『この世界の片隅に』
広島・江波で海苔の養殖を家業とする家にうまれたすず(のん)は、「ぼーっ」とした性格で絵を描くのが得意な女の子。厳しい兄と、しっかりものの妹(潘めぐみ)と両親と、草津に住む祖母(京田尚子)の一家と平和に暮らしていたが、数え19の年に急に縁談がもちあがり、呉で海軍関係の仕事をしているという周作(細谷佳正)の家に嫁ぐ。昭和19年、第二次世界大戦も末期に迫り、地元の海は埋め立てられて海苔はつくれなくなり、鬼ぃちゃんとあだ名した兄は出征したまま戻らず、軍港である呉の街には空襲警報が鳴り響く日々が続いていたが・・・。
広島出身の作家・こうの史代の漫画のアニメーション映画化作品。
上映館の興行記録を10年ぶりに塗り替えるほどのヒットということで、3年ぶりに劇場でアニメ映画を観てみましたが。立ち見でした。朝イチの回からその日は全回立ち見。スゴいっすね。
実際観てみて、何がスゴいって「とくにここがスゴい」というような目立ったパーツはないんだよね。もうものすごく普通なの。モチーフが。一家団欒、毎日の食事、天気、隣近所の些細な軋轢。ごくごく当たり前の、「ふつう」の日常を描いている。その「ふつう」がいかに美しく愛おしく豊かなものかを、戦争の時代を背景にひたすら緻密に丁寧に描いている。
ただただ地道に表現されたその繊細さが、命の輝きと日常のあたたかさを、せつせつと観るものに訴えかけてくる。ディテールの勝利でございます。
すずの幼馴染みで水兵になった水原(小野大輔)が、彼女の嫁ぎ先に風呂を借りにやってきて「すずはふつうだ」といって愛でるシーンがある。死に遅れるのがじれったいほど狂った戦場にいる水原の目に、ごく平凡なすずの新妻ぶりはどれほどまぶしく香しく映っただろう。
見知らぬ街に強引に嫁がせた妻に後ろめたさを感じ続ける周作一家の優しさにも、胸が痛くなる。いつまでたっても子どもで、大人のくせに迷子になったり、何かに夢中になると周りのことが見えなくなってしまう不器用なすずを、婚家の皆がいたわり末娘のように可愛がる関係にしても、一見平和なようで誰もが簡単にある日突然命を奪われるのが当たり前になってしまった恐ろしい時代を背景にしていることを思うとせつない。
夢見がちで絵を描くのが好きなすずの心象風景には、現実とは別の情景がしばしば挿入されるのが『風立ちぬ』を彷彿とさせる。あれは飛行機オタクがつくった天才の物語だったけど、こちらもある意味オタク少女のようなキャラクターが主人公だし、監督の片渕須直氏は一時ジブリで宮崎駿作品のスタッフだったころもあったというので、似ていても不思議ではない。『風立ちぬ』は飛行機設計技師の物語だから妄想シーンもかなり動きが大きくてダイナミックだったけど、こちらの妄想シーンはもっと牧歌的でただただカラフルにファンタジックで可愛らしい。ベクトルは真逆なのに、すごく似ているようにも感じるのがおもしろいです。
戦争ものといえば痛々しかったり悲劇的だったり、厳しい状況を厳しく描く映像作品はいくらもあるけれど、実際にその時代を生きた人たちが年がら年中そんな物語に浸りきっていたわけではない。
人はどんな状況でもささやかな幸せを自らみつけだし、強くしたたかに生きようとする。そうでなければ現実を生き抜くことはできないからだ。彼らの強さはそれだけを取り出してみればただただ微笑ましい。
しかし、その生き方が必ずしも正しくないことを、すずは玉音放送を耳にして初めて思いしる。
何も知らず、何も考えず、何もみないふりをして「ふつう」に暮らせるその現実の向こうに、気づかないふりをして踏みつけにしてきたさまざまな犠牲があった(ある)ことに、彼女は自分自身と愛する家族に向けられた理不尽な暴力の末に、向かいあうのだ。
「政治的な映画にしたくない」という意図であえて強調されなかったこの部分の描かれ方に、不満がないとはいわない。
だがこのバランス感覚こそが多くの観客の共感を呼んでいるのだとすれば、商業映画作家としての力量に間違いはなかったと認めざるを得ない。
せめてこの大ヒットに、昭和20年当時にとどまらない、いまも続くその不平等な世界のあり方に多くの人が疑問をもつきっかけになってくれればとは思います。
広島・江波で海苔の養殖を家業とする家にうまれたすず(のん)は、「ぼーっ」とした性格で絵を描くのが得意な女の子。厳しい兄と、しっかりものの妹(潘めぐみ)と両親と、草津に住む祖母(京田尚子)の一家と平和に暮らしていたが、数え19の年に急に縁談がもちあがり、呉で海軍関係の仕事をしているという周作(細谷佳正)の家に嫁ぐ。昭和19年、第二次世界大戦も末期に迫り、地元の海は埋め立てられて海苔はつくれなくなり、鬼ぃちゃんとあだ名した兄は出征したまま戻らず、軍港である呉の街には空襲警報が鳴り響く日々が続いていたが・・・。
広島出身の作家・こうの史代の漫画のアニメーション映画化作品。
上映館の興行記録を10年ぶりに塗り替えるほどのヒットということで、3年ぶりに劇場でアニメ映画を観てみましたが。立ち見でした。朝イチの回からその日は全回立ち見。スゴいっすね。
実際観てみて、何がスゴいって「とくにここがスゴい」というような目立ったパーツはないんだよね。もうものすごく普通なの。モチーフが。一家団欒、毎日の食事、天気、隣近所の些細な軋轢。ごくごく当たり前の、「ふつう」の日常を描いている。その「ふつう」がいかに美しく愛おしく豊かなものかを、戦争の時代を背景にひたすら緻密に丁寧に描いている。
ただただ地道に表現されたその繊細さが、命の輝きと日常のあたたかさを、せつせつと観るものに訴えかけてくる。ディテールの勝利でございます。
すずの幼馴染みで水兵になった水原(小野大輔)が、彼女の嫁ぎ先に風呂を借りにやってきて「すずはふつうだ」といって愛でるシーンがある。死に遅れるのがじれったいほど狂った戦場にいる水原の目に、ごく平凡なすずの新妻ぶりはどれほどまぶしく香しく映っただろう。
見知らぬ街に強引に嫁がせた妻に後ろめたさを感じ続ける周作一家の優しさにも、胸が痛くなる。いつまでたっても子どもで、大人のくせに迷子になったり、何かに夢中になると周りのことが見えなくなってしまう不器用なすずを、婚家の皆がいたわり末娘のように可愛がる関係にしても、一見平和なようで誰もが簡単にある日突然命を奪われるのが当たり前になってしまった恐ろしい時代を背景にしていることを思うとせつない。
夢見がちで絵を描くのが好きなすずの心象風景には、現実とは別の情景がしばしば挿入されるのが『風立ちぬ』を彷彿とさせる。あれは飛行機オタクがつくった天才の物語だったけど、こちらもある意味オタク少女のようなキャラクターが主人公だし、監督の片渕須直氏は一時ジブリで宮崎駿作品のスタッフだったころもあったというので、似ていても不思議ではない。『風立ちぬ』は飛行機設計技師の物語だから妄想シーンもかなり動きが大きくてダイナミックだったけど、こちらの妄想シーンはもっと牧歌的でただただカラフルにファンタジックで可愛らしい。ベクトルは真逆なのに、すごく似ているようにも感じるのがおもしろいです。
戦争ものといえば痛々しかったり悲劇的だったり、厳しい状況を厳しく描く映像作品はいくらもあるけれど、実際にその時代を生きた人たちが年がら年中そんな物語に浸りきっていたわけではない。
人はどんな状況でもささやかな幸せを自らみつけだし、強くしたたかに生きようとする。そうでなければ現実を生き抜くことはできないからだ。彼らの強さはそれだけを取り出してみればただただ微笑ましい。
しかし、その生き方が必ずしも正しくないことを、すずは玉音放送を耳にして初めて思いしる。
何も知らず、何も考えず、何もみないふりをして「ふつう」に暮らせるその現実の向こうに、気づかないふりをして踏みつけにしてきたさまざまな犠牲があった(ある)ことに、彼女は自分自身と愛する家族に向けられた理不尽な暴力の末に、向かいあうのだ。
「政治的な映画にしたくない」という意図であえて強調されなかったこの部分の描かれ方に、不満がないとはいわない。
だがこのバランス感覚こそが多くの観客の共感を呼んでいるのだとすれば、商業映画作家としての力量に間違いはなかったと認めざるを得ない。
せめてこの大ヒットに、昭和20年当時にとどまらない、いまも続くその不平等な世界のあり方に多くの人が疑問をもつきっかけになってくれればとは思います。
こういうバランス感覚は常日頃仕事上でもとても大事にしていることなんですが、自分ひとりが大事にしていてもそう簡単に実現できるものでもないんですよね。実際そこがいちばん難しく感じるところでもあります。
この作品のこのバランスが正解なのかどうかはさておき、ヒットしたことはひとつの答えかなとは思います。
どんなふうにすれば、アイデアや思いが伝わるか考えさせられた一年だったので、ぐりさんのレビューの最後の段落に、はっとしました。
年の瀬も押し迫って大晦日ですが、どうぞよいお年をお迎えください。