OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

全てがザ・ピーナッツのハーモニー

2012-06-28 15:15:42 | 歌謡曲

大阪の女 / ザ・ピーナッツ (キングレコード)

昨日、ザ・ピーナッツの姉=伊藤エミの訃報に接し、またひとつ、日本が本当に元気のあった時代の終焉を感じました。

言うまでもなく双子の美人姉妹であった伊藤エミとユミはザ・ピーナッツとして、我国芸能界のポップス系歌謡部門に大きく貢献した事は永遠に不滅!

とにかくナチュラルなハーモニーの魔法を駆使した音楽的魅力は、まさに双子ならではの特性なんでしょうが、追従した多くの双子歌手の何れもが、失礼ながらザ・ピーナッツの実績や存在に及ばなかったのは、やはりエミとユミの音楽性の高さと共に、そのキャラクターの素晴らしさも忘れられないところです。

それはサイケおやじと同世代の皆様ならば、特に東宝特撮作品「モスラ」に出演した小美人役が絶対であり、劇中で歌った「モスラの歌」こそが、ザ・ピーナッツ最大のヒット曲と断言される事も必然性があるほどです。

また、テレビではバラエティ系の音楽番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」におけるレギュラーとしての活躍が、子供心にもスタア性と親しみ易さの両面において、これまた絶対的な印象になっていると思います。

特に後者の中の名物コント――

 おとっつあん、お粥ができたわよ

――という台詞のハーモニーは、すっかり刷り込まれているんですねぇ~♪

そして肝心の音楽面の活動としては説明不要、デビュー曲と思われる「可愛い花」から和製ポップス確立への貢献はもちろんの事、歌謡ポップスの先駆けともいえる「ふりむかないで」から「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」、そして「恋のフーガ」等々、のど自慢やカラオケの定番になっている楽曲の他にも、挙げたらキリがありません♪♪~♪

もちろんその間には多種多様なカパー曲、童謡や民謡のアレンジ曲、極めて正統派に接近した演歌調の曲まで、全てがザ・ピーナッツだけのハーモニー感覚で歌われていたのですから、その一貫性は恐るべき領域!?

例えば本日掲載した「大阪の女」は昭和45(1970)年秋のヒット曲なんですが、作詞:橋本淳、作曲:中村泰士、そして編曲:森岡賢一郎という制作陣が、どの程度「演歌」を意識していたかは知る由がなくとも、極めてそれに近い味わいを狙っていた状況は明らかでありながら、そこは流石にザ・ピーナッツが本領発揮!

ここまで洋風の歌謡演歌が披露されてしまえば、以降に数多作られた同系歌謡曲への影響は絶大と思うばかりですし、サイケおやじは、この歌が好きでたまらず、恥ずかしながらカラオケで歌ってしまう事もあるんですよ。

ちなみにザ・ピーナッツは普通、姉のエミがハーモニー、妹のユミがリードを歌うことが多いようですが、カラオケではきっちりハーモニーのパートが入ったバージョンもあるんで、何か良い雰囲気のデュエットをやっているジコマン天国に誘われてしまうのも嬉しいところ♪♪~♪

ですから我国以外でも熱心なファンが多く、特にドイツでは圧倒的な人気があるんですよ!

これは実際、1990年代に当地へ赴くことが多かったサイケおやじが体験した異国の文化であって、その頃の日本では入手不可能とさえ思われていた音源が復刻されていたり、また仕事関係で知り合ったドイツ人からザ・ピーナッツの日本盤レコードや復刻CDを探してくれるように頼まれた事が何度もあるほどです。

そしてもちろん、ドイツでも前述した「モスラの歌」は大人気♪

レコードの他にもザ・ピーナッツが出演した特撮作品のポスターまでも集めているファンが夥しい現実は驚異でもあり、少し前には膨大な音源を集成した欧州盤CDも発売されていましたですねぇ~♪

ということで、何かあまりにも存在が普通に偉大すぎる感が強いザ・ピーナッですが、彼女達のようなスタアは二度と現れない気がしています。

それは双子云々とは別に、時代のムードと求められるものが一致した時のエネルギーが、ザ・ピーナッツという稀有のタレントの登場を促したが如き勢い、そうしたものが今は感じられないからであって、とすれば彼女達が引退後に全く芸能界と関係を断ち切った生活をしていたのも納得されるのです。

報じられた伊藤エミの訃報にしても、既に過去形であった事が、せつなくもあり、またそれが正解と思うほど……。

伊藤エミ、安らかに……。

そしてザ・ピーナッツ、永遠なれ!

合掌。

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5 コメント

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こちらは元気満々! (名無しの権平)
2016-07-11 17:58:07
今でも“こまどり姉妹”は現役ですね!精魂たくましや

並木栄子(長内栄子、1938年2月16日 - 、双子の姉)
並木葉子(長内敏子、1938年2月16日 - 、双子の妹)
経歴[編集]1938年(昭和13年)2月16日、北海道厚岸郡厚岸町で炭鉱労働者をしている父親の双子として生まれた。家族は、その後樺太へ渡り、敗戦まで樺太で育つ。

太平洋戦争後は、極貧生活の中、帯広市や釧路市の炭坑町を転々とし、銭函でついに家賃が払えなくなり夜逃げ。大楽毛に移り住み、ここで姉妹は日銭を稼ぐために門付を始めた。

1951年(昭和26年)上京。東京都山谷の木賃宿に住み、父親に連れられ、三味線を片手に台東区浅草の飲食街を流すようになる。その頃スカウトを受け、1959年(昭和34年)、コロムビアに入社し「浅草姉妹」でデビュー。デビュー曲は当初「三味線姉妹」であったが、浅草を流していたという経歴から「浅草姉妹」へ変更となった。またデビュー当時の芸名は「並木栄子 並木葉子」だったがまもなく新たな芸名を一般公募、2人の意思で「こまどり姉妹」という名が選ばれた。

愛称は「演歌版ザ・ピーナッツ」。同じ双子のザ・ピーナッツとの交流は歌謡ジャンルが違っていたものの公私共に盛んであった。1960年(昭和35年)には、ザ・ピーナッツが「こまどりジョッキー」という番組の構成、出演を行っている。ただし、こまどり姉妹の方がザ・ピーナッツより3歳上である。

“こまどり姉妹”A面 恋の風車 B面 一人ぽっちの二人
珍しく洋装姿のジャケがなかなかセクシー、ロングヘアーも

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シャボン玉の終焉 (サイケおやじ)
2013-10-25 12:07:08
☆プレイボール様
コメント感謝です。

当時の渡辺プロはテレビ番組の制作も積極的にやっていて、しかし特に日本テレビとの関係が拗れ始めた時期だったと言われています。
マンネリもあった事は長寿番組の宿命ですが、現場の問題が大きいと思いますねぇ……。

日本テレビの資料保存は未整理常態で、それは他の番組でも同様と推察しております。
今後の期待は捨てていません。
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Unknown (プレイボール)
2013-10-25 08:44:15
いいともが終了発表した時各方面で衝撃が走りましたがシャボン玉終了発表時もかなり衝撃が走ったんではないでしょうか?サザエさんやヤングおーおーにかなり苦戦していて井上順をメインにした最末期も功を泰しなかったのが残念でならないです。もう少しVTRを日テレには保管して欲しかったですね。数本程度残ってるときいてますが実際の数はどうなんでしょうか
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日本に希望があった頃 (サイケおやじ)
2012-06-29 07:42:41
☆TK様
コメントありがとうございます。

まさにプロレスとシャボン玉は昭和元禄の象徴のひとつでしょうねぇ。外国や外人に負けずに立ち向かっていた当時の日本と国民は、凶悪な外人レスラーをやっつけ、洋楽ポップスを歌いまくる日本人スタアに夢と希望を与えられましたから!

モスラも双子が生まれるというのは、上手かったですねぇ~♪
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Unknown (TK)
2012-06-28 18:39:50
物心ついた時に見ていて一番記憶に残っているのがプロレスとシャボン玉ホリデーです。
最後の植木等との絡みとか。
親に連れられてモスラの映画も行ったな~

モスラの卵を返して下さい!

寂しいですね
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