週末に福島県南相馬市にいってきた。
金曜日の夜に出て土曜日の朝に到着、土曜終日/日曜午前に活動に参加して、日曜の夜に帰京しました。
活動内容は仮設住宅でのニーズ調査と、被災地域での泥出し。土方です。
現場は4月に警戒区域が解除され、一般の出入りが可能になった地域(東洋経済Online)。それまでボランティアや地域住民の復旧活動がまったく行われていなかったので、津波直後の状況のまま完全に時が止まっている。
警察の捜索が終わった建物や車輛には赤いペンキで印がつけられ、自衛隊によって道路だけは通行可能なように整理され大きな瓦礫はなんとなく集めてかためてあるようだが、路面の破損はそのまま、折れ曲がり倒れたガードレールや電柱や道路標識も、壊れた車輛もそこらじゅうにほったらかされている。地震で倒壊し津波に押し流され壁を割られた家々は泥にまみれたまま、5月の風にカーテンがひらひらと踊るようにはためいている。田畑では青草が鬱蒼と生い茂り、カエルや鳥たちが元気に鳴き声を響かせている。
警戒区域は解除になったが、ここでは電気・ガス・水道などのインフラはいっさい復旧しておらず、除染もされていない。
ボランティアや地元住民が徐々に復旧作業を始めたものの、泥や瓦礫の集積場もなくその後の処分のめども立っていないので、結局集めて積み上げておく以外にどうしようもない。積んだ瓦礫の上に不法投棄のゴミを持ってくる不届き者がいたり、家財を盗む泥棒も横行しているそうで地元の人はとても怒っていた。
しかし本当に怒るべきは、安心して暮らせる準備をまったくせずに無責任に警戒区域を解除しただけで、あとのプロセスを何ら提示していない行政である。
確かにこの辺りの線量は0.2~0.5μSv/hと、成人が一時的に滞在するだけならさほどの害はないレベルにはなっている(かもしれない)。だが、今だってここに来ることはできても泊まることはできない。広大な田畑が広がるこの地域の人たちが、いつ再びここで農作物を育てて暮らしていけるようになるかなんて、誰にもまったくわからない。
ほんとうにここに住めるかどうか暮らせるかどうか、そのために何からどう手をつけるべきかもわからないのに、何のために警戒区域を解除するのか、まったく意味がわからない。
ぎっしりとヘドロが詰まったまま1年を過ぎた溝を掘り返しながら、この作業に何の意味があるのか、ぜんぜんわからなかった。
わからなくても、せめてここの人たちに、みんなが被災地のことを忘れてないこと、少しでも元気を出してほしい、勇気を出してほしいと願う気持ちが伝わればいいと思っていた。
それしかできなかった。
活動中は素晴らしい天候で、空は真っ青に晴れ渡り、爽やかな風が気持ちよく吹き渡っていた。
その風には乾いたヘドロから舞い上がる細かなホコリが濃く混じり、目や鼻や耳の粘膜を刺激する。宮城県では去年の活動中に吹いていた、あの風だった。
去年からずっと津波の傷跡がそのままに残された場所でその風に吹かれながら、胸が痛くて仕方がなかった。
その気持ちを語る言葉をいくら考えても浮かんでこない。
ただ情けなく悲しかったというのではない。腹はたつがそれだけでもない。
これまで宮城県に通って何度も感じた気持ちとは、また別の感情だった。
ニーズ調査については別に書きます。
仮設の告白
泥の中
東北でのボランティアにずっと使ってきた安全長靴。数回凍結してしまったせいもあり、ゴムが劣化してついに穴が数ヶ所あいてしまった。
いよいよ2代目導入です。1年間お疲れさんでした。
今回携帯を忘れていったので画像の記録はナイです。ごめんなさいまし。
2012年5月2日(水)~6日(日) 震災ボランティアレポート
2012年4月14日(土)~15日(日)震災ボランティアレポート
2012年3月16日(金)~21日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年3月10日(土)~13日(火)震災ボランティアレポート
2012年2月9日(木)~2月15日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年1月18日(水)震災ボランティアレポート
2011年11月1日(火)~6日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年10月21日(金)~24日(月)震災ボランティアレポート
2011年10月6日(木)~10日(日)震災ボランティアレポート
2011年8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年8月11日(木)~15日(月)震災ボランティアレポートIndex
2011年4月29日(金)~5月7日(土)震災ボランティアレポートIndex
Googleマップ 震災ボランティアレポートマップ(ver.3.5)
金曜日の夜に出て土曜日の朝に到着、土曜終日/日曜午前に活動に参加して、日曜の夜に帰京しました。
活動内容は仮設住宅でのニーズ調査と、被災地域での泥出し。土方です。
現場は4月に警戒区域が解除され、一般の出入りが可能になった地域(東洋経済Online)。それまでボランティアや地域住民の復旧活動がまったく行われていなかったので、津波直後の状況のまま完全に時が止まっている。
警察の捜索が終わった建物や車輛には赤いペンキで印がつけられ、自衛隊によって道路だけは通行可能なように整理され大きな瓦礫はなんとなく集めてかためてあるようだが、路面の破損はそのまま、折れ曲がり倒れたガードレールや電柱や道路標識も、壊れた車輛もそこらじゅうにほったらかされている。地震で倒壊し津波に押し流され壁を割られた家々は泥にまみれたまま、5月の風にカーテンがひらひらと踊るようにはためいている。田畑では青草が鬱蒼と生い茂り、カエルや鳥たちが元気に鳴き声を響かせている。
警戒区域は解除になったが、ここでは電気・ガス・水道などのインフラはいっさい復旧しておらず、除染もされていない。
ボランティアや地元住民が徐々に復旧作業を始めたものの、泥や瓦礫の集積場もなくその後の処分のめども立っていないので、結局集めて積み上げておく以外にどうしようもない。積んだ瓦礫の上に不法投棄のゴミを持ってくる不届き者がいたり、家財を盗む泥棒も横行しているそうで地元の人はとても怒っていた。
しかし本当に怒るべきは、安心して暮らせる準備をまったくせずに無責任に警戒区域を解除しただけで、あとのプロセスを何ら提示していない行政である。
確かにこの辺りの線量は0.2~0.5μSv/hと、成人が一時的に滞在するだけならさほどの害はないレベルにはなっている(かもしれない)。だが、今だってここに来ることはできても泊まることはできない。広大な田畑が広がるこの地域の人たちが、いつ再びここで農作物を育てて暮らしていけるようになるかなんて、誰にもまったくわからない。
ほんとうにここに住めるかどうか暮らせるかどうか、そのために何からどう手をつけるべきかもわからないのに、何のために警戒区域を解除するのか、まったく意味がわからない。
ぎっしりとヘドロが詰まったまま1年を過ぎた溝を掘り返しながら、この作業に何の意味があるのか、ぜんぜんわからなかった。
わからなくても、せめてここの人たちに、みんなが被災地のことを忘れてないこと、少しでも元気を出してほしい、勇気を出してほしいと願う気持ちが伝わればいいと思っていた。
それしかできなかった。
活動中は素晴らしい天候で、空は真っ青に晴れ渡り、爽やかな風が気持ちよく吹き渡っていた。
その風には乾いたヘドロから舞い上がる細かなホコリが濃く混じり、目や鼻や耳の粘膜を刺激する。宮城県では去年の活動中に吹いていた、あの風だった。
去年からずっと津波の傷跡がそのままに残された場所でその風に吹かれながら、胸が痛くて仕方がなかった。
その気持ちを語る言葉をいくら考えても浮かんでこない。
ただ情けなく悲しかったというのではない。腹はたつがそれだけでもない。
これまで宮城県に通って何度も感じた気持ちとは、また別の感情だった。
ニーズ調査については別に書きます。
仮設の告白
泥の中
東北でのボランティアにずっと使ってきた安全長靴。数回凍結してしまったせいもあり、ゴムが劣化してついに穴が数ヶ所あいてしまった。
いよいよ2代目導入です。1年間お疲れさんでした。
今回携帯を忘れていったので画像の記録はナイです。ごめんなさいまし。
2012年5月2日(水)~6日(日) 震災ボランティアレポート
2012年4月14日(土)~15日(日)震災ボランティアレポート
2012年3月16日(金)~21日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年3月10日(土)~13日(火)震災ボランティアレポート
2012年2月9日(木)~2月15日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年1月18日(水)震災ボランティアレポート
2011年11月1日(火)~6日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年10月21日(金)~24日(月)震災ボランティアレポート
2011年10月6日(木)~10日(日)震災ボランティアレポート
2011年8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年8月11日(木)~15日(月)震災ボランティアレポートIndex
2011年4月29日(金)~5月7日(土)震災ボランティアレポートIndex
Googleマップ 震災ボランティアレポートマップ(ver.3.5)
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