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サイケおやじの生活と音楽

The Beatles Get Back To Let It Be:其の弐

2020-08-23 19:30:04 | Beatles

ビートルズという人類の歴史の中にあって、未だ解明されていない多くの謎の中でも、通称「ゲット・バック・セッション」から「レット・イット・ビー」への流れこそは、残された資料の夥しさゆえに、何時までも答えの出ない証明問題かもしれません。

それでも、その発端を考察すれば、どこまでも遡る事は可能ですが、ここでは1968年5月の「アップル・コア」の設立発表と「ホワイト・アルバム」の製作開始という時点から話を進めたいと思います。

で、「アップル・コア」は簡単に言えばビートルズ自身の会社であり、自分達のやりたい事を自分達でやるという発想の元にスタートした、つまり現代でいうインディの発想だったと思います。

これには彼等の育ての親ともいうべきマネージャーのブライアン・エプスタインが、前年の夏に死去している事を抜きには語れない部分があり、案の定、纏め役がいないくせに「資金」と「顔」だけはあるという事から、ビジネスとしては成り立たない部分も多く、結果的にビートルズの足枷となりました。

それは同時期に開始されたレコーディング・セッションにも影響したのでしょうか、様々な意味で纏まりが無く、11月に「ホワイト・アルバム」として発表される事になるその内容は、ほとんどが彼等ひとりひとりの音楽的嗜好を反映させた曲の寄せ集めでした。

しかし、それらはスタジオ・テクノロジーを極限まで活用した「リボルバー」や「サージェント・ペパーズ」等々でこれまでに発表されていた楽曲とは違い、生演奏が可能であるところから、セッションも後半に入った頃、このアルバムの発表とタイミングを合わせて巡業コンサートを行うという企画が持ち上がってきます。

その言い出しっぺはポールと言われておりますが、その理由は「ファンを大切に」とは言うものの、「アップル・コア」の運営を軌道に乗せるための経済的理由もあった事は容易に推察出来るところです。

しかし、この巡業は他のメンバーに反対され、1回限りのライブギグならば良しとする妥協案が示されます。

こうして、そのコンサートは11月中旬にアメリカで行われ、その模様はビデオ撮りのライブショウ番組としてテレビ放映するという大まかな計画が発表されますが、結局それは諸々の事情から中止となり、テレビ放送の企画だけが残ります。

すると、ここで再びポールの提案により、スタジオに少数の観客を入れたテレビ放送用のライブショウ番組を作る事が決定されますが、これはおそらく、その年の12月3日に全米で放送され、70%以上という驚異的な視聴率をあげたエルビス・プレスリーの8年ぶりとなったテレビショウ、通称「カムバック・スペシャル」の影響を受けての事と思われます。あるいは最終的にはお蔵入りしましたが、ローリング・ストーンズが主導し、ジョンも参加して同時期に製作されたテレビショウ「ロックン・ロール・サーカス」を意識していたのかもしれません。

そして起用された監督がマイケル・リンゼイ=ホッグ、製作はアップル・フィルム、そしてそのスチールから写真集を作るのがアップル出版という布陣が整い、番組本編に付随してそのメイキングというか、ドキュメント映画(?)とライブショウを収めたアルバムの製作も決定され、ようやく1969年1月2日からトゥイッケンナム・フイルム・スタジオでリハーサルが開始されました。

もちろんそれが撮影されていったのは言わずもがなです。いや、むしろ撮影のためのリハーサルというべきでしょうか。

つまりビートルズの音楽制作を記録したドキュメント映像という狙いが、既に実行されていたのです。

しかしこれは、後にそこから編集された映画「レット・イット・ビー」を見ても明らかな様に、ポール以外のメンバーは完全にやる気が無く、演奏された古いロックンロール曲や彼等自身の新曲もダラダラと纏まりの無いものでした。

そしてその挙句、ポールとジョージが喧嘩となり、ジョージは1月10日にビートルズを辞めると言い置いてスタジオから姿を消しますが、彼にしてみれば、いちいち指図するポールの強制的なアドバイスに若気の至りが出てしまったのかもしれません。

このあたりの状況は映画でもしっかり映し出されておりました。

で、こうして1月18日頃に放送予定だったライブショウ番組はまたまた頓挫……。

その善後策を協議するため、1月12日にリンゴの家で緊急のミーティングが行われ、そこにはジョージも参加、ポールが一応詫びを入れ、企画の練り直しが討論されたと言われております。

そしてここでは、それまでに企画されていた北アフリカでのライブパフォーマンス、さらにはライブショウ番組の中止も決定されますが、テレビ番組そのものは製作が続行される事となり、前述したトゥイッケンナム・フイルム・スタジオでのリハーサルを1月16日で切り上げ、場所を新設中のアップル・スタジオに移してセッションを続け、最終的に1時間半位のフィルムを仕上げる事に話が纏まります。

それはこの当時としては珍しく、メンバー4人の意見が一致した瞬間だったと言われており、今では伝説化した歴史のひとコマなのでした。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
 「ビートルズ・アンソロジー・3 / 付属解説書」

注:本稿は、2003年9月20日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。