俘虜の生活と言っても、敗戦の兵としての扱われ方が良かったなのかもしれない。
ましてや、私は高熱の病におかされて苦しい時もあったが、「災いが転じて福」となった。
自分勝手な言い分かもしれないが、強い運勢に助けられたと思うのである。
そんな事を思うと、何とか生き延びてこられたのが不思議なのである。
そんな頃である。
或る現地人が、戦争中に日本軍のお陰で、事業が成功した恩返しにと・・タピオカ芋を植えた大きな畑を、そのまま私達俘虜に提供してくれたのである。
各部隊は大喜びで、交代で掘りに行くように決めた。
タピオカ芋は、日本の桑の木のようにみえ、その根は山芋に似ているが、中身は全く違って白く、蒸して食べれば、とても美味く、主食代わりにもなった。
それ以後、食べることにも困らず、皆から大変喜ばれたのである。
その頃は、まだ敗戦の惨めさの中では帰国のことなど、ある程度の諦めもあったことは事実である。
しかし、その後何ヶ月か過ぎた頃に部隊からの通達があった。
「アメリカの復員船リバテーの乗組員を募集するので、応募する者は誰かいないか?」と聞かれたのである。
私は、早速、希望して書類に必要事項を記載して提出した。
あとで分かった事であるが、その時のリバテーの船員募集の理由と目的の本位は、乗組員の募集ではなく、一人でも多く復員させるためであったらしい。
私が、元船員であった事は、誰もが知っていたし、部隊内では、他に船員の経験者は誰もいなかった。
そこで病気等も考慮されて、私が一番適当だということになったのであろう。
部隊の中で、私一人だけが採用される事になったのである。
ましてや、私は高熱の病におかされて苦しい時もあったが、「災いが転じて福」となった。
自分勝手な言い分かもしれないが、強い運勢に助けられたと思うのである。
そんな事を思うと、何とか生き延びてこられたのが不思議なのである。
そんな頃である。
或る現地人が、戦争中に日本軍のお陰で、事業が成功した恩返しにと・・タピオカ芋を植えた大きな畑を、そのまま私達俘虜に提供してくれたのである。
各部隊は大喜びで、交代で掘りに行くように決めた。
タピオカ芋は、日本の桑の木のようにみえ、その根は山芋に似ているが、中身は全く違って白く、蒸して食べれば、とても美味く、主食代わりにもなった。
それ以後、食べることにも困らず、皆から大変喜ばれたのである。
その頃は、まだ敗戦の惨めさの中では帰国のことなど、ある程度の諦めもあったことは事実である。
しかし、その後何ヶ月か過ぎた頃に部隊からの通達があった。
「アメリカの復員船リバテーの乗組員を募集するので、応募する者は誰かいないか?」と聞かれたのである。
私は、早速、希望して書類に必要事項を記載して提出した。
あとで分かった事であるが、その時のリバテーの船員募集の理由と目的の本位は、乗組員の募集ではなく、一人でも多く復員させるためであったらしい。
私が、元船員であった事は、誰もが知っていたし、部隊内では、他に船員の経験者は誰もいなかった。
そこで病気等も考慮されて、私が一番適当だということになったのであろう。
部隊の中で、私一人だけが採用される事になったのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます