ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

少年時代 5 ~出稼ぎ~

2010年05月17日 | 人生航海
火災で家を失い、また一から出直しになったので、両親は、それまでよりも一層仕事に専念しました。

母の魚の行商は、毎日多忙となって、父もまた、遠方まで買い付けに行くことになり、私も時々一緒について行きました。

魚が多い時は、島内では全部売り切れないと判断して、舟底のイケスで生かして置くこともありました。

母が売り歩いて帰ったあと、翌朝の夜明けを待って、父が潮の流れを見計らい、尾道の魚市場に朝一番で間に合うように、三人で櫓を漕いで行ったこともありました。

その頃の我が家は、祖父母と両親と子供四人の八人暮らしなので、窮屈な生活でも皆が辛抱していました。

祖父は、まだ元気でガゼ網という地引網漁をして、年寄り子供相手の僅かな収入の仕事でしたが、いつまでも続けていました。

時々、サイ分けとか言って、捕った魚を全部皆で山分けにして、皆から喜ばれていました。

当時の百島の大半の人達が、生活のため一生懸命がんばっていました。

衣食住にも不自由なぐらい貧しかったのです。

洗濯も十分出来ず、お風呂は貰い湯で毎日入ることもできず、そのうえ一軒のお風呂に何十人も入ったので、あとの人は湯は少なく白く濁っていました。

水を入れて沸かす焚き木さえ乏しくて、勝手に焚いてお風呂に入ることも出来ませんでした。

そんな不自由で不衛生な生活をしながら、よく生き延びてきたものだと今更ながら不思議に思います。

あんな環境では、多くの子供たちが、小さい頃に亡くなったのも当然の帰結かもしれないと考えるのです。

いづれにしても、この島の習慣として、小学生になれば家の手伝いは当然です。
六年生の夏休みともなれば、福山市の沖合いにある走島や香川県の伊吹島まで出稼ぎにゆき、鰯網の櫓漕ぎに雇われて働かされました。

私は、学校を休んで大阪湾のスズキ網の飯炊きとして雇われて働いたこともありました。

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