『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳
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数年前、子役が何人も出演している映画の撮影に参加したことがある。
毎日現場には大体6〜7人の子役がいた。年齢は下は5歳から上は12歳くらい、男の子も女の子もいたし出身地もバラバラだったけど全員仲は良く、待ち時間はいつもみんなで鬼ごっこや隠れんぼやおままごとをして遊んでいた。ぐりも「あなたは○ちゃんの子どもね」「名前は△ちゃん」などという設定をふられてままごとに混ぜられたことがある。現場は仕事場なのでゲーム機やマンガは当然持ちこまれていなかったから、ひまなスタッフやそのへんに転がっている大工道具が彼らのオモチャだった。
そのとき不思議だったのは、遊んでいるときの彼らの会話空間や世界観が、大人のぐりたちのそれとまったく別の次元で成立していることだった。正直な話、ぐりは子どもたちが何を喋っているのか皆目理解できなかったし、会話についていくことすらできなかった。でも彼らの世界が、大人の生きている世界と同じレベルの精密さと強固な構造性をもって彼らのうちに存在していることだけはありありとわかった。彼らは子ども同士でいるときはそこに住んでいて、「撮るよ」と呼ばれたときに、大人の世界の方へさっと戻ってくるのだ。
かつてはぐりもそこに住んでいたはずの子どもの世界。いつの間にぐりはそこを抜け出し、いつその扉は閉ざされ、時間の霧の向こうに見えなくなっていったのだろうか?
「わたしを離さないで(原題:Never Let Me Go)」とは、主人公キャシーが小さいころから宝物にしていたカセットテープに入っていた曲のタイトル。といっても子どもが聴くような類いの音楽ではなくて、むしろ安手のバーで歌われるような、いわゆるムード歌謡ではないかと思われる。キャシーはこの曲のサビの部分がとくに好きで、繰り返しひとりで聴いていた。
Never let me go,
Oh baby, Baby,
Never let me go...
彼女は大人になってから、あのころあの曲の意味がわかって心を惹かれたわけではなかった、という。だが、それ以上に、幼いながら自らの運命をうすうす理解していて、そこで決して叶えられることのない夢を、歌の中に見いだしていたのだろうと回想する。
この物語は一種のファンタジーだ。キャシーという「介護人」の昔語りとして、彼女が育った「へールシャム」という奇妙な施設での子ども時代の思い出からストーリーは展開していく。へールシャムでは5歳から16歳の子どもが寄宿学校のように寮生活をしていて、外界とはいっさいのかかわりを持たずに暮している。子どもたちには家族はいない。いるのは友だちと、「保護官」とよばれる教師だけ。それでも彼らはまことに手厚く大切に育てられる。豊かな自然、静かな環境、規則正しい生活。読んでいるうちに、「なんだかこれは牧場みたいだな」という感じがしてくる。
いや、そこはまさに「牧場」なのだ。
だがキャシーたちを待ち受ける運命は決して牧歌的なものではない。その運命が、昔語りとともに、徐々に暴かれていく。
彼女たちの運命はある意味では確かに悲劇的だ。
しかしこの小説は、そういう特異な悲劇で読者を泣かせようとしているだけではない。ぐりが読んでいて激しく心を打たれたのは、子どもの心の中にしか存在しなかったはずのあの世界、霧の向こうの扉の奥に閉じられたあの世界の風景を、異様に緻密かつ精巧な描写で再現し、それを読み手の心の中にまでありありと呼び返す、物語のもつ一種独特な“声音”のそらおそろしいまでのやさしさだった。
その筆致が、初めはそっと薄皮を一枚ずつ剥がしていくように、読み手の心を裸にしていく。やがて語り手は読み手が人生を生きるうちに身につけてきた鱗を毟り、鎧をとり、終いには思いきり鈍器でたたき壊すようにして、武装した精神に潜んだ、傷つきやすい子どもの姿をあざやかに照らしだす。
キャシーたちの住んでいる世界では何もドラマは起こらない。彼女たちは自分たちがどんな人生を送り、そこで何が自分たちを待っているのかをすべて知っている。読者にもそれはわかる。物語の上で起こることは、あらかじめうっすらと伝わってきていて、起きたときにはまるで予期していたことを確認しているだけのように感じる。平和そのものだ。
でもその世界の平和は、信じがたいほど暴力的な利己主義の上に成り立っている。その利己主義はファンタジーではない。それが恐ろしいし、悲しい。
16歳を過ぎたキャシーはへールシャムを「卒業」し「大人の世界」へと足を踏み入れていくのだが、それでも心のどこかで「へールシャム」に強く結びつけられている自分を自覚してもいる。運動場の片隅にぽつんと建った体育館の情景がその象徴なのだろう。まだ「運命」から切り離され、「保護」された存在でいられた、「へールシャム」時代。誰もが二度とは戻れない世界。
衝撃的なカタストロフの連続を、筆者はとにかくやわらかく、これ以上ないくらい繊細に描いている。
初め読んでいるうちはこの繊細さがやや鼻につくのだが、だんだんストーリーがみえていくにつれて怖くなってくる。怖すぎてやさしくしか描けないのだ。言葉がやさしければやさしいだけ、恐怖がすぐ傍にぴったりと迫ってくる。世の中にはそういう種類の恐怖が存在することを、ぐりは初めて知った。
キャシーたちの運命は恐ろしいが、さりとて彼女たちを不幸だということもできない。人の幸不幸は、ひとつの価値観だけで簡単に決められるほど単純ではない。
不幸なのは、人が生きているというただそれだけのことが、そもそもどれだけ利己的であるかということがわからない、ということの方のような気がする。
感動しました。傑作です。
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数年前、子役が何人も出演している映画の撮影に参加したことがある。
毎日現場には大体6〜7人の子役がいた。年齢は下は5歳から上は12歳くらい、男の子も女の子もいたし出身地もバラバラだったけど全員仲は良く、待ち時間はいつもみんなで鬼ごっこや隠れんぼやおままごとをして遊んでいた。ぐりも「あなたは○ちゃんの子どもね」「名前は△ちゃん」などという設定をふられてままごとに混ぜられたことがある。現場は仕事場なのでゲーム機やマンガは当然持ちこまれていなかったから、ひまなスタッフやそのへんに転がっている大工道具が彼らのオモチャだった。
そのとき不思議だったのは、遊んでいるときの彼らの会話空間や世界観が、大人のぐりたちのそれとまったく別の次元で成立していることだった。正直な話、ぐりは子どもたちが何を喋っているのか皆目理解できなかったし、会話についていくことすらできなかった。でも彼らの世界が、大人の生きている世界と同じレベルの精密さと強固な構造性をもって彼らのうちに存在していることだけはありありとわかった。彼らは子ども同士でいるときはそこに住んでいて、「撮るよ」と呼ばれたときに、大人の世界の方へさっと戻ってくるのだ。
かつてはぐりもそこに住んでいたはずの子どもの世界。いつの間にぐりはそこを抜け出し、いつその扉は閉ざされ、時間の霧の向こうに見えなくなっていったのだろうか?
「わたしを離さないで(原題:Never Let Me Go)」とは、主人公キャシーが小さいころから宝物にしていたカセットテープに入っていた曲のタイトル。といっても子どもが聴くような類いの音楽ではなくて、むしろ安手のバーで歌われるような、いわゆるムード歌謡ではないかと思われる。キャシーはこの曲のサビの部分がとくに好きで、繰り返しひとりで聴いていた。
Never let me go,
Oh baby, Baby,
Never let me go...
彼女は大人になってから、あのころあの曲の意味がわかって心を惹かれたわけではなかった、という。だが、それ以上に、幼いながら自らの運命をうすうす理解していて、そこで決して叶えられることのない夢を、歌の中に見いだしていたのだろうと回想する。
この物語は一種のファンタジーだ。キャシーという「介護人」の昔語りとして、彼女が育った「へールシャム」という奇妙な施設での子ども時代の思い出からストーリーは展開していく。へールシャムでは5歳から16歳の子どもが寄宿学校のように寮生活をしていて、外界とはいっさいのかかわりを持たずに暮している。子どもたちには家族はいない。いるのは友だちと、「保護官」とよばれる教師だけ。それでも彼らはまことに手厚く大切に育てられる。豊かな自然、静かな環境、規則正しい生活。読んでいるうちに、「なんだかこれは牧場みたいだな」という感じがしてくる。
いや、そこはまさに「牧場」なのだ。
だがキャシーたちを待ち受ける運命は決して牧歌的なものではない。その運命が、昔語りとともに、徐々に暴かれていく。
彼女たちの運命はある意味では確かに悲劇的だ。
しかしこの小説は、そういう特異な悲劇で読者を泣かせようとしているだけではない。ぐりが読んでいて激しく心を打たれたのは、子どもの心の中にしか存在しなかったはずのあの世界、霧の向こうの扉の奥に閉じられたあの世界の風景を、異様に緻密かつ精巧な描写で再現し、それを読み手の心の中にまでありありと呼び返す、物語のもつ一種独特な“声音”のそらおそろしいまでのやさしさだった。
その筆致が、初めはそっと薄皮を一枚ずつ剥がしていくように、読み手の心を裸にしていく。やがて語り手は読み手が人生を生きるうちに身につけてきた鱗を毟り、鎧をとり、終いには思いきり鈍器でたたき壊すようにして、武装した精神に潜んだ、傷つきやすい子どもの姿をあざやかに照らしだす。
キャシーたちの住んでいる世界では何もドラマは起こらない。彼女たちは自分たちがどんな人生を送り、そこで何が自分たちを待っているのかをすべて知っている。読者にもそれはわかる。物語の上で起こることは、あらかじめうっすらと伝わってきていて、起きたときにはまるで予期していたことを確認しているだけのように感じる。平和そのものだ。
でもその世界の平和は、信じがたいほど暴力的な利己主義の上に成り立っている。その利己主義はファンタジーではない。それが恐ろしいし、悲しい。
16歳を過ぎたキャシーはへールシャムを「卒業」し「大人の世界」へと足を踏み入れていくのだが、それでも心のどこかで「へールシャム」に強く結びつけられている自分を自覚してもいる。運動場の片隅にぽつんと建った体育館の情景がその象徴なのだろう。まだ「運命」から切り離され、「保護」された存在でいられた、「へールシャム」時代。誰もが二度とは戻れない世界。
衝撃的なカタストロフの連続を、筆者はとにかくやわらかく、これ以上ないくらい繊細に描いている。
初め読んでいるうちはこの繊細さがやや鼻につくのだが、だんだんストーリーがみえていくにつれて怖くなってくる。怖すぎてやさしくしか描けないのだ。言葉がやさしければやさしいだけ、恐怖がすぐ傍にぴったりと迫ってくる。世の中にはそういう種類の恐怖が存在することを、ぐりは初めて知った。
キャシーたちの運命は恐ろしいが、さりとて彼女たちを不幸だということもできない。人の幸不幸は、ひとつの価値観だけで簡単に決められるほど単純ではない。
不幸なのは、人が生きているというただそれだけのことが、そもそもどれだけ利己的であるかということがわからない、ということの方のような気がする。
感動しました。傑作です。