落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Why didn't you burn the tapes?

2009年05月13日 | movie
『フロスト×ニクソン』

1974年、ウォーターゲート事件で失脚したニクソン元米国大統領(フランク・ランジェラ)だが、昇格したフォード大統領の恩赦によって訴追を免れ、アメリカ国民の不満は爆発寸前にまでふくれあがる。1977年、イギリスでトーク番組の人気ホストとして活躍していたフロスト(マイケル・シーン)は、巨額のギャラをエサにニクソンにインタビューする契約を交わすが、アメリカのメジャー局は彼の企画に見向きもせず、製作費のあてがなくなってしまう。
ピーター・モーガンの舞台劇を映像化した心理サスペンス。

ウォーターゲート事件のことは以前に本で読んだはずなんだけど・・・なにしろ政治のことは疎くてねえー(爆)あんまし記憶に残ってないー。ヤバいわーわたしのノーミソ。
まーでもこの映画、ぶっちゃけ政治とはなんにもカンケーありません。そもそも主人公のひとりであるフロストが政治と関係ないからね。彼はジャーナリストでもなんでもない、コメディアンあがりの番組司会者、いわば単なるタレントですから。
でもたぶん、それこそがこのインタビューの成功のもとだったんだろうとも思う。もしフロストが気鋭の政治ジャーナリストなら、ニクソンはそもそもインタビューなんか受けなかっただろうし、受けてたとしてももっとしっかり武装して臨んだはずだと思う。ニクソン陣営は頭から完全にフロストをナメてかかっていた。ただのタレントごときにいいように喋らされるわけがない、そう思ってたから、無防備にもインタビューを受けてもかまわないと判断したんだろうし、何を聞かれても自分のペースで喋れるとふんだんだろうと思う。

でもフロストもバカじゃない。資金面でもキャリアの上でも、フロストは崖っぷちにたたされていた。視聴者が期待するだけの映像が撮れなければ、彼自身のタレント生命が一巻の終わりになってしまう。
ニクソン陣営の読みが足りなかったとすれば、フロストにどれだけのピンチが迫っていたかという、相手側の状況を計ってなかったという点に尽きるだろう。
そしてフロストには、それまであらゆる著名人の心を開かせ、語らせてきたという、インタビュアーとしての経験と魅力と才能があった。それは政治家やジャーナリストにはわからない領域だったのかもしれない。

丁々発止のインタビュー合戦と同時進行で、フロストの必死の金策劇も描かれる。
現在の日本ではTV局が番組を企画して局内で製作したり外注に出したりするのが主流だが、欧米も含め海外では、フロストのように、プロデューサーやジャーナリストや制作会社が企画して局へ持ちこむ形式が主流になっている(昨今のアメリカはその限りではないらしいけど)。
メディアのあり方としてどちらが健全なのかは一概にいえないけど、視聴者側としては、そういうスタイルも多様なコンテンツが観られて楽しかろーなー、とは思います。
いずれにせよ、ほとんどTV観ないぐりにはあんましカンケーないかもしんないけどね(爆)。

Master of Puppets

2009年05月13日 | movie
『ニセ札』

1951年に山梨県で実際に起きた贋造紙幣事件をモデルにしたブラックコメディ。
昭和25年、山あいの小さな村の小学校で教師を勤めるかげ子(倍賞美津子)のもとに、教え子の大津(板倉俊之)が贋札づくりの計画をもちこんでくる。初めは反対するかげ子だが、元地主の戸浦(段田安則)、紙漉きの喜代多(村上淳)、写真屋の典兵衛(木村祐一)など計画に参加する者も集まり、貧しい村の子どもたちに教育を受けさせたい、少しでも楽をさせたいという親心から荷担を決意する。

んー。お話自体はとってもおもしろいんですが。全然悪くないんだけど。
でも冒頭に記録映像を持って来て時代背景を強調したわりには、時代考証が甘いよね・・・全体にさ。村の貧しさ、貧しさゆえの悲壮感にいまいちリアリティがない。だからなのか、戦争が終わって時代が急激に変わって、その変化についていけない、なにか釈然としないものを感じてる登場人物の内面にも、もうひとつ説得力がない。
べつに必要以上にシリアスにする必要はないんだけど、最後のかげ子の台詞だってすごくいいこといってると思うんだけど、それをきちっと聞かせるためにも、リアリティにはもっとこだわってほしかったです。
まあまあおもしろい映画ではあるし、観てソンってことはないんだけど。

ぐりが高校生のころ、川崎市の竹薮の中で持ち主不明の2億円の札束が見つかって大ニュースになったことがあった。バブル景気の真っ只中の出来事だった。
ちょうど学園祭の直前の時期で、ぐりのクラスではこの事件をモチーフに「Master of Puppets」というオリジナルの演劇を上演して賞をもらった。ふつうの高校生が2億円を拾って徐々に人間らしさを失っていくという物語で、最初の脚本はかなりシリアスというかペシミスティックなものだった。登場人物が死んだりグレたり、わりに荒廃したお涙頂戴な内容になっていた(これには脚本を書いたクラスメートの家庭に事情があったことが後に判明した)。何度もホームルームで議論をして、ぐりは「人が死ぬ話ではこの物語のテーマは伝わらない。“お金なんかただの紙きれ”だということを表現したいなら、もっと楽しくやるべきだ」と主張したのを覚えている。
それに脚本担当が賛同してくれたのか、結果的には物語はコメディに書きかえられ、そのおかげか2度の上演は2度とも超満員の大爆笑、大成功をおさめることができた。

ちなみにぐりはこのときの演劇では美術を担当した。2億円×2回ぶんの「ニセ札」ももちろんぐりが用意した。
映画にこの演劇のラストシーンそっくりの場面があって、ものすごく久しぶりに、あの学園祭を思い出した。楽しかったなー。みんな今ごろ、何してるかな?

Without hope, life's not worth living.

2009年05月13日 | movie
『ミルク』

アメリカで初めてゲイを公表して公職に就いた政治家ハーヴェイ・ミルクの伝記映画。2008年度アカデミー賞主演男優賞・脚本賞受賞作。
1972年、ニューヨークで保険会社に勤務していたハーヴィー(ショーン・ペン)は年下の恋人スコット(ジェームズ・フランコ)とサンフランシスコに居を移してカストロ地区でカメラ店を開業した。彼の店はやがて周辺に住む若いゲイたちのサロンとなり、ハーヴィーは彼らの代弁者として政治活動を開始。73年・75年の落選を経て、77年、ついにサンフランシスコ市議に当選するのだが・・・。

ハーヴェイ・ミルクのことは名前くらいしか知らなかったんですがー。でも全然知らなくても楽しめる映画でした。
確かに映画は彼が政治活動を始めてからの時期─いわば晩年─に絞って描かれていて、それまでの前半生はばっさりと省略されている。そして多分にドキュメンタリータッチで表現されている。
映画は、彼が生前、暗殺を予測して「暗殺されたときにのみ再生すべし」として遺言を録音するシーンから始まる。このテープは実在していて、これまでにさまざまな記録映像にも登場している著名な録音だというが、物語はこのテープと同時進行で、ミルク自身がカミングアウトしてからの後半生を回顧するという形で展開する。
ぐりはこのテープの現物を聞いたわけではないので、映画の内容がどの程度このテープに沿っているのかはよくわからない。それでも、死んだ人間が自分で自分の軌跡を回想するというタイプの伝記映画は、これまで観た中ではちょっと記憶にない。それだけ、彼自身が自らの政治活動を「背水の陣」と捉えていたということなのだろうか。

ハーヴェイは政治家だから、当然政治活動が物語の中心になる。だが映画そのものから受ける印象はさほど政治的ではない。
なぜなら、ハーヴェイが求めたのは「政治」でも「権力」でもなかったからだ。少なくともこの映画ではそうだ。
彼はただ、人間が人間らしく生きられる社会を求めていた。彼は同性愛者だった。同性愛者の友だちもたくさんいた。だから自然と、彼は同性愛者の人権のために戦うことになった。彼はひとりでも多くの同性愛者に幸せになってほしかった。誰にも迫害されたりしてほしくなかった。自殺なんかしてほしくなかった。彼らはハーヴェイの個人的な友であり、仲間であり、家族だった。友や仲間や家族の幸せを望まない人間はいない。その感情は、人としてごく当り前の気持ちでしかなかった。彼はそれを、なによりも大切にしたかったし、誰にもそう感じてほしかっただけなのだ。
映画には、そうした友や仲間や家族─パートナー─が無数に登場する。彼らの間に流れるあたたかい友情や愛情や絆は、セクシュアリティをこえて、観る者誰もの心に迫る。彼らがベッドで誰と寝ていようと関係ない。それは彼らの問題であって、他の誰の問題でもないのだ。

彼が暗殺された時代から、セクシュアル・マイノリティの置かれた社会環境は多少は変化しただろうか。変化はあったかもしれない。でも進歩というほどの変化ではない。
どうしてこの世の中から差別はなくならないのだろう。それが愚かな人間の性だからなのだろうか。そのことを思うたび、悲しくなる。涙がとまらなくなるくらい悲しい。
もっと悲しいのは、差別を悲しまない人もいるという事実の方だけれど。