『エデンの東』 ジョン・スタインベック著 土屋政雄訳
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先日、映画『グラン・トリノ』を観ましたが。
その後、両親も鑑賞したというので感想を訊ねたら、「自分にも思い当たるシーンがいっぱいあった」とのことだった。まあそーだろーな、と予想した通りの感想だった。
『グラン・トリノ』の登場人物は全員、移民かその子孫である。というか、アメリカ人は(一部のネイティブ・アメリカンを除いて)ほぼ全員がそうなのだが、この映画ではその出自がより強調された物語になっている。そして移民というアイデンティティには、多かれ少なかれ、基盤の欠けた家庭に育った人間特有の孤独がつきまとう。
ぐりの両親は日本で生まれた移民2世だから、この映画を観て身に積まされることはいくらもあるだろう。3世のぐりにだってあるくらいだから、なおのこと。
『エデンの東』はスタインベックの祖父、サミュエル・ハミルトンのエピソードから始まる。
19世紀に北部アイルランドから妻を連れてやって来た男。なぜその妻を選んだのか、どうしてアメリカに来たのかは孫の著者にもわからない。ぐりに、いつどこで祖父母が知りあって結婚し、なぜ日本に来ることになったのかがわからないのと同じだ。
このサミュエルはこの物語の主人公ではない。というか、ここには特定の主人公はいない。映画『エデンの東』ではキャルを演じたジェームズ・ディーンが主役だったから(といっても未見)てっきり彼の話かと思ってたけど、そーじゃなかったです。あえていうなら、主人公はハミルトンとトラスクというふたつの家とゆーことになるのかな?そのふたつの家の、3世代にわたる長く苦しい呻吟そのものが、この小説の主人公である。
その呻吟とは、決して満たされることのない愛をめぐる苦悩である。
人間は誰もが、愛する人に優しく抱かれて「おまえがいちばん大切だ」と囁かれながら眠りにつく、そんなたわいのない欲求を秘めた、たよりなく、淋しい生き物を心に飼っている。おおかたの人間はいつか「足るを知」り、その生き物をうまくコントロールすることもできる。でもどうしてもそれができない人もいる。
そういう人は、誰にどんなに愛されていても目に入らない。その愛が、本人には愛だとは理解されることがないからだ。彼は自分で理解できない愛を求めてひたすらのたうちまわる。いつの日か、それが「自己憐憫」というエゴであることに気づくまで。
そうした「夢幻の愛」との戦いは、この物語ではチャールズとアダム、キャルとアロンという二組の兄弟によって語られる。この兄弟のたどる運命は、作中にも登場する旧約聖書・創世記第4章の「カインとアベル」のエピソードにぴたりと重なっている。
カインとアベルはエデンの園を追放されたアダムとイヴの間に生まれた。成長した兄カインは農作物を、弟アベルは羊を神エホバに捧げるが、神が弟の供物しか受け取らなかったため、嫉妬に狂った兄は弟を殺してしまう。それが神に知れ、カインは地上をさすらう者として一生を終えることを告げられ、彼に出会う者が誰も彼を殺さないよう、神は兄カインの額に印を付けたという。
とくに重要とされているのは第7節「汝若善を行はば擧ることをえざらんや。若善を行はずば罪門戸に伏す。彼は汝を慕ひ、汝は彼を治めん」という部分。従来は「あなたは罪を治めるだろう」という預言、あるいは「あなたは罪を治めなければならない」という命令として訳されていたこの部分を、スタインベックはオリジナルのヘブライ語を研究し、「あなたは罪を治めることができる」という自由な選択肢として解釈した。
つまり、罪を負い続けるとしても、いつかそれを克服するとしても、いずれにせよそれは人間の自由だ、それほど人間は偉大な可能性にみちている、という神の愛が、この一文にこめられているという。
だがその自由のなんと残酷なことだろう。
現実には、人は「おまえは罪人だ」「悪人だ」「無能だ」「無価値だ」と決めつけられ、その重みと苦しみをただ背負い続けて生きることの方がずっとラクだったりもする。重みや苦しみに、いつか人は慣れる。それが自分の一部分になり、境界が見分けられなくなっていく。それが生きているという証明でもある。
だがその重みと苦しみを放り出すのも消化するのも自分次第ということになってしまえば、その中へ自分を埋没させて逃避することはできなくなる。どうかして解決することで、自らの人間性を証明しなくてはならなくなる。
人間は誰もが生まれながらに罪人である、と聖書はいう。それならば、人間は生きている限りその罪を背負いながら、それと戦う運命をも背負っているということなのだろうか?
ぐりは聖書にもキリスト教にもまったく詳しくないけど、大丈夫、ほんとうはおまえにはあんなこともできる、こんなこともできると励まされることが、ときにはなによりも苦しく感じるのが人間なのではないかと思っている。神が人間を自分そっくりにつくったというなら、そんな弱さをつくったのも神ではないのか。
この物語では二組の兄弟をそれぞれ善と悪の権化として設定しているけど、完全な善は凶器にもなり得ること、完全な悪というものは存在し得ないことをも描いている。そこのその部分に、ぐりはいちばん人間性を感じたけど。
スタインベックの作品は『怒りの葡萄』を中学生時分に読んだきりで、『エデンの東』は今回が初読。十代のころハマったコミック『CIPHER』の中で重要なテーマとして繰り返し登場していて、ストーリーもおおよそ知っていたので、いつの間にか勝手に読んだような気分になっていた。
初めて『CIPHER』を読んだときも大泣きしたけど、あれから20+α年、『エデンの東』でもボロ泣きさせていただきました。けど、えーと、物語が進行するにつれて展開のスピードが異常に加速してく構成はやっぱちょっと・・・ひっかかるものが・・・ゲホンゲホン。
ところでこの作品、4〜5年前から再映画化(リメイクではなく原作により忠実な企画らしー)の話が持ち上がってて、今年になってやっと監督と脚本家が決まったとか。こんだけ壮大な話を今どーやって再現すんのか、まったく想像つきませんけども。とりあえず誰が出るのかは楽しみですなー。
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先日、映画『グラン・トリノ』を観ましたが。
その後、両親も鑑賞したというので感想を訊ねたら、「自分にも思い当たるシーンがいっぱいあった」とのことだった。まあそーだろーな、と予想した通りの感想だった。
『グラン・トリノ』の登場人物は全員、移民かその子孫である。というか、アメリカ人は(一部のネイティブ・アメリカンを除いて)ほぼ全員がそうなのだが、この映画ではその出自がより強調された物語になっている。そして移民というアイデンティティには、多かれ少なかれ、基盤の欠けた家庭に育った人間特有の孤独がつきまとう。
ぐりの両親は日本で生まれた移民2世だから、この映画を観て身に積まされることはいくらもあるだろう。3世のぐりにだってあるくらいだから、なおのこと。
『エデンの東』はスタインベックの祖父、サミュエル・ハミルトンのエピソードから始まる。
19世紀に北部アイルランドから妻を連れてやって来た男。なぜその妻を選んだのか、どうしてアメリカに来たのかは孫の著者にもわからない。ぐりに、いつどこで祖父母が知りあって結婚し、なぜ日本に来ることになったのかがわからないのと同じだ。
このサミュエルはこの物語の主人公ではない。というか、ここには特定の主人公はいない。映画『エデンの東』ではキャルを演じたジェームズ・ディーンが主役だったから(といっても未見)てっきり彼の話かと思ってたけど、そーじゃなかったです。あえていうなら、主人公はハミルトンとトラスクというふたつの家とゆーことになるのかな?そのふたつの家の、3世代にわたる長く苦しい呻吟そのものが、この小説の主人公である。
その呻吟とは、決して満たされることのない愛をめぐる苦悩である。
人間は誰もが、愛する人に優しく抱かれて「おまえがいちばん大切だ」と囁かれながら眠りにつく、そんなたわいのない欲求を秘めた、たよりなく、淋しい生き物を心に飼っている。おおかたの人間はいつか「足るを知」り、その生き物をうまくコントロールすることもできる。でもどうしてもそれができない人もいる。
そういう人は、誰にどんなに愛されていても目に入らない。その愛が、本人には愛だとは理解されることがないからだ。彼は自分で理解できない愛を求めてひたすらのたうちまわる。いつの日か、それが「自己憐憫」というエゴであることに気づくまで。
そうした「夢幻の愛」との戦いは、この物語ではチャールズとアダム、キャルとアロンという二組の兄弟によって語られる。この兄弟のたどる運命は、作中にも登場する旧約聖書・創世記第4章の「カインとアベル」のエピソードにぴたりと重なっている。
カインとアベルはエデンの園を追放されたアダムとイヴの間に生まれた。成長した兄カインは農作物を、弟アベルは羊を神エホバに捧げるが、神が弟の供物しか受け取らなかったため、嫉妬に狂った兄は弟を殺してしまう。それが神に知れ、カインは地上をさすらう者として一生を終えることを告げられ、彼に出会う者が誰も彼を殺さないよう、神は兄カインの額に印を付けたという。
とくに重要とされているのは第7節「汝若善を行はば擧ることをえざらんや。若善を行はずば罪門戸に伏す。彼は汝を慕ひ、汝は彼を治めん」という部分。従来は「あなたは罪を治めるだろう」という預言、あるいは「あなたは罪を治めなければならない」という命令として訳されていたこの部分を、スタインベックはオリジナルのヘブライ語を研究し、「あなたは罪を治めることができる」という自由な選択肢として解釈した。
つまり、罪を負い続けるとしても、いつかそれを克服するとしても、いずれにせよそれは人間の自由だ、それほど人間は偉大な可能性にみちている、という神の愛が、この一文にこめられているという。
だがその自由のなんと残酷なことだろう。
現実には、人は「おまえは罪人だ」「悪人だ」「無能だ」「無価値だ」と決めつけられ、その重みと苦しみをただ背負い続けて生きることの方がずっとラクだったりもする。重みや苦しみに、いつか人は慣れる。それが自分の一部分になり、境界が見分けられなくなっていく。それが生きているという証明でもある。
だがその重みと苦しみを放り出すのも消化するのも自分次第ということになってしまえば、その中へ自分を埋没させて逃避することはできなくなる。どうかして解決することで、自らの人間性を証明しなくてはならなくなる。
人間は誰もが生まれながらに罪人である、と聖書はいう。それならば、人間は生きている限りその罪を背負いながら、それと戦う運命をも背負っているということなのだろうか?
ぐりは聖書にもキリスト教にもまったく詳しくないけど、大丈夫、ほんとうはおまえにはあんなこともできる、こんなこともできると励まされることが、ときにはなによりも苦しく感じるのが人間なのではないかと思っている。神が人間を自分そっくりにつくったというなら、そんな弱さをつくったのも神ではないのか。
この物語では二組の兄弟をそれぞれ善と悪の権化として設定しているけど、完全な善は凶器にもなり得ること、完全な悪というものは存在し得ないことをも描いている。そこのその部分に、ぐりはいちばん人間性を感じたけど。
スタインベックの作品は『怒りの葡萄』を中学生時分に読んだきりで、『エデンの東』は今回が初読。十代のころハマったコミック『CIPHER』の中で重要なテーマとして繰り返し登場していて、ストーリーもおおよそ知っていたので、いつの間にか勝手に読んだような気分になっていた。
初めて『CIPHER』を読んだときも大泣きしたけど、あれから20+α年、『エデンの東』でもボロ泣きさせていただきました。けど、えーと、物語が進行するにつれて展開のスピードが異常に加速してく構成はやっぱちょっと・・・ひっかかるものが・・・ゲホンゲホン。
ところでこの作品、4〜5年前から再映画化(リメイクではなく原作により忠実な企画らしー)の話が持ち上がってて、今年になってやっと監督と脚本家が決まったとか。こんだけ壮大な話を今どーやって再現すんのか、まったく想像つきませんけども。とりあえず誰が出るのかは楽しみですなー。