さて、こうして続行が決まったセッションは1月20日からアップル本社の地下に新設されたアップル・スタジオで再会される運びとなりましたが、ここでまたしてもトラブルが発生します。
それはアップル・スタジオの設備が全く使い物にならないという驚愕の事実でした。
その責任者はマジック・アレックスというビートルズの親しい友人で、その分野ではかなりの実力者だったと云われておりますが、アップル・コアの子会社であるアップル・エレクトロニクスの経営者に納まった彼は、そのスタジオを夢の様な設備にすると豪語!?
大金を使い放題につぎ込んでいたのに、出来上がっていたのはガラクタ同様……。あわてたスタッフは急遽アビイ・ロード・スタジオから機材を運び込むハメとなります。そしてどうにかセッション再開にこぎつけたのが1月22日のことでした。
当時はこんな金喰い虫が彼等の周りには大勢いたのではないでしょうか……。
で、レット・イット・ビー・セッションの正式な録音はこの時点からスタートする事になりますが、それではこれ以前の関連音源は何かと言えば、撮影していたフィルムのシンクロ音声トラックであり、そこから正規盤に使用されたのは短いお喋りの一言だけでした。
ただし後年、この音源は夥しい数の海賊盤として世に出る事になります。
また、アップル・スタジオ・セッションは一応ジョージ・マーティンがプロデューサーという事になっておりますが、実際の現場を仕切っていたのは録音エンジニアのグリン・ジョンズだった様です。
このあたりはビートルズが自分達の会社を持ち、原盤製作の主導権を得た事やジョージ・マーティンがEMIから独立して別会社を経営していた事、そして後々詳しく記述しますが、グリン・ジョンズがフリーの立場で実績を上げていた事等々、当時の状況が複雑に絡まった結果と推察しております。
そしてそれが後々、事態を尚更に混迷させていったのは言わずもがな、肝心のレコーディングと撮影は、以前の方針、つまりライブショウ仕立を貫くためにオーバーダビング等を排除した生演奏形式に拘ったために、そのサウンドの薄さを懸念したジョージ・マーティンの進言により、キーボード奏者を入れる事になり、そこで起用されたのがビリー・プレストンでした。
彼はアメリカの黒人プレイヤーでしたが、ビートルズが駆け出し時代の1962年にハンブルグへ巡業に行った際、リトル・リチャードのバンドメンバーとして当地を訪れていたという旧知の仲でした。そしてその日、つまり1月22日、偶然にもアップル本社のロビーでジョージと再会し、セッションに加わる事になったそうですが、それにしても彼が何の用事でそこに現れたのか、この謎は解けているのでしょうか?
この当時のビリー・プレストンは、世界的には無名でしたが、アメリカの音楽業界では大変な実力者として認められており、ナット・キング・コール、サム・クック、レイ・チャールズ等々の大物歌手やテレビショウのバックバンドで活躍しており、その音楽性はゴスペル、ジャズ、R&Bだけでは無く、広くポップス全体を包括するものでした。
その彼が参加した事により刺激を受けたのか、ようやくセッションも本調子!
1月終盤には多くの楽曲が完成形に近いものに仕上がり、このあたりの現場の雰囲気は映画「レット・イット・ビー」や映像版「アンソロジー」で観る事が出来る様に、メンバー全員がプロ意識に目覚めたというよりも、ビリー・プレストンという才能豊かな他人を前にしてバンドの恥を晒さない様にしていたと、サイケおやじには感じられますし、音楽的にも随所に聴かれるツボを外さないアクセントや彩りを添える大活躍!
その功績からか、彼はこの後にアップルから素晴らしい2枚のアルバムをリリースする事が出来ました。特に1枚目の「神の掟」はなかなかジェントルなソウル・アルバムです。またビートルズと共演したという事で、漸くにして彼の知名度は、その実力に追いつくほど大きく上がり、1973~1977年にかけてはローリング・ストーンズをサポートしてその音楽性をファンキーなものに大転換させるという黒幕となり、自分自身でも多くのヒット曲を連発していきます。
一方、映像の撮影も快調!
その責任者であるマイケル・リンゼイ=ホッグは以前にビートルズのシングル盤「ペイバーバック・ライター」のプロモーション・フィルムを手がけ、好評を得ていたので、メンバーからの信頼があったのかもしれません。
そしてついに、この企画のハイライトになったアイディアを実行に移します。
もちろん、それはアップル本社ビルの屋上で行われた、真昼のライブセッションでした。
これは元々、聴衆を前にして演奏したいというポールの意向を汲んでの目論見であり、しかも屋上ならばファンからは隔離されているという環境なので、他のメンバーも同意するに違いないというヨミがあったと思われますが、案の定、これにはジョンも乗り気で、反対するジョージとリンゴを説得した様です。
ちなみにアップル本社ビルはロンドンのサビル・ロウ3番地にあり、ここは日本でいえば東京・丸の内みたいな場所です。サイケおやじは以前、現場に行ったことがありますが、丸の内の路地裏みたいな雰囲気で、映画で観ていたよりも道幅の狭いところでしたので、そんな場所で真昼間にビートルズが演奏するなんてのは、音は聞こえるが、姿は見えないというヒネクレタ大サービスでしょう。
う~ん、如何にもジョンが好みそうで、マイケル・リンゼイ=ホッグ監督のお膳立ての上手さが光ります。
そして当日は今や歴史となった、1969年1月30日!
早朝から準備は入念に進められます。屋上にはカメラが5台設置され、また周辺の建物や道路にも撮影班が配置されました。録音には地下のアップル・スタジオの機材が使用されることになり、当日は強風のためにそのマイク設定には相当な時間がかかった様です。
こうして全ての準備が整った時、ロンドン市街は昼飯時、そこでいよいよビートルズ最後のライブパフォーマンスが始まるのでした。
【参考文献】
「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」
注:本稿は、2003年9月21日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。