【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

城下町ぶらっと散策~いきいき健康ウォーク~

2014-03-02 | いきいき健康ウォーク
いきいき健康ウォ-ク
「歩くことを〝続ける〟しかけづくり」をテーマにしました。
歩き続けるためには、歩数計を持って歩く目標をつくること、普段歩かないところに出かけて、何か発見をする面白さを味わうこと、また、一緒に歩く仲間を見つけることをポイント企画しました⇒精華町HP 
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

歩数計を携帯です
『城下町ぶらっと散策マップ』をいただきました。
スタートは近鉄郡山駅・・・郡山城跡・・・永慶寺・・・大納言塚・・・金魚資料館・・・源九郎稲荷神社・・・ひなまつり巡り・・・近鉄郡山駅
参加者は90名(先頭・最後尾リーダーさんご苦労様でした)

わんちゃん的には、お城の枝垂れ梅(『いきいき健康ウォ-ク』の日は蕾固しでした)と、ひな祭り巡りなど、気になるところが盛りだくさん、日を改めてぶらっと散策してまいりました。
コースとしては『いきいき健康ウォ-ク』と、ほぼ同じでした。

追手門







城跡

この日(3/1)は枝垂れ梅がほぼ八分咲きのカンジ。
 

 

柳沢家菩提寺・永慶寺

黄檗宗寺院で、山号は龍華山。本尊は釈迦三尊。
(黄檗宗寺院といえば京都・萬福寺=黄檗宗の普茶料理を思いだしました)
黄檗宗とは江戸期に中国から伝来したっと聞けばこの南門はナルホドです。




クチナシの実が、いっぱい実ってましたね。


キリシタン殉難碑
 

 

大政奉還後、明治政府は幕府のキリシタン迫害をゆるめるどころか、むしろ強化し、慶応4年=明治元年(1868)長崎浦上キリシタン約2,800人たちとを名古屋以西の10万石以上の19藩に配流した。郡山藩にも明治2年の暮、14家族86人が送られてきた。彼らはまず北茶町の雲幻寺(現在の良幻寺)に収容され間もなく町内各所に移されたが、初めは藩主柳澤保申の意志により待遇は他藩に比べひじょうによかった。
しかし、明治4年、太政官の巡察使が来てから郡山藩の待遇が良すぎると注意を受け、以来、待遇は一転した。
明治5年、津藩から送られて来た23人のキリシタンとともに、郡山城三の丸に移されてからは少し待遇は良くなったが、同年暮に幼少年は奈良に移され軽労働を、他の者は天ノ川銀山に送られ労役を強いられた。
やがて明治政府は、カトリック教諸外国の非難により明治6年3月、キリシタンを放還することになり、郡山藩預かりの114人は帰国を許された。しかし配流の5年間に9人が病死している。
大正15年殉教者6人の名を刻んだ墓碑が雲幻寺境内に建てられたが、昭和44年、大和郡山カトリック教会(城南町)へ移され、浦上キリシタン配流記念碑となり、毎年11月3日に遺族も参加してミサが行われている。
※ふるさと大和郡山 歴史事典より

大納言塚




天正19年(1591年)1月22日。秀長は郡山城にて病没。この地に葬られたそうです。秀吉は菩提寺・大光院を現在の芦ヶ池付近に建立し、院主として京都・大徳寺の古渓和尚を当てて管理させました。豊臣家の滅亡後、藤堂高虎によって、大光院が京都の大徳寺の塔頭(たっちゅう)として移築され、位牌は東光寺(後の春岳院)に託されました。
その後、荒廃した墓地を春学院の僧・栄隆や訓祥が郡山町中から協力を集めて、外回りの土塀を造り、五輪塔を建立したそうです。
*1996年3月 大和郡山市教育委員会

ところで、入口には「お願いの砂」というのがありました。


このお砂を「自分の名前」と「願い事」を言いながら、3回または7回、お砂箱にお供えする気持ちをこめて通すと、願い事を聞いてくれる・・・そうです。
ここまでは近鉄線の西側でした

ツグミに遭遇
 


途中、こんな土塀のお宅に遭遇・・・
この後、踏切を越えて近鉄線東側に行きます・・・
続く
     

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木津川市に残っている「山城郷土資料館前2個」と「加茂文化センター前1個」の写真を追加しblogの記事を少し変更しています ➱こちら