ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百々のみちびき 円通寺。

2020年11月12日 | 日本の百々巡り。

岡山県倉敷市玉島にある円通寺を参詣。





円通寺の美しい境内、円通寺公園からの美しい景色、良寛さんが修行した曹洞宗の禅寺として観光地化しています。





良寛さんが修行されていた頃の円通寺は、柏島という小さな離島にありました。



倉敷市街地方向のこの界隈は、すべて海の中でした。

小舟で行き交うという交通不便だったという印象は、間違いです。

江戸時代には、舟というのは現代の車以上の移動手段としての価値がありました。

良寛さんの修行の地という事で、全国的にも有名な円通寺です。



昨年の同時期に、良寛さんの故郷越後(新潟県)まで足を伸ばしました。

玉島の円通寺、ここは、良寛さんにとって厳しい修業の地であったと伝えます。

僕のような俗な人間の感想として、良寛さん、ここは、心のパラダイス、桃源郷、極楽のような、今で言うならば、海外遊学、ハワイで暮らしているような修業感覚だったのではと想像しています。

良寛さんの懐かしい故郷出雲崎は、目の前は日本海、うっすらと大きな島影の佐渡島、冬には毎日鉛色の空模様、雪吹雪、荒々しい風、浪の音・・・良寛さんの心象風景です。

それに比べて、玉島の風景は、別世界、日々晴れ渡り、瀬戸内海はさざ波が輝いて、小さな島があちらこちらに浮かんで、その間を小舟が行き交う・・・良寛さんの異なる心象風景です。



良寛さん、22歳から34歳ぐらいまで、この円通寺での長い修業期間の身であったこと。

ほんとうは、玉島で、もっと長く暮らしたかったのではないかなぁ?

されど、良寛さんは、美しい風景の中での生活、暮らしを営むにも、不公平、不幸な人間が多く暮らしている矛盾、現実を、仏僧、禅師、和尚として身に沁みたのではないのかなぁ?

真面目に生きても変えられない身分差別、お墓、戒名まで異なる仏の世界でした。

良寛さんは、円通寺での悟ったこと書き遺しています。

自来円通寺
幾度経冬春
・・・・・
  ・
・・・・・
僧可可清貧

良寛さんの自戒の根本は、「清貧」であるべきだとして、生涯貫いたのです。

円通寺住職であり師である大忍国仙和尚を、後年、弟子であったことを誇りとしました。

師である国仙和尚の死の翌年、良寛さんは、諸国行脚ののち、故郷の越後に戻ります。

因みに、良寛さんは、百々という地名に懐かしさを覚えたかもしれません。

玉島の百々の近くは、春になれば今も「桃の花」が広がる美しい樹園が広がります。

玉島六島だった江戸時代は、どうだったのかなぁ?

良寛さんの故郷越後にも、百々という地域があるのです。

現在の上越市、妙高市にあり、今は上百々、下百々となっていますが、何故か、良寛さんの晩年の愛弟子貞心尼を連想します。

良寛さんの越後での後半生、彼の心の支えは、瀬戸内海の風景、国仙和尚の教え、そして「清貧」、そして、貞心尼との交流だったと思います。



去年痴僧今又来

袖裏 毬子値千金

一二三四五六七

良寛さんと童の遊んでいる声が聞こえてくるような気がしました。

良寛さんは知っているのです。

貧しい村の子らは、売られていくということを。

良寛さんは、円通寺で号「大愚」を授けられました。

桃花如霞挟岸発

今、大愚良寛禅師は、禅寺ではなくて念仏寺で眠っています。

曹洞宗大本山永平寺のある越前(福井県)の国を語ることを避けた良寛さん。

始まりは越後から、良寛さんに導かれた僕の百々巡りです。

備中玉島円通寺の宿泊施設良寛荘からの風景です。



良寛さん、越後も越前も、備中も備後もええ所です。