つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

渋沢栄一と大阪紡績設立と大日本帝国政府

2024-07-03 09:57:18 | 渋沢栄一

 安倍・菅自公政権が圧力をかけた結果であろう、NHKが政権の意に応じるように「大河ドラマ」で「日本資本主義の父」として絶賛し美化すべき人物像に創作して取り上げ国民にそれを植えつけ(洗脳)ようとしていると思われる渋沢栄一という人物ついて少し紹介したい。神聖天皇主権大日本帝国政府は、殖産興業政策において、綿紡績業に対してどのように対処したのだろうか。棉から綿糸をつくる綿紡績業は、1877年に東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会臥雲辰致(がうんたつむね)が出品した綿紡機(ガラ紡機)が「本会第一」と評判となり、当時は特許法が制定されていなかった事もあり、各地に模造品が現れ大いに普及した。政府は愛知や広島に官営模範工場をつくるとともに、民間の政商に融資した。渋沢栄一政府から融資を受けるとともに、華族の所有公債や大商人の出資により、1883年には蒸気機関で動く1万500錘の紡績機械英国から輸入し、日本初の採算のとれる大紡績工場「大阪紡績会社」を大阪三軒家に設立したのである。86年以降は三重紡績なども続々と設けられ、90年の綿糸生産量は、輸入綿糸を超え、日清戦争後は中国向け輸出が激増し、97年には輸出量が輸入量を上回り、日本の産業革命の中核となった。しかし、この紡績業は製糸業とともに、年少の女工たちの低賃金で1日10数時間働かされる過酷な労働によって実行された。そして、大量の輸入艦船・機械類や外国人教師(官傭外国人・お雇い外国人)の外貨は、彼女たちにより賄われていたのである。単純に個人を英雄視したり美化すると、歴史を正しく理解できない。そして、渋沢栄一個人を賛美美化する歴史認識は、神聖天皇主権大日本帝国政府やそれに保護され政府を支えた政商や財閥などの側に偏った歴史認識であると言える。

(2021年3月12日投稿)

 

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殖産興業政策と渋沢栄一と大阪紡績会社

2024-07-03 09:54:48 | 渋沢栄一

 1874年末頃、神聖天皇主権大日本帝国政府の大久保利通内務卿は、殖産興業政策を推進していくうえで、三井・三菱を頂点とする「政商」への保護政策を打ち出した。そして、それら民間への融資を推進した。その融資先の状況を見ると、「銀行」については、高額順位第1位は三井銀行、第2位は第2国立銀行であるが、第3位には渋沢栄一頭取である「第1国立銀行」となっている。また、「会社」については、第1位は三菱会社、第3位は三井物産会社である。また、「個人」に対する融資については、第1位は五代友厚、第2位には渋沢栄一となっている。

 渋沢栄一が「大阪紡績会社」を起こした理由についてであるが、渋沢は当時の帝国日本が、綿糸輸入が急増するのを憂えており、綿糸布商・薩摩治兵衛らと相談し、大規模機械紡績工場の設立計画をつくった。そして、たまたまロンドンへ渡り経済学を学んでいた旧津和野藩士・山辺丈夫に紡績技術と経営を習得させた。

 1880年7月に帰国した山辺は、渋沢と相談し水車動力工場設立の適地を探したが見つからないため、1881年末に蒸気動力を利用する事に変更した。そして、渋沢らと同様に大規模機械紡績工場設立を計画していた、大阪の洋反物商・松本重太郎や長州藩奇兵隊出身の政商・藤田伝三郎らとが手を組む事となったのである。

 松本藤田の奔走で1882年3月には大阪木津川沿い三軒家の「官有地」の払い下げを獲得し、藤田組が工事を行い、翌1883年3月に設立がなった。資本金は28万円、頭取は藤田伝三郎、相談役は渋沢栄一、取締役は松本重太郎と第1国立銀行大阪支店・熊谷辰太郎が就いた。

 業務全般を統轄したのは山辺であり、英国から招いた技師ニードルにより輸入紡績機1万500錘が据え付けられ、1883年7月には操業開始に至った。

(2021年2月22日投稿)

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渋沢栄一と明治神宮と安倍・菅自公政権のたくらみ

2024-07-03 09:52:35 | 渋沢栄一

 明治神宮は2020年で創建100年を迎えた。安倍自公政権はその「神宮外苑」には「新国立競技場」を建設した。そして、予定通りに「東京五輪パラ」が実施できていれば、「明治神宮」もその祝典のようなものを実施していたであろうと考えて良いであろう。

 神聖天皇主権大日本帝国政府がどういう理由で明治神宮を建設したのかという事については別稿のカテゴリー「明治神宮」「明治神宮と神宮外苑競技場(新国立競技場の前身)の建設は天皇崇拝と天皇制国家への忠誠(国家神道)の普及」を参照してください。この稿ではそこに書かなかった事を紹介します。それは明治神宮と渋沢栄一との関係についてです。渋沢については今年2021年2月からNHK大河ドラマが主役に取り上げ、新1万円札にも登場する事になっていますが、なぜ今なのかという事の答えにもなる事です。

 明治天皇は1912年7月29日夜(公式発表は30日未明)に死去したのですが、その直後から、渋沢栄一筆頭として東京の政財界では「天皇陵」を東京に設ける事を目標とする運動が起こりました。しかし、しばらくして帝国政府宮内省は陵墓を京都伏見」に設ける事を発表しました。それをきっかけに、渋沢は明治神宮東京建設主導していく事になるのである。

 しかし面白い事に渋沢は、元々神社は嫌いだったようである。神社仏閣に祈るという行為を「迷信」として忌避していたようである。そういう事情から、渋沢がこだわりをもって関わり続けたのは、近代的な施設が集まる「外苑」であった。つまり、渋沢は、「天皇皇室は尊崇したが、神社は重視しなかった」のである。しかし、帝国政府によるその後の国民への国家神道洗脳の強化により、渋沢のような意識を有する国民は「非国民」として扱われていったのである。

 また、渋沢は日米友好を願っていたのか、彼が死去する前年の1930年に、明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館に、1879年8月に来日した米国グラント将軍(第18代大統領。沖縄領有問題調停で清国と日本帝国に2分割案提示)が明治天皇と会見した時の模様を描いた壁画、表題「グラント将軍と御対談の図」を奉納している。

 しかし、友好を願っていたとすれば渋沢にとって皮肉な事であるが、彼が推進し帝国日本政府が建設した神宮外苑競技場において、1943年10月21日、東条英機政府が学徒出陣壮行会を実施する場として使用する事になるのである。

 安倍自公政権が、何があっても東京五輪パラを実施しようとした背景や菅自公政権がそれを継承し、一年延期はしたものの今年こそは何があっても実施しようとしている背景には、上記の「明治神宮創建100年」を記念する式典を実施し明治神宮の存在を国民の頭に刷り込む事と、渋沢栄一がその建設を主導したとして讃美するとともに、日本の資本主義の基礎作りに貢献したと一面的な評価正当化讃美して国民を洗脳する事を狙っているからである。歴史認識を彼らにとって都合の良いように書き換え(歴史修正主義)ようとしているのである。

(2021年2月19日投稿)

 

 

 

 

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