日本統治下の朝鮮を離れ、妻・静子(田中麗奈)とともに故郷に戻ってきた澤田(井浦新)。リベラルな村長・田向(豊原功補)は京城(ソウル)で教師をしていた澤田の帰郷を喜び、村の学校で教えてほしいと頼みこむが、なぜか心を閉ざした澤田はにべもなく断るのだった。
一方、薬の行商をしている新助(永山瑛太)は一族を率いて讃岐を出発、関東方面に商いの旅に出る。
関東大震災直後の1923年9月6日、千葉県福田村(現在の野田市)で起きた行商団虐殺事件をドキュメンタリー作家の森達也が映像化。
このブログで何度か書いている通り、私は在日コリアン3世だ。
祖父母が渡日したのは関東大震災から数年後の1920年代後半〜1930年代と聞いているから、私自身と関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件に直接的な関わりはない。
でも、2011年の東日本大震災をきっかけに各地で災害復興支援ボランティアとして活動したとき、被災地で100年前とほとんど同じデマを何度も耳にした経験は、トラウマのような傷となって、心の底にこびりついて離れなくなった。
デマを口にする人々に悪意はないかもしれない。だが、自分が発しているその言葉に何の責任も保とうとはしていない。むしろ善意で語っていることさえある。怖かった、傷ついた、という被害者意識がそうさせていることもある。
人間には知性があるから、極端に偏った情報に触れたとき、本来ならば一度立ち止まって冷静に判断することができるはずなのに、できなくなってしまうのはなぜなのだろう。
映画では、被害が大きかった東京市内から避難してきた被災者の口伝いに「朝鮮人が集団で人を襲った」「強姦をはたらいている」「井戸に毒を放りこんでいる」などというデマが村にもたらされるが、そもそも地震の前から日本人に朝鮮人への差別意識が潜在的に存在していたことも描かれている。
1910年の日韓併合以来、日本が朝鮮の人々をどれだけ虐げてきたか。ならばこういうときこそひどい仕返しをされるかもしれない、という罪悪感に基づく警戒心があったことや、それが、互いに抑圧しあう閉鎖的な農村社会に不穏な波風を立てる過程も、丁寧に表現されている。
さらには、在郷軍人会の存在が悲劇を助長したことも明確にしている。戦場を経験した彼らは、命を守るためなら相手の命を奪っても構わない、いざというときには考えている猶予などない、というある意味異常な生存本能をもっている。しかも、軍国主義のもとで自警団を指揮する彼らの立場が、行政の指示系統を機能不全に陥れる。
人は、事件といえば「起こってしまった犯罪」そのもののことを認知・記憶するけれど、この映画では、犯罪に至るまでに具体的にどのようなプロセスが重ねられていったのか、どんな要因が絡まりあっていたのか、いつなら悲劇をくいとめることができたはずなのかを、わかりやすく語っている。
村長は「軍隊、憲兵、警察の許可なく通行人を誰何してはならん。許可なく一般人民は武器または凶器を携帯してもならん」という政府の戒厳令を村に伝え、自警団の解散を促す。
新助たちは、彼らを朝鮮人だと決めつけようとする自警団に、行政発行の行商人鑑札を提示している。
5日前に朝明(浦山佳樹)と信義(生駒星汰)から湯の花を買った静子と澤田は、彼らはほんとうに讃岐からきた行商人だと証言している。
立ち止まるチャンスは、何度もあったのに。
まるで、村人たちは初めから人殺しがしたかっただけのような気がしてしまうのが、悲しい。
新助の最後のセリフは、おそらく、この作品のつくり手がいちばん伝えたかった一言だと思う。
そして在郷軍人・秀吉(水道橋博士)の最後のセリフは、やはりつくり手たちが、絶対に許容すべきでないと考えた概念なのだろう。
登場人物たちのセリフで人々の名前を強調する場面が繰り返されるのも、すごく大事なメッセージだと思う。
正直にいうと、森達也のドキュメンタリーを何回か観ていて「ドキュメンタリー作家の劇映画ってどうなんだろう」という疑問を持ちつつ劇場に足を運んだ。
失礼しました。ほんとにすいませんでした。
映画は脚本というけど、今作の脚本は荒井晴彦・井上淳一・佐伯俊道という超ベテラン勢が手がけている。この脚本がもう素晴らしい。完璧。文句のつけようがない。
人物設定もよく計算されている。福田村の住人でありながら外地からの帰還者という“異物”である澤田夫妻や、新聞記者の楓(木竜麻生)、行商団の少年・信義は、現代人である観客や語り手の視線を表し、観る者を物語の世界へ導く役目を果たしている。倉蔵(東出昌大)と咲江(コムアイ)、貞次(柄本明)とマス(向里祐香)の不倫や、大地震で人々が恐れ慄いているときこそ儲けどきと意気込む新助たちの阿漕な商売など、時代背景を反映した人の業の描写も、とても生き生きしている。
劇中には、福田村事件以前に起きた亀戸事件や堤岩里事件、部落差別やハンセン病患者への差別、水平社宣言など、日本の国家犯罪や差別の歴史を語る上で欠くことのできないいくつもの事例が登場する。行商団の人々や澤田夫妻の会話でも、差別がいかに理不尽で人道に反しているか、本質から目を背ける思考停止がどれほど罪深く非人間的かが、自然に語られている。
会話の一つひとつの完成度に、この映画をつくろう、世に問おうとする人たちの覚悟を感じました。したがって、なぜこの作品が朝鮮人虐殺ではなく福田村事件をとりあげたのかという確信も伝わる。
これが世紀の傑作と評価されるかどうかはまだわからない。
だけど、誰もが観るべき素晴らしい作品であることに間違いはないです。
倉蔵のキャラ設定には笑ったよね…この役に東出昌大をキャスティングした人は鬼だと思う。
芸術的なプロポーションで露出高めな造形が存分に堪能できたのは眼福だったけどもさ…例の醜聞でなんか嫌な印象もっちゃってましたけど、大丈夫、そういう人も今作の東出さんは楽しく?観れると思います(笑)。
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