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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

巨匠・縄師

2006年02月11日 | movie
『PROMISE 無極』
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あのねー。おもしろかったよ。意外にも。ウン。満足。
衣装とか美術セットとか、映像はとても綺麗。アクションは劉燁(リウ・イエ)がいってた通りまるで舞踊のように華やか。さすがー。
一部に「特撮がイケてない」とゆーレビューもみかけたけど、なかなか健闘してたんじゃないかな?少なくとも『LOVERS』よりは相当よく出来てたと思う。これはちょっと強引では?と思うとこもあるにはあったけど、全体としてはよく出来てたよ。
笑えるとこもいっぱいあったしね。「・・・ココは笑ってもいいのか?」と一瞬迷うよーなとこもあるけど、とりあえずかなり笑える。感動はないけどね。
前評判はあんまりよくなかったし実はちーとも期待はしてなかったんだけど、予想してたよりは全然楽しめました。少なくともナニがやりたかったのかはすごくよくわかる映画です。つまりはファンタジーとコスプレとアクションがやりたかったのよ。ね?ノリがもろアキバ系やんけ・・・。

しかしストーリーはバックリ破綻してる(爆)。人物の行動にぜーんぜん一貫性ないしー。とくに光明(真田広之)と昆侖(張東健チャン・ドンゴン)と傾城(張柏芝セシリア・チョン)の心の動きはさっぱり表現しきれてない。彼らをめぐる展開が毎度毎度、なんでそうなるっ?みたいな。いちいちイキナリ。演技がどうとかいう問題ではない。台本の完成度が低いのだ。
それに反して無歓(謝霆鋒ニコラス・ツェ)や鬼狼(劉燁)はヒジョーに単純でわかりやすい。つーかこの映画はニコラスが主役なんじゃない?もしや?無歓おもしろすぎるよ。ぐり馬鹿ウケよ。無歓サイコー。ブラボー。
アンド。公開前は劉燁が予告編に映ってなくてさみしい思いをしてた人もいたと思うんだけど、本編を観て初めて「あ、あのヒト劉燁だったんだ」とゆーシーンがありました(爆)。例の黒衣姿じゃなくて、顔が原形とどめないくらい凄まじい形相をしてるせいで気づかなかったんだよね。つーくらい、劉燁は必死!で演技してます。アクションシーンばっかしでロクに‘芝居’みれないけど(涙)。

俳優はそれぞれにすごく頑張ってるけど、正直な話、ニコラス以外は誰がやってもいっしょだったんじゃないかな?とゆー気がしました。確かにスキルやキャリアからいえばまあまあ妥当なキャスティングではあるけど、それぞれの個性はあんまり生きてなかったと思う。ドンさんファンとかあんなんで納得してんのかな?みんながめちゃくちゃ一生懸命なだけに、よけいそう感じました。
陳紅(チェン・ホン)は『北京ヴァイオリン』であやしげなネーチャン役やってた人ですね。これ観て改めて気づきました(遅っ)。しかしこの満神っちゅーキャラも意味不明ですー。神ってこーゆーもんだっけ?なんか違うんじゃ?
つかそれは他のキャラもそーだね(笑)。将軍は初対面の女にめろめろしてるだけだし、奴隷は主人のいうことはまったくきいてないし、王妃はどーみても娼婦にしかみえないし、公爵がむしろ‘女王様’だし(なんで王妃=女に執着するのかが謎)、刺客はいちいち情に流されすぎ。
そういう「まず設定ありき」なとことか、衣やら鎧やら扇やらアイテムがやけにモノをいうストーリーとか、陳凱歌(チェン・カイコー)ってばやっぱRPG好き?

それにしても陳凱歌は毎回‘男女の愛’の表現が幼稚すぎて参りますね。ラブシーンがありゃいいってもんじゃないんですよ。苦手なら苦手でいいから、もうそれに挑戦するのはヤメた方がええんとちゃいますかね。あとこのヒトってばもしや緊縛好き?いちーち縛りまくり。縛りのシーン多過ぎます。そのたんびに縛りアイテム変えたりしてるけどさ、そーゆー問題じゃなくってよ。

初日の初回にも関わらず映画館ガラッガラでビビりました。大丈夫か〜?全米公開は結局どーなるんだろー。

へヴィー級でいこう

2006年02月04日 | movie
『単騎、千里を走る。』
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高倉健ラブ!!!!とにかくラブ!!!!健さんさいこおーーーー!!!!愛してます!!!!by張藝謀(チャン・イーモウ)。みたいな。
てゆーか観客も健さんファンが多いのか、異様に年齢層高し。普段中国映画とかあんまし観ない方々らしく、中華電影を見慣れたぐりからすると「えっ?こんなとこで?」なシーンでわりと皆さんウケてました。
しかし張藝謀はもうホンット、健さんが好きなんだね。観ててちょっと恥ずかしいくらいのリスぺクトっぷり。つーか健さんの登場シーン常にカメラ寄りすぎだし(爆)。もーがぶり寄りっす。張藝謀の作品て、風景と人物を配分よく組みあわせたクールな画面構成がオトナっぽくて好きなんだけど、今回違うです。はああ。
中国パートは張藝謀らしくてなかなかよかったです。あいかわらず素人役者の使い方が絶妙。片言の日本語しか喋れない現地ガイドの邱林(チュー・リン)や仮面劇の踊り手・李加民(リー・ジャーミン)なんかすっごいいい味出してます。本業も観光ガイドだった邱林はこれが契機となって俳優業に転向するそうだ(笑)。
それに反して日本パートはくどくて説明っぽくて全然イケてなかった(爆)。とくに健さんのナレはいらんかったよー。ちょーーーー説明!って感じで興醒めよ。

ストーリーが単純なわりに説明の多い映画なんだけど、いちばん肝心なところの語り方はさすが張藝謀、うまいです。じわじわと観客に感じさせておいて、最後に答えあわせみたいにタネ明かしがある。観たあとでスッキリした気分になれる。あざといけど、張藝謀のこういうあざとさには毎度「参ったなあ」と微笑んでしまう。そういうのってけっこうわるくない。
結局この話のメインは「人と人とがちゃんと向かいあうことの大切さ」だ。わかりあうこととか、協力しあうこととか、仲良くなるとか、そんなご大層なことではなくて、まずちゃんと向かいあわなくては何も始まらない。すべてがそこからスタートするべきなのだ。
そこのその部分はとてもよく描かれている。

この映画に出てくる中国人はみんな、健さんが胸襟を開いて正直になればなったぶんだけ親切にしてくれる。
それは彼が「遠い異国からきてくれた客人」であり「中国の伝統文化を知ろうとしている」からであり「病床の息子が中国人とした約束を果たそうとしている」事情があるからなのだが、理屈のうえでのギブ&テイク的な親切とはちがって、何か「中国人としてのプライド」に基づいた親切のようにも感じたし、常に‘面子’を重んじる中国人ゆえの行動原理のようにも感じた。
ぐりはそのへんのことは素人だけど、中国人の意識に詳しい方はどう思われるのか、聞いてみたいです。

にしても健さんへの愛・炸裂っぷりはちょっとどーにかならんかったもんですかね・・・つーか健さん映画ってみんなこんななの?アタシ『ブラックレイン』と『南極物語』しか観たことないんだよな・・・(爆)。

へヴィー級でいこう

2006年02月04日 | movie
『白バラの祈り─ゾフィー・ショル、最期の日々』
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サブタイが「最期の日々」となってるけど、ホントに最期の数日間だけのお話。
‘白バラ’とは第二次大戦下のミュンヘンで反ナチ活動に参加した学生グループのこと。活動期間は1942年から翌年にかけての半年余りで、メンバー6人全員が処刑されている。ゾフィー・ショルは当時21歳、紅一点の女子大生。43年に在籍中の大学で反ナチのビラをまいた容疑で逮捕され、5日後に文字通り「断頭台の露と消えた」少女である。
映画には彼女が問題のビラをつくった日のことと、逮捕されてから殺されるまでの6日間が描かれている。

たった6日間の物語であり、うち5日間のシーンは全てが取調室や留置場、裁判所などといった室内でのほぼ1対1の会話劇なので、内容がひどく濃い。台詞のないシーンがほとんどまったくない。
ときおり、それら狭い空間の窓から晴れた冬の空をじっと見上げるヒロインの姿が、まるでフェルメールの絵のように静かに挿入される。空は白バラの若者たちが叫んだ「自由」の象徴なのかもしれない。
それ以外のシーンはすべてが激しい台詞の応酬に終始している。結論はわかっている。ゾフィー(ユリア・イェンチ)も含めたメンバー全員は結局ろくな裁判も受けられずに殺されてしまった。その2年後にはドイツは無条件降伏しナチス政権は崩壊した。ヒロインたちは弱者ではあったが、負けはしなかった。そのことは時代が証明した。
だがその「勝利」を死ぬまで信じ続けることは、ふつうの人間にとって決して容易なことではない。でもゾフィーはごくふつうの女の子だったのだ。頭の回転が早く冷静沈着ではあるが、とくに自己顕示欲が強いとかとりたてて弁説さわやかとかそういうことはない。そんなごくふつうの女の子─‘政治的’にみれば生まれたての子鹿のようにかよわい存在─が、政治犯としてとらえられ殺された。そこに、ナチス政権の不安定さが象徴されているようにも思える。
映画には台詞も含め表情も含め、よけいなものがいっさい描かれない。ものすごくストイックでシンプルな映画だ。意図してヒロインをヒロイックに演出したりはしていない。むしろ「どこにでもいるふつうの女の子」らしさが素朴に表現されているだけだ。

作品全体を通してみると、こうしたシンプルさが却って物語のメッセージ性を強調しているような気がする。
戦争で解決することなんかなにもない。ドイツ人だろうがユダヤ人だろうが人間はみんな同じではないのか。言論の自由も信仰の自由もない平和などありえない。
もうそれは時代が証明した。さっきも書いたように。それなのに、世界中でまだ同じことを飽かず繰り返しているひとたちがいる。60年も前、「どこにでもいるふつうの女の子」がいえたことなのに。
一体われわれ人間は何をやっているのか?

こちらもオスカー候補。同じ外国語映画賞の他の候補作では『戦場のアリア』がGWに公開予定。コレも第二次大戦中の出来事を描いた映画だそうです。
白バラのことは最近になっていろいろ本が出ているそうなので、これから読んでみたいと思います。

へヴィー級でいこう

2006年02月04日 | movie
『ミュンヘン』
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初日の初回で有楽町、配給関係のヒトがうなるほど来ている。しかしあまり宣伝をしなかったせいか朝早かった(9時開始)からかそれとも寒過ぎたのか、客の入りはもうひとつ。
実はぐりも昨日まで初日に観ようとは思っていなかった。たまたま一昨日ネットのニュースで、スピルバーグが『ミュンヘン』についてのインタビューに世界で唯一TBSのニュース23の取材に応じたという記事を読み、ゆうべそれをみて、「よし、初日いちばんで観よう」と決めたのだ。

これはかなり難しい映画だ。
スピルバーグ自身も「初めて‘答えのない’映画をつくった」というようなことをいっていたが、まさにその通り。この物語には観客が期待するような‘オチ’がない。というかここに描かれているモチーフ─パレスチナ/イスラエル問題─にまだ‘オチ’がついていないからだ。スピルバーグはあえておそれずに、「まだ答えなんかない」といっている。
だけでなく、登場人物が全員特殊工作員やテロリストやマフィアといったキャラクターなので、会話がいちいち暗喩的なのだ。どの人物もストレートにものをいわない。どの台詞にも多くの示唆が含まれている。おまけに舞台がミュンヘン、エルサレム、ローマ、ロンドン、パリ、アテネ、ベイルート、アムステルダム、ニューヨーク(とあとどっか)とめまぐるしく移動し、そのたびに画面で飛び交う言語がかわり、字幕も出たり出なかったりする。常に耳のアナかっぽじって集中して聞いていないと、一体なんの話をしているのか、あっという間についていけなくなってしまう。
シリアスでもエンターテインメントでもとにかくとびきりのわかりやすさが専売特許のようなスピルバーグ作品にしては、やや珍しいタイプの映画になったのではないだろうか。

だがそのぶん物語はとてもシンプルだ。テロが起きて、被害を受けた国の政府が報復テロを計画する。指令を受けた工作員は唯々諾々としてそれに従う。ターゲットがひとりまたひとりと仕留められ、やがて工作員もひとりずつ消されていく。ただそれだけ。たったそれだけ。
それだけにディテールの説得力が重い。主人公(エリック・バナ)が精神的においつめられていくのにつれて、人々の微妙な表情、なにげない言葉のニュアンス、暗がりの物陰、微かな物音といったこまかな現象に観客も敏感になっていく。ジョークがジョークで済まされなくなり、思い過ごしが思い過ごしで済まなくなっていく。疑惑がどこまで疑惑で、正義がどこまで正義なのかみえなくなっていく。観ていてとても消耗する映画だ。
でもある意味、だからこそこの映画は危険だともいえる。思わせぶりで遠回しな言葉が濫用されるだけに、ハッキリとストレートな言葉がつい「一見すごく筋が通っている」ように錯覚しそうになる。冷静に考えれば絶対にそんなはずはないのに。
殺しあいは結局殺しあいでしかない。そこに大義なんかないことは、21世紀のわれわれはもう知っている。

すごくよくできた映画です。スピルバーグだからこそ撮れた映画だと思う。さすがオスカー有力候補といわれるだけのことはあると思います。
原作本が出ているので、今度読んでみようと思ってます。

ヒッキー街道

2006年02月02日 | book
『夫殺し』李昂著 藤井省三訳
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なんか最近人が死んだり殺されたりする映画とか本ばっかし読んでいるせいか、キモチが荒んでるよーな気がする。
いかんぞ!いかんなー。
あとアレですね、あんまし出歩いてなくて仕事場の人以外の人間と喋ってないからかも・・・。
このままこーゆー生活続けてたらまちがいなくヒッキーになりそーだ。やばし。
そんなぐりが今行きたいのは動物園。とくにアドベンチャーワールド(和歌山県白浜町)と旭山動物園(北海道旭川市)と掛川花鳥園(静岡県掛川市)。どれも遠い。

閑話休題。
コレは去年映画祭で観た『月光の下、我思う』の原作者の旧作。とゆーか出世作にもあたるのかな?台湾を代表するフェミニズム作家の有名な小説だそうだ。
時代は1940年代、舞台はうら寂れた廃港の町。幼くして父を失い、母の不貞によって孤児となった少女が嫁した屠殺業の夫は病的なサディストだった。貧困と暴力と妄信と地域コミュニティの荒廃が生む悲劇。
貧しいったって食べるものが足りないとかそういうわかりやすい貧しさではない。大体台湾は気候が温暖な南国なので、飢えるといっても日本や中国大陸でいうような飢えとは性質がやや異なる。それよりももっと恐ろしい貧しさ。精神世界の貧困。

それが具体的にどういう種類の貧困なのかはあえてここで説明しないが(つーか書きたくないんだな)、そんな貧困が人の世にとってどれだけ不幸なものか、そして人ひとりの力で変革不可能な重みをもっているかが、非常によく描かれています。
自分の頭脳でなにひとつ考えることのできないヒロイン、家庭のあたたかさとは自らつくりだすものであるということにつゆ気づかない夫、蒙昧ゆえに迷信や幽霊や神をよく知りもせずに崇め敬う地域の人々、あえて事実に向きあうことをしない閉鎖的・保守的な社会。それらが渾然一体となって放つえもいわれぬ悪臭とべっとりと湿った空気が文面から漂い、まとわりついてくるような不快きわまりないリアリティ。それなのにどこか残酷なお伽話のようでもある。
この小説は海外でも高く評価されたそーですが、なるほどそれはとてもわかる気がする。

巻末に著者のインタビューと台湾の歴史・近代文学史に関する解説が載っていて、これはなかなかわかりやすかったです。実はこの訳者氏の他の著書はどーも感心せんかったりもしたんですが、こういうさくっとあっさりした解説は悪くないかも。
中国ではなぜか伝統的に「妻の犯罪の裏には必ず姦夫がいるもの」と信じられていて、事実この小説の元ネタである事件─家庭内暴力に耐えかねた妻が夫を殺害─は大変珍しいとされて世間に驚かれたそうだが、ぐり自身はそのことよりも、母の不貞を目撃した幼いヒロインが性的快楽を感じない女性に成長するという因縁というかトラウマについて、もうちょっとつっこんで描いてほしかった気がしました。明らかにそこ物足りんっす。
そこ絶対関係あるはずなんだけど、作中でも解説でもぜんぜんノータッチなのが不可解なり。
なんとなく「不感症のヒロイン≠健全に性に敏感な女=淫婦=悪→ヒロインだけ被害者」みたいな偏見にもみえるんですけど・・・この主人公すごいヒッキーっぽいし・・・・(爆)。←すいません冗談です