ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

信州木曾の百島。

2011年06月07日 | 日本の百々巡り。

ビジネスチャンスに繋がるプランを提供することもある。

小生の趣味でもあり道楽でもある。

さっきまで、もっと簡単に脱着できる寝たっきり老人のオムツができるはず・・と自分なりのイメージとデザインを創造しながらテレビを観ていると、郷土愛溢れる信州長野の松本市の方が、テレビの向こう側でおしゃっていた。

「どうぞ、松本を愛してください。お願いします」と涙ながらに伝えていた。(凄い!)

以前、愛知県出身の民放アナウンサーが、「愛知県の形を見るだけ、私は涙がでるぐらい興奮します」と郷土愛を表現していたかな。(笑)

小生は、・・「百」と言う字が、非常に気にかかるのである。

だから、地名に百島という名を考え、名付けた方は、素晴らしいと思うのである。

ところで、信州長野県のほとんどの方々は、長野県民歌を歌える。

個人的な経歴であるが、今まで出会った長野の方々には、そんな悪い思い出もない。

逆に、親切で好い思い出を残してくれた方が多いのである。

信州には、個人的には、たくさんの思い出がありすぎるぐらい・・ある。

その中で、今回は、信州の百島を訪問した時に感じたものを書き留めておく。

長野県木曽郡木曽町日義(旧日義村)に百島(ももじま)がある。

日義という地名は、朝日将軍の名で知られる木曾義仲が、平家討伐の挙兵をした旗揚げの地である。

そこで、朝日の「日」と義仲の「義」を合わせて、日義という地名となった。

近くには、雄大な木曾の御岳山に、中央アルプス、木曾駒ケ岳もある。

さて、その日義村の百島地区に立ち寄って、そこに暮らす方に百島の名の由来等を尋ねたことがある。

残念ながら、どなたからもこれと言った答えがなかった。

百島の界隈には、木曾義仲一族の菩提寺 徳音寺もあり、資料館(義仲館)もあった。

(余談となるが、義仲(よしなか)の墓は、滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)という小さな寺にある。その隣りには、俳聖の松尾芭蕉が眠る。木曾義仲と同時代に生きた西行を慕い、五百年の歳月を隔てて「奥の細道」を歩いた芭蕉の最期の地が、義仲の隣に眠ることであったのである。小生の疑問は、西行は義仲を嫌っていた・・それを芭蕉は十二分に知っていたはずのだが・・奥の細道のどこかで木曾義仲に己を映す憐れみを覚えたのだろうか?)

その義仲館に入いると、木曾一族二十代に渡る資料年表と地図があった。

百島の裏手方向に「向山」という地名がある。

そして、木曾一族の中の誰かが、瀬戸内海方面に落ち延びたという記録もある。

向山と百島の位置が、尾道の向島と百島の位置関係と似ている。

おまけに、尾道の向島には、案外と「木曾」という苗字の方が多いのである・・ちょっと不思議な話ではないだろうか?

(また余談となるが、大阪の西淀川区百島界隈もそうだが・・加島やら歌島(向島の旧名)とかの地名もある。)

信州木曾の百島を訪問した当日、偶然に「木曾学会」に、これから出席するという方々と出くわして、「一緒に行かないか?」と誘われた記憶がある。

花桃、次郎柿を教えてくれたのは、木曽路の方であった。



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