『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編 有澤真庭訳
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2002年1月、マサチューセッツ州ボストンの地元紙で連載が開始されたカトリック司祭による性的虐待スキャンダルは、瞬く間に全米のみならず全世界のカトリック社会を大混乱に陥れた。何世紀にもわたって構築されてきた教会の隠蔽体質に改革をもたらした調査報道〈スポットライト〉チームの取材記録をまとめたルポルタージュ。第88回アカデミー賞作品賞・脚本賞を受賞した映画『スポットライト』の背景とその後を描く。
1960年代、トム・ブランシェットはボストンの西にある街サドベリーの神父ジョセフ・バーミンガムと、週に2〜3度、半ば定期的にセックスをしていた。その期間は2年間に及ぶ。
当時彼は11歳の小学生だった。愛についても性についても性行為についてもまともな知識はない。家族が信頼し尊敬する司祭に求められるまま、彼が転任で地域を離れるまで、沈黙のうちに関係を続けた。
その後何年も経って、司祭が地域のほかの少年だけでなくブランシェットの兄弟全員を性的に虐待していたことを知り、やがて自らの身の上に起きた出来事の矛盾に苦しみ始めたが、1988年、バーミンガムの司祭館を訪問し、直接こう告げた。
「私がここに来た真の理由は、二十五年間あなたを憎み、敵意を抱いてきた許しを乞うためです。なぜなら聖書に汝の敵を愛し、自分を虐げる者のために祈れとあるからです」と(148〜149P)。
私自身は、小児性愛も同性愛もそれそのものは決して罪ではないと思う。
誰かが誰かを愛し、触れあいたい、相手を手に入れたいと願う欲求は人間の自然な心理だし、それ自体には抑制されるべき理由はどこにもない。
だが人間には理性というものがある。そしてこうした性的欲求は完全にフェアな関係性のうえにあるべきものであって、権力を行使する側が行使される側に求めた時点ですべてが誤りになってしまう。
何年か前に、性的虐待の被害者を支援する活動をしていたときも、加害者自身の人間性自体を否定しようという気持ちにはとてもなれなかったけど、児童への性的虐待事件の裁判で「わたしたちは愛しあっていた」「愛してたからそうした」「いまも愛している」などという被告の自己弁護を耳にしたときほど、虚しさを感じたことはない。だとすれば彼らの「愛」は概念そのものが完全に歪んで狂っている。そのことに気づけない人間に愛を語ることなど許されない。
人間は間違いを犯す愚かな人間だが、その愚かさで正当化できるものなどありはしない。まして、傷つけられた人間がより弱い立場にあったなら、その罪を許せば許すだけ、傷は大きく修復不可能となっていく。
なぜなら、ふたりの間に権力の格差があるとき、彼ら加害者にとって被害者には名前もなく顔もなく声もない、彼ら自身にとってだけ都合のいい性のはけ口でしかありえないからだ。愛というニセモノの仮面を着けたその行為によって被害者の精神は殺され、永久に死滅する。
ボストン・グローブのスキャンダル報道からバチカンは2度教皇を替え、構造改革に努めてきた。たとえば2014年、バチカンは過去10年間に性的虐待事件で848名の司祭を免職し2572名の聖職者を懲戒処分にしたと発表している。にもかかわらずいまも批判の矢面に立たされ続けている。
ことここに及んでは、性的虐待者を庇護しカネで事件を隠蔽する慣習はカトリック教会の文化ともとらえられても仕方がないのだろう。多くの人がこの事件によって教会に背を向け、献金を拒否した。そのことで困窮するのは教会だけではない。その支援下で運営されてきた障害者支援施設や児童養護施設、医療施設などの福祉施設やそこで支援を受ける弱者たちが路頭に迷っている。それでも解決の道がまだ遠いのだとすればむしろ、カトリック教会は教会だけでなく社会全体の性的虐待問題の解決をリードすべき立場にあるのではないだろうか。
個人的には、そうであってほしいとも願っている。
キリスト教やらその制度にまったく知識のない人間にとっては少々読みにくいところもあったけど(翻訳がカタすぎる)、ボストン・グローブの記者たちの努力の結晶を実際に読むことができて嬉しかったです。文中に例の『ブラック・スキャンダル』の登場人物がちょろっと登場してみたり、いったことのないボストンの街をちょっと身近に感じました。
日本の新聞にもこれくらい根性ハマった調査報道があれば、こんなこと(「日本の報道の自由度ランク72位」「国連『表現の自由』特別報告者『懸念は深まった』記者クラブ廃止など提言【発言詳報】」ハフィントンポスト)にはなってないはずだと思うんだけどね。いまだって決してできないはずはないと思うんだけど。
被害者のインタビューを含むドキュメンタリー
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この事件を題材にしたサスペンス映画
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1960年代、トム・ブランシェットはボストンの西にある街サドベリーの神父ジョセフ・バーミンガムと、週に2〜3度、半ば定期的にセックスをしていた。その期間は2年間に及ぶ。
当時彼は11歳の小学生だった。愛についても性についても性行為についてもまともな知識はない。家族が信頼し尊敬する司祭に求められるまま、彼が転任で地域を離れるまで、沈黙のうちに関係を続けた。
その後何年も経って、司祭が地域のほかの少年だけでなくブランシェットの兄弟全員を性的に虐待していたことを知り、やがて自らの身の上に起きた出来事の矛盾に苦しみ始めたが、1988年、バーミンガムの司祭館を訪問し、直接こう告げた。
「私がここに来た真の理由は、二十五年間あなたを憎み、敵意を抱いてきた許しを乞うためです。なぜなら聖書に汝の敵を愛し、自分を虐げる者のために祈れとあるからです」と(148〜149P)。
私自身は、小児性愛も同性愛もそれそのものは決して罪ではないと思う。
誰かが誰かを愛し、触れあいたい、相手を手に入れたいと願う欲求は人間の自然な心理だし、それ自体には抑制されるべき理由はどこにもない。
だが人間には理性というものがある。そしてこうした性的欲求は完全にフェアな関係性のうえにあるべきものであって、権力を行使する側が行使される側に求めた時点ですべてが誤りになってしまう。
何年か前に、性的虐待の被害者を支援する活動をしていたときも、加害者自身の人間性自体を否定しようという気持ちにはとてもなれなかったけど、児童への性的虐待事件の裁判で「わたしたちは愛しあっていた」「愛してたからそうした」「いまも愛している」などという被告の自己弁護を耳にしたときほど、虚しさを感じたことはない。だとすれば彼らの「愛」は概念そのものが完全に歪んで狂っている。そのことに気づけない人間に愛を語ることなど許されない。
人間は間違いを犯す愚かな人間だが、その愚かさで正当化できるものなどありはしない。まして、傷つけられた人間がより弱い立場にあったなら、その罪を許せば許すだけ、傷は大きく修復不可能となっていく。
なぜなら、ふたりの間に権力の格差があるとき、彼ら加害者にとって被害者には名前もなく顔もなく声もない、彼ら自身にとってだけ都合のいい性のはけ口でしかありえないからだ。愛というニセモノの仮面を着けたその行為によって被害者の精神は殺され、永久に死滅する。
ボストン・グローブのスキャンダル報道からバチカンは2度教皇を替え、構造改革に努めてきた。たとえば2014年、バチカンは過去10年間に性的虐待事件で848名の司祭を免職し2572名の聖職者を懲戒処分にしたと発表している。にもかかわらずいまも批判の矢面に立たされ続けている。
ことここに及んでは、性的虐待者を庇護しカネで事件を隠蔽する慣習はカトリック教会の文化ともとらえられても仕方がないのだろう。多くの人がこの事件によって教会に背を向け、献金を拒否した。そのことで困窮するのは教会だけではない。その支援下で運営されてきた障害者支援施設や児童養護施設、医療施設などの福祉施設やそこで支援を受ける弱者たちが路頭に迷っている。それでも解決の道がまだ遠いのだとすればむしろ、カトリック教会は教会だけでなく社会全体の性的虐待問題の解決をリードすべき立場にあるのではないだろうか。
個人的には、そうであってほしいとも願っている。
キリスト教やらその制度にまったく知識のない人間にとっては少々読みにくいところもあったけど(翻訳がカタすぎる)、ボストン・グローブの記者たちの努力の結晶を実際に読むことができて嬉しかったです。文中に例の『ブラック・スキャンダル』の登場人物がちょろっと登場してみたり、いったことのないボストンの街をちょっと身近に感じました。
日本の新聞にもこれくらい根性ハマった調査報道があれば、こんなこと(「日本の報道の自由度ランク72位」「国連『表現の自由』特別報告者『懸念は深まった』記者クラブ廃止など提言【発言詳報】」ハフィントンポスト)にはなってないはずだと思うんだけどね。いまだって決してできないはずはないと思うんだけど。
被害者のインタビューを含むドキュメンタリー
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この事件を題材にしたサスペンス映画
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