■Can The Can / Suzi Quatro (RAK / 東芝)
女にロックはできねぇ~~!
それが未だ信じられていた1973年、デビューしたイギリスや欧州はもちろんの事、我国でも突発的に大ブレイクしたのがスージー・クアトロでした。
なにしろルックスがイケてる彼女の基本的なコスチュームはレザーや銀ラメのジャンプスーツでしたし、女だてらにベースを弾きならが、メリハリの効いた歌い回しでキャッチーなハードロックをシャウトしていたんですから、現代用語を使って表現すれば、青春の血が滾っていている野郎どもは忽ちにして、萌え萌~え♪♪~♪
しかも日本のレコード会社は彼女を売り出すキャッチフレーズとして、「背徳のサディスティック・ロック!!」とまで持ち上げていたのですからねぇ~♪
そして思惑通り、我国でのデビュー曲となった本日ご紹介の「Can The Can」は大ヒットし、以降に続く人気沸騰を一発で決めてしまった事は、皆様がご存じのとおりです。
まあ、このあたりは完全に制作者側の企画の勝利というポイントが後に知れるわけで、スージー・クアトロ本人はアメリカ人であり、姉妹でやっていたセミプロのファミリーバンドで歌っているところを偶然にもイギリスの敏腕プロデューサーだったミッキー・モストに発見されたことが、本格的なデビューのきっかけだったようです。
ただし、そのデビュー曲「Rolling Stone」はフォーク調のポップス曲で、後追いで聴いたサイケおやじにしても、全盛期のスージー・クアトロを思い浮かべる事は出来ません。
おそらくミッキー・モストは彼女のルックスと伸びのある声質に目をつけたのかもしれませんし、同時に「女にロックは云々」という迷信的常識(?)に拘っていたのかもしれません。
ただし、それが全くの不発だったことで逸早く方針転換を図り、ちょうど大ブームの真っ只中だったグラム&グリッターロック路線で彼女を売ろうとした目論見は流石!
これぞっ! ほとんど当時は常識外の企画であって、そのためにミッキー・モストはスージー・クアトロに「ロックな特訓」を強制し、また彼女も本気で取り組んだ結果が前述の大ブレイクだったようです。
実は告白すると、当時のサイケおやじは先輩から譲り受けたエレキベースを必至に練習していた頃でしたから、小生意気な毛唐女がっ!!
とバカにしていたのですが、このシングル曲を含む、友人が買ったデビューアルバム「サディスティックロックの女王 / Suzi Quatro」を聴いて仰天!?!
全く自らの不明を恥じ入るばかりに本物のハードでグラムなロックが演じられていたんですから、後は平身低頭、虚心坦懐に接する他はありません。
当然ながらラジオの洋楽番組ではスージー・クアトロが出すシングル曲が流れまくり、洋楽雑誌ばかりか、男性週刊誌のグラビアにまでも彼女が登場するほどの人気は圧倒的でした。
ちなみにその頃のエピソードとしては、例えば定番衣装のジャンプスーツは下着無しのネイキッドだとか、巡業用のバンドメンバーだったレン・タッキー(g,vo)、ブリトーンズ・マッケンジー(key,vo)、デイヴ・ノエル(ds,vo) は彼女の奴隷!? なぁ~んていう話が実しやかに伝えられていたんですから、たまりませんよねぇ~~♪ それは実際、掲載のジャケ写で虐げられている男達がバンドメンバー?? という妄想にも直結しますし、手堅い実力はあっても、不粋なルックスのバンドメンバーは、おそらく意図的に選ばれたという説も根強くありました。
そして、このあたりの現実は、後に彼女がレン・タッキーと結婚することで証明された部分ではありますが、それにしても作り込まれたプロジェクトを真剣に演じきったスージー・クアトロは、だからこそ本物のロッカーだったと思います。
なにしろ最近は伝記映画も話題のランナウェイズが、スージー・クアトロに触発されてロックを始めたという真相も明らかになっていますし、だとすれば今日のジェーン・ジェットの存在、あるいは我国のガールズやジューシー・フルーツも無かったことになるのですから、これは激ヤバ!!
そういえばスージー・クアトロの来日公演では、そのガールズが前座をやったこともあったと記憶しています。
ということで、今となってはミッキー・モストという偉大なブロデューサーの手腕に感服するほうが真っ当な評価かもしれませんが、現在でも立派に女ロッカーを演じているスージー・クアトロも流石だと思います。
なにしろサイケおやじは1990年代でしたが、ドイツで彼女のライプに接したことがあって、もちろんその時は中年のおぱちゃんになっていたわけですが、幾分ぶよぶよしてしまった身体をジャンプスーツに包み、堂々とベースを弾いてシャウトしまくっていた姿からは、全く迷いが感じられず、ちょいと感動したほどです。
その「堂々とした」っていう佇まいは、最初に大ブレイクした時から変わらぬ姿勢! それが凄いんですよねぇ~♪
しかし、そんな彼女も1975年頃からは母国アメリカのマーケットを意識しつつ、ポップロックに路線変更した事もあり、はっきり言えば落ち目の三度笠……。それでもライプの現場では満員が続いていたそうですし、来日公演も大盛況だった記憶は、リアルタイムで売れている外タレが普通は行かないような地方にまで巡業していた実態と相まって、それは今も鮮烈です。
最後になりましたが、スージー・クアトロを実際に担当していたプロデューサーは、前述したミッキー・モストの子分だったニッキー・チン&マイク・チャップマンのインスタント・バブルガム(?)コンビだったんですが、所謂ガキンチョ向けのロックを作らせたら、このふたりは絶妙!
例えばスウィートの「Funny Funny」は、その最初の成果と言われていますが、同時期のスージー・クアトロ以外にもマッドやスモーキー等々、覚え易い曲メロ&コーラスをハードなギターサウンドでやってしまう手法で売った実績は、リアルタイムでは軽く扱われていたんですが、今こそ評価されるべきじゃないでしょうか。
ご存じのとおり、このコンビは1970年代後半になるとプロンディやニック・ギルダー、さらには「My Sharona」の一発で歴史に名を刻んだナックまでもプロデュースしているんですからねぇ~~♪
そんなこんなも含めて、スージー・クアトロは、ちょいと悔しい気持も併せて、今も不滅だと思うばかりです。
卓逸な歌唱力のボーカリストで、ロックでもポップでも器用にこなせたのでしょうね。
以前紹介して下さった(違ってたらゴメンさない)「ママのファンキーロック」なんかも素晴らしい出来だと思います。
コメント、ありがとうございます。
仰るとおりですよっ!
彼女の成功の秘訣は、素直さじゃないかと思う時があります。
言いかえれば「芸能界どっぷり」という部分と自身の成功をバランス良くコントロール出来たんじゃないでしょうか。
「ママのファンキーロック」は文字通り、流行のファンクに挑んで結果を出した名唱でしたね♪