落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ボーイズライフinクロアチア

2007年10月26日 | movie
『アルミン』

これまたレアなクロアチア映画。
アルミン(アルミン・オメロヴィッチ・ムヘディン)はアコーディオンが得意な男の子。学校では演劇部に所属している。あるときドイツ映画のオーディションを受けることになり、はるばるザグレブまで出かけていく。もちろんひとりではない。おとうさん(エミル・ハジハフィズベゴヴィッチ)といっしょだ。
このおとうさんがめちゃくちゃに過保護で、なにか持病があるらしいアルミンの世話を必死で焼きたがる。一方アルミンはちょうど思春期で、過干渉なおとうさんがウザくてしょうがない。ミョーにクールな生意気ボーヤと、絵に描いたような田舎者のおとうさんの3日間のふたり旅。
アルミンが無口なので自然とおとうさんばっかり喋ることになるし主人公もたぶんおとうさんの方なんだけど、このおとうさん役の俳優の容貌がおかしい。ジャック・ニコルソンを東欧風にしたようなものすごい強面で、およそ「息子思いのマイホームパパ」とゆータイプじゃない。この顔でこのキャラってとこで既にこの映画の勝利は半分決まっちゃってます。ズルい(笑)。しかも息子は背丈は父親に並ぶほど大きくて、もうそこまで構わなくてはならないほど幼くはない。笑える。
父子ふたりの心の揺れの描写が非常に丁寧で誠実で、とても胸のあたたまるいい映画。誰が観ても、親心もわかるし息子の態度にもどこか思い当たるところがあるんじゃないかと思う。
あとぐり的には、外国から来た監督をアテンドする金髪の現地人コーディネーターのキャラに、何やら含むところを感じました。美人だし仕事は早いし行動は的確だしおそらく職業的には優秀な人なんだろうけど、映画をつくろうとする「人」の気持ちの部分をいっさい解そうとしない、傲慢で冷淡な女性としてものすごくリアルに描写されているのだ。映画スタッフという地位を特権階級か何かと勘違いしてんだよね。誰に対しても常に上から目線とゆーか。こーゆー人、いるよね(笑)。
映画のラストの方で、ボスニア人=戦争の被害者みたいな扱いはされたくないと父子がいうシーンがあるのだが、↑の『時間と風』のレハ・エルデム監督も、自分は映画をつくりたいだけであってそこにいちいち政治的社会的意図を邪推されるのは不本意だといっていた。しょうがないっちゃしょうがないよね。けど気持ちはわかりますよ。

ボーイズライフinトルコ

2007年10月26日 | movie
『時間と風』

原題はイスラムの一日5回の祈りを意味する「BEŞ VAKIT」。邦題は英語題の訳。
といってもイスラム教の信仰そのものというより、イスラム文化圏をバックグラウンドに、時代や国や地域を問わず普遍的な「子どもの成長とそれにまつわる悲劇」を描いた、ごく古典的な映画である。
古典的というからにはやはり退屈になりがちなワケで、台詞は少ないしストーリーも薄い。主要な登場人物となる4人の思春期の子どもの、それぞれの家庭環境や友情がひたすら淡々と描写される。TIで監督はロシアの巨匠タルコフスキーを師と崇めていると発言してて、確かにはっきりと影響はみられるし映像はむちゃくちゃ綺麗だけど、残念ながら、さほど印象深い映画になっていないのもまた事実である。
もうちょっと構成にメリハリをつけるとか、カメラワークをわかりやすくするとか(ステディカムとかハイスピードとか多用すればいいというものではない)、もうひとつ工夫があればもっと楽しめる映画になったのではないかとも思うけど、いくつか映画賞もとっていてそれなりに評価はされているようなので、これはこれでいいのかも。
ぐりはとりあえず、監督が大好きだというアルヴォ・ペルトの音楽が重くて重くて、観ててそれがすごくつらかった。大仰なんだよ・・・。

カザフスタンの美少女

2007年10月25日 | movie
『草原の急行列車』

草原の線路沿いに住む保線夫の父と美しい娘の家に、列車内でのトラブルで置き去りにされたフランス人青年が転がり込んでくる。お約束通り、若いふたりは徐々に心を通わせていき〜なんて展開は大体先が読めてますね。『初恋のきた道』カザフバージョンかよ。と思ったらどっこい違います。途中からアッと驚くビックリ展開が待っている。
この映画は古今東西あらゆる地域であらゆる物語に描かれて来た子別れをモチーフにしているが、同時に、決して逆にはまわらない時間の歯車もテーマになっている。見た目には自然豊かで静かにのんびりとした草原にも、気づかないうちに時代の波は迫ってくるし、子どもは成長していずれ親の元を離れていく。一旦過ぎた時間は絶対に取り戻せはしない。残酷だがそれが現実なのだ。
基本的にカザフ語の映画なのだが、フランス人はもちろんフランス語で喋っていて、ボイスオーバーでカザフ語が重ねてある。他地域作品では字幕にするところだがこれもお国柄なのだろう。よくよく聞いていると登場人物はカザフ語とロシア語のちゃんぽんで喋っていてそこに簡単な英単語も交じっている。フランス人も旅行者らしくカザフ語やロシア語を喋っていたりして、言葉のコミュニケーションの描写がすごくリアルだった。時と場合によってまだらに通じたり通じなかったりするのだ。
娘役の女優が若かりし頃の張曼玉(マギー・チャン)をエキゾチックにしたような美少女で、まさに草原の妖精か天使かとゆーかわいさなのだが、後半でこれまた仰天するような大変身をする。女の子って変われば変わるもんなんだよね。にしてもカワイかった・・・。

夢は空を飛ぶ

2007年10月25日 | movie
『潜水服は蝶の夢を見る』
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やっぱしジュリアン・シュナーベル、スゴイよ。信じらんないよ。素晴しすぎ。ブラボー。
原作は自伝だが、この映画は主人公が過去を振り返る物語ではない。多少の回想シーンはあることはあるけど、ほとんどがジャン・ドー(マチュー・アマルリック)が病に倒れてからをタイムクロノジカルに描いたシーンで綴られている。
ジャン・ドーは脳梗塞で全身麻痺に陥っているので、自分ひとりではなにもできない。しかし精神は完全に健康なので、心は自由になんでもできる。この映画は、麻痺した肉体(=潜水服)に閉じこめられた彼の心(=蝶)が飛翔する、魂の自由を謳った映像詩なのだ。
全編の半分以上が主人公の主観画面なのだが、これがまためちゃくちゃに美しい。画角が微妙に傾いていて、カメラの動きはごく限られた範囲、背景がほとんど病院なので淡い水色をふくんだ白や、窓越しの乳白色の日光にふんわりとつつまれ、フォーカスアウト気味のやわらかな質感の画面の中から、理学療法師や医師や家族など、主人公の世話をする人たちがこちらを覗きこんでいる。
つまりシュナーベルは映像によって障碍者の感覚を表現しているわけで、これはものすごくわかりやすくて、かつ実に芸術的という、ちょっと両立しにくそうなふたつの要素をしっかり兼ね備えた映画にきちんと仕上がっている。
観ていてつらいと思うシーンももちろんある。だがそういうパートも含めて「このままなにもせず、なにもできない人のまま人生を終わりたくない、自分なりに命を燃やし尽くしたい」という、切実な“生”への叫びが非常にストレートに響く。
もうじき日本でも一般公開されるみたいだけど、公開されたらまた観たいです。



原作レビュー
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ダンサー・イン・ザ・キャンプ

2007年10月25日 | movie
『ウォー・ダンス』

ウガンダで2005年の全国音楽大会に初出場したパトンゴ小学校に密着した感動ドキュメンタリー。
パトンゴ小学校は内戦状態が続くウガンダ北部の難民キャンプでアチョリ族の子どもたちが学んでいる学校。だから生徒はみんな生まれたときから銃声の中で育ち、現在は家や家庭や家族を失い、衛生的にも治安的にも劣悪な環境の中、政府軍の保護と国連の援助に頼って暮している。
子どもたちは「世界の人はこれがアフリカの日常だと思っているけど、そうじゃないっていいたい」と語る。確かに、アフリカを知らないぐりも、ぎっしりと密集した避難小屋に住み、WFPのトラックの後ろに並んで食物を配られているアフリカ人たちの姿を、無意識に一種の日常の風景としてとらえている。でも当事者にしてみれば冗談じゃない、こんなもの日常だなんていわれたくない、というのが本音だろう。彼らの求める日常は自分の土地を耕作して自立した生活を営むことであって、現状は身の安全を確保するためにやむを得ず受け入れざるを得ない、その場しのぎの現実でしかない。
だからパトンゴ小学校の子どもたちは、ただ好きで歌ったり踊ったりしているわけではない。筆舌に尽くし難いほど悲惨な経験で深く傷ついた心を癒すために、彼らは歌い、踊る。虐げられ全てを奪われた民族の誇りを取り戻すために、歌い、踊るのだ。
映像がとにかく美しい。空はあくまでも青く、大地は血のように赤く、草木はあざやかな緑色をしたたらせる。チョコレート色のつやつやした肌に、真珠のように真っ白い歯をした彫像のように美しい子どもたち。カメラはウガンダという国の美しさを存分にたっぷりと切りとっている。芸術的だ。それだけに彼らの置かれた苛酷な状況が鋭く胸に突き刺さる。
この映画はできれば一般公開してほしいですね。できるだけ多くの人が観るべき作品だと思います。
ウガンダ北部の子どもたちへの支援についての情報はこちらまで。