと渡る。みんな、置いていかないで~。


そそくさと釣りを始める夫。超マイペース型のB型人間。


小さな魚がいっぱい見える。手ですくって捕獲し始める息子と姪っ子。


おっ、もう釣れたの!?幸先いいねえ、と言っていたのに、そのあとぷっつり釣れなかった。我々が近くでわーわー騒いでいたからかな(笑)。


やっぱり川はいいなあ。足を水につけているとすごく気持ちいい。私は日傘を差して読書などして過ごす。海と違ってべたつかないので、帰りも楽。よく考えたら、私は今年初めての川遊びでした。また、来ようっと。


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博士の愛した数式

2006-08-05 | 日本映画(は行)
★★★★ 2005年/日本 監督/小泉堯史

「人と人が信頼を関係を築くことの大切さ」



博士は80分しか記憶が持たない。だから、博士の前で不愉快な態度を取っても、一生懸命尽くしていても、いずれにしても博士は80分立てば忘れてしまうのだ。でも、家政婦の深津絵里は常に博士の前で真摯な態度でいることをつらぬく。息子には「その話は一度聞いたことがある」と決して博士の前では言わぬようにと諭し、博士が悲しい顔をせぬよう心を尽くす。おそらくそれは、人が人に対して礼儀を持って接する、という人間本来の基本的な行動なのだと思う。でも、大抵の人間には、なかなかそれができない。しかし、人が人を信頼し、尊敬を持って接するからこそかけがえのない時間や体験が生まれるのだ、ということをこの物語は伝えてくれる。

家政婦役の深津絵里が予想外に良かった。ちょっとおばさんっぽい服装で、人のいい家政婦というのを自然体で演技していたと思う。旬の女優ということで、キレイに見せようとしたり、自己主張するようなところがあれば、一気にこの映画のトーンは崩れていたと思う。

原作は既読。というわけでこの物語のおもしろさは何といっても「数学の面白さに触れる」ことである。その点は映画でも十分にその役割を果たせていたように思う。一緒に見ていた息子は吉岡秀隆演じる成長したルートの授業シーンが面白かったようで、ずっとこの授業が見ていたい、と言っていた。吉岡秀隆の演技は、どこかで見たようなつたない感じだが、今回の場合は教師に成り立ての雰囲気と上手く合っていた。まあ、何をやっても純に見えるのは間違いないのだが…。

博士と義理の姉の関係性については、原作より強調されてたんじゃないかな。それはとても良かった。朴訥で数学のことしか頭にないように見える博士が、義理の兄の奥さんを愛していた。その事実は博士のキャラクターにより人間味を加えることができた。

博士が熱を出して倒れてしまうことと、それをきっかけに解雇されてしまうことは、大きな事件なんだけども、そこを乗り越えていく、という見せ方はしないんだよね、敢えて。象徴的なのはラストシーンで大きくなったルートが博士に頭をなでてもらい、キャッチボールをする場面。それを家政婦と義理の姉が見守る。そこには疑似家族が存在する。それぞれの心の中の風景。これは「泣くための映画」なんて言い方が存在する昨今、小泉監督は敢えて泣かせないような演出を心がけたのかも知れない。ただ個人的には、原作を読んでいる時に感じた、こみ上げるような気持ちを味わいたかったというのも正直な感想。山もなく、谷もなく、ただ暖かな風を感じる映画。それはそれでアリだ。好き嫌いは別にして。

サルスベリ

2006-08-04 | 四季の草花と樹木
今年の春に植えたばかりのサルスベリ。何色が咲くかドキドキしていたら、ピンク色でした。ふんわりとしたやさしい色合いで、なかなかいい感じです。真っ赤なサルスベリはちょっと主張が強いなあ、と思っていたのでほっとひと安心。

サルスベリの花って、よく見るとおもしろいです。ひとつのまんまるい蕾から弾けるように、ひらひらした花びらが円状に広がって咲いているのです。冒頭の写真はひとつの蕾から咲いた花。花って、よく見ると不思議なものがいっぱいありますよね。


ようやく咲き始め、といったところ。
これからどんどん咲いてくれたらもっとキレイな感じになりそうです。


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HANA-BI

2006-08-03 | 日本映画(は行)
★★★★☆ 1997年/日本 監督/北野武
「渡辺哲登場のシーンがとても好き」


北野武の映画は、静かで退屈なのに、なぜか一生懸命見てしまう。それもこれも、「間」のせいなんだ。絵が止まる、音が止まる。なんなんだろう、この静寂は。居心地のいいような悪いようなむずかゆい気分になった時に、すばらしいタイミングで次の絵が始まる。その繰り返しが奇妙な高揚感を生む。

物語は、すごくベタな展開である。不治の病の妻、金がなくてヤクザから金を借りての逃避行、下半身不随になった同僚。普通に撮れば、Vシネマ。だけど、もうこれは頭の先からつま先まで「キタノ映画」なんだ。

スクラップ工場のオヤジ、渡辺哲が登場するシーンが、もの凄く唐突。前のシーンと全く関係なくいきなり道ばたで当て逃げされた軽トラックが映る。、その横をダンプがさらに扉に体当たりして通り過ぎてゆく。そして、すぐに全く違うシーンへ。一体今の挿入は何だったのか、と妙な居心地の悪さが残るのだが、件のダンプを運転していたのは渡辺哲で、同じようなシーンが随分後になって現れ、ようやく観客は先のシーンを理解する。この当たりの見せ方がまさに「キタノ流」で、編集が一番好きと語る北野監督の手腕がこういう場面に存分に現れている。

また、このオヤジと武演じる西刑事のやりとりがかなり可笑しい。例えば座頭市で、まぶたに目の落書きしてたり、落ち武者がわーわー言って走り回る場面は、正直全然笑えないんだけども、HANA-BIにおける、武と渡辺哲の掛け合いは、非常に面白い。キタノ映画には、こういった、乾いたローテンションの笑いの方がぴったりハマると私は思うんだけど。

そして死にゆく西と、生を選び取る堀部の対比がすばらしい。特に私は堀部が花屋の前に佇み、そこに監督が描いた「頭が花にすげかえられた動物たち」の絵が次々と挿入されるシークエンスが好きだ。頭が花になった動物の意味するものは一体何か、堀部はその絵に一体自分の何を投影しようとしたのか。北野監督自身が描いた絵の使い方に関しては賛否両論あるようだが、これほど内的な世界を表現するのなら自分で描くしかない、というのもわかるような気がするのだ。

パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

2006-08-02 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2006年/アメリカ 監督/ゴア・ヴァービンスキー
<TOHOシネマズ二条にて>

「パート3へ続く?!でも、まあいいか、許してやる」



生粋のジョニデファンなら、彼の今シリーズの演技についても、キャラクターについても、そして何より今作であまりにもメジャーになってしまったことを嘆き悲しんでおられると推測する。寅さんを演じた渥美清が全く違う役ができなくなってしまったようなことにならないことを、祈るばかりだ。今作でアカデミー賞なんて絶対取らないでね、ジョニー。

さて、何が面白かったって、あの海の妖怪たちでしょう。頭がタコでしかも足がぐにゃぐにゃ動いているのが、気持ち悪いのなんの。何気にびよ~んとフジツボがほっぺに発生したり、貝殻の中身が顔になっててぐるぐる回ったりと、その発想と描写には「よー考えてるなあ」と感心しきり。こういう化け物系って、ほとんどやり尽くした感があったけど、この海の妖怪どもはとても新鮮。「気持ち悪~い」といいながらゲラゲラ大笑いしてしまった。

公開前にやたらとジョニデの露出が激しかったけど、実際見てみると意外とオーランド・ブルームも大活躍。それが、私には良かった。正直、ジャック・スパロウの大げさな演技ばかりだと、飽きてしまった可能性大。エリザベスとの三角関係はもっと早くから盛り込んで欲しかったな。しかも、ジャック・スパロウが島に捕らわれたくだりは、もっと簡潔にして欲しかった。あのくだりは、かなり冗長な描写だったので、ここを削って全体を2時間に納めて欲しかった。2時間半は長いよ。

私的に今シリーズの興味深い点は、コスチュームや海賊たちの世界観の描写を敢えて「汚く見せている」こと。ジャックのヘアスタイルは、何年もシャンプーしてなさそうだし、占い師の黒人娘は「お歯黒」だし。前述の妖怪もみんな汚い。このあたりがハリウッドのきらびやかなファンタジーシリーズものと一線を画していて、何だかマニアックな感じなのだ。

最後は続く!っていう展開は知っていたので、見るのを躊躇したけど、それでもやっぱり「ううむ、次も見るか」と思って席を立った。だって、あのラストだもん、ズルイよ。