『越境者松田優作』 松田美智子著
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1989年に逝去した俳優・松田優作の評伝。
著者は最初の妻である美智子氏。TBSラジオ「ストリーム!」ブックレビューでの紹介を聞いて読んでみましたが。
うーん・・・ハズレ。残念。
内容は没後間もない91年に松田麻妙名義で刊行された『永遠の挑発―松田優作との21年』とかなりカブッている。違うのは、没後20年近く経って美智子氏自身が故人の友人や仕事仲間など生前に親交のあった人々を訪ね、インタビューをとっているパートくらいである。それらもこれまでに他の人物が書いた何冊もの評伝やインタビュー集で読める内容とさほど変わりはない。年月によっていくらか洗いがかかって話がやわらかくなって読みやすくなった部分もあるにせよ、生々しさはもう失われている。
ぐりが『永遠の挑発』を読んだのは10年くらい前のことだけど、その時の読後感とこの本の読後感はほぼ同じだ。作家としてのキャリアも長くなったし、多少はバージョンアップしてるかと思ったんだけど。
ごく正直にいって、読んで楽しい本では決してない。
それは書かれた故人の人間性そのものによるところもあるかもしれないが、それよりもぐりがひっかかるのは、著者のスタンスの中途半端さである。無名時代を支えあった役者仲間であり恋人であり、最初の妻であり長女の母だった美智子氏にしか書けない優作像というものがあることは認める。でも読んでいてとにかくジャマでしょうがなかったのは、彼女の「私は優作を知っている、理解している、受け入れている」「あんなこともしてあげた、こんなこともしてあげた」という無言のプレッシャーが本全体をがんじがらめにびっしりと覆っている、物凄い重さだった。
著者本人としては客観的に書いているつもりでも、結果的に書かれた優作像は著者個人の夫というある意味固定的な面に限定されてしまっていて、これではやはり「元妻の手記」以上の本とはいえない。それが読みたいファンもいるかもしれない。けど、ぐりははっきりいってそんなことに興味はない。ものすごくどうでもいい。
逆に、それほどまでに元妻という立場を主張したいのなら、後妻の美由紀氏やとっくに成人して俳優として活躍中の長男・龍平氏や次男・翔太氏にも取材するくらいの大胆さがあってもよかったのではないか。いっしょに暮した期間としては美由紀氏よりも美智子氏の方がずっと長かったんだし、なにしろ死んでそろそろ20年になるのだ。別れた時どういう事情があったにせよ、大概もう時効でしょう。仮に時効になってないとしても、最期の最期に傍にいた家族に作家として取材できない具体的な理由はこの本からはうかがえない。美由紀氏一家自身は、インタビューなどで気軽に優作氏の思い出を語ってるくらいなんだから、美智子氏だってそれくらい図太くなったっていいだろう。
妻の手記という点では、92年に後妻の美由紀氏が上梓した『子宮の言葉』の方が断然おもしろいし、ぐりはこちらの本はとても好きだ。
彼女は優作氏とはひとまわり年齢が離れているということもあり、夫婦とはいえついていけない、理解できない部分があることに対してかなり客観的なところがあり、この本も優作の評伝ではなく若い母親の叙情的なエッセイという形になっている。抽象的な描写が多く、人によってはリアリティが希薄で物足りないと感じることもあるかもしれないけど、単純に読み物として魅力的な本だと思う。
松田優作が亡くなったときぐりは高校生。葬儀の報道を昨日のことのようによく覚えている。
あれから20年近く経った。あのときまだ小学校にもあがってなかった子どもたちは大人になって、両親から受け継いだ豊かな才能を画面の向こうで見事に輝かせている。
まさに光陰矢の如し。
でも身近な人の中には、あのときから先へなかなか動けない人もいるのかもしれない。それもまた愛なのだろうか。
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1989年に逝去した俳優・松田優作の評伝。
著者は最初の妻である美智子氏。TBSラジオ「ストリーム!」ブックレビューでの紹介を聞いて読んでみましたが。
うーん・・・ハズレ。残念。
内容は没後間もない91年に松田麻妙名義で刊行された『永遠の挑発―松田優作との21年』とかなりカブッている。違うのは、没後20年近く経って美智子氏自身が故人の友人や仕事仲間など生前に親交のあった人々を訪ね、インタビューをとっているパートくらいである。それらもこれまでに他の人物が書いた何冊もの評伝やインタビュー集で読める内容とさほど変わりはない。年月によっていくらか洗いがかかって話がやわらかくなって読みやすくなった部分もあるにせよ、生々しさはもう失われている。
ぐりが『永遠の挑発』を読んだのは10年くらい前のことだけど、その時の読後感とこの本の読後感はほぼ同じだ。作家としてのキャリアも長くなったし、多少はバージョンアップしてるかと思ったんだけど。
ごく正直にいって、読んで楽しい本では決してない。
それは書かれた故人の人間性そのものによるところもあるかもしれないが、それよりもぐりがひっかかるのは、著者のスタンスの中途半端さである。無名時代を支えあった役者仲間であり恋人であり、最初の妻であり長女の母だった美智子氏にしか書けない優作像というものがあることは認める。でも読んでいてとにかくジャマでしょうがなかったのは、彼女の「私は優作を知っている、理解している、受け入れている」「あんなこともしてあげた、こんなこともしてあげた」という無言のプレッシャーが本全体をがんじがらめにびっしりと覆っている、物凄い重さだった。
著者本人としては客観的に書いているつもりでも、結果的に書かれた優作像は著者個人の夫というある意味固定的な面に限定されてしまっていて、これではやはり「元妻の手記」以上の本とはいえない。それが読みたいファンもいるかもしれない。けど、ぐりははっきりいってそんなことに興味はない。ものすごくどうでもいい。
逆に、それほどまでに元妻という立場を主張したいのなら、後妻の美由紀氏やとっくに成人して俳優として活躍中の長男・龍平氏や次男・翔太氏にも取材するくらいの大胆さがあってもよかったのではないか。いっしょに暮した期間としては美由紀氏よりも美智子氏の方がずっと長かったんだし、なにしろ死んでそろそろ20年になるのだ。別れた時どういう事情があったにせよ、大概もう時効でしょう。仮に時効になってないとしても、最期の最期に傍にいた家族に作家として取材できない具体的な理由はこの本からはうかがえない。美由紀氏一家自身は、インタビューなどで気軽に優作氏の思い出を語ってるくらいなんだから、美智子氏だってそれくらい図太くなったっていいだろう。
妻の手記という点では、92年に後妻の美由紀氏が上梓した『子宮の言葉』の方が断然おもしろいし、ぐりはこちらの本はとても好きだ。
彼女は優作氏とはひとまわり年齢が離れているということもあり、夫婦とはいえついていけない、理解できない部分があることに対してかなり客観的なところがあり、この本も優作の評伝ではなく若い母親の叙情的なエッセイという形になっている。抽象的な描写が多く、人によってはリアリティが希薄で物足りないと感じることもあるかもしれないけど、単純に読み物として魅力的な本だと思う。
松田優作が亡くなったときぐりは高校生。葬儀の報道を昨日のことのようによく覚えている。
あれから20年近く経った。あのときまだ小学校にもあがってなかった子どもたちは大人になって、両親から受け継いだ豊かな才能を画面の向こうで見事に輝かせている。
まさに光陰矢の如し。
でも身近な人の中には、あのときから先へなかなか動けない人もいるのかもしれない。それもまた愛なのだろうか。
図書館から借りて来てほぼ読み終わりましたが、
気分が良くない本でした。
世に出る迄の松田優作の話は分かりましたが、
とにかく「あの人を理解出来たのは私」
「私はあの人のこんな所も知ってる。」みたいな話ばかりで、
既に奥様でもない方が、こういう本を出されて、
美由紀さんは嫌だったであろうし…。
『ホントは優作は私を必要としていたのだ。』とでも言いたいのであろうか?
自分が側に居れば病気があんなになる前に何とか出来たとでも言うのであろうか?
読み進む程に著者に対して『嫌な女感』を持ってしまう。
彼の事が良く分かった事は確かだけど。。。
5年も前の記事にコメントありがとうございます。
本の内容はほとんど忘れてしまいましたが、これが機会になって書評をあてにしなくなりましたね。
評伝も同じ人が書いたものは2冊以上読む必要ないです。勉強になりました。