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サイケおやじの生活と音楽

The Beatles Get Back To Let It Be:其の拾参

2020-09-06 16:06:37 | Beatles

1970年3月の発売から忽ち世界中で大ヒットした「Let It be」により、なんとなく既定事実と思われていたビートルズの解散は???

そうした動きの中で、宙に浮いていた1969年1月のセッション・テープが、フィル・スペクターというプロデューサーに編集が依頼されたというニュースが流れます。

フィル・スペクター?

高名なプロデューサーというが、それは誰?

なぁ~んていうのが、当時のサイケおやじの偽りの無い感想でした。

今でこそ、それなりに彼の名前は良く知られておりますが、その頃の日本では、どのくらいの人が彼を認識していたのでしょうか?

そもそも「プロデューサー」という職業(?)の役割や仕事内容が、サイケおやじには理解出来ていませんでしたし、そんなふうに思っていたファンだって、おそらくは世界中に大勢存在していたのではないでしょうか?

後に知った事ではありますが、確かにフィル・スペクターは、その時点までに素晴らしい実績を残していましたが、実際問題として、1970年には忘れられたとは言わないまでも、影が薄くなっていた存在ではなかったでしょうか……?

少なくとも、サイケおやじの世代の音楽ファンは、ビートルズと関わった事でフィル・スペクターというプロデューサーを知ったのではないでしょうか?

と、いきなり冒頭から「?」マークの連発になってしまいましたが、その辺りの事情からでしょう、当時のラジオの深夜放送では、フィル・スペクターの特集とかもやっていました。

そして、そこで流された曲は、何とっ!?

これまでに聴いた事のある歌が沢山あったんですねぇ~~!?!

尤も、それは弘田三枝子が歌っていた「ビー・マイ・ベイビー」とかの世界でしたが、しかし、そういった楽曲をオリジナルで沢山聴ける様になったのは、やはりビートルズのおかげかもしれません。

また、もうひとつ、サイケおやじがフィル・スペクターに興味を惹かれたのは、初期のローリング・ストーンズに関わっていたっ!? という逸話を前述したラジオの特集番組で知った事も大きく、もちろん当時の事ですから、それが何時頃、どんなレコード制作に携わっていたのか等々の情報なんて、そんなに易々とは知る事が出来ません。

そこで例によって凝り性の悪いムシが出たというか、サイケおやじは洋楽愛好者の先輩諸氏や洋楽雑誌等々を頼りに、フィル・スペクターについての諸々を探索し始めたのが、この時期だったのです。

そうです、繰り返しになりますが、ビートルズとフィル・スペクターの邂逅が報じられた1970年春、サイケおやじはフィル・スペクターついては何も知らないのと同じで、如何に述べる事は、今日までに独り善がりで調べ上げ、後追いでレコードを聴き進めていた末の偏った内容ですので、そのあたりは皆様にご容赦願いたいところです。

 

フィル・スペクター:Phil Spector
 ニューヨーク生まれのユダヤ人で、ロス育ち!?
 少年時代にロックン・ロールの洗礼を受け、やがて自分でバンド活動を始めますが、その頃から既に様々な録音方法に興味があったと云われています。
 やがて17歳の時、自主制作ながらシングル盤を出すんですが、そのB面に収められていた「逢ったとたんに一目惚れ / To Know Him Is To Love Him」がラジオ局のDJの目にとまった事から、1957年に全米チャート第1位の大ヒット! この曲はテディ・ベアーズ名義で、黒人ボーカルグループの影響を強く受けたスローテンポの白人ポップスですが、そのバックの演奏にはエコーが大きくかかり、ダビングを繰返して録音された事から、音は劣悪になっていました。しかし切々とした乙女の心を聞かせるアネット・クレインバードの可憐な歌声とのミスマッチ感覚が、独特の世界を築いており、この魅力は現在でも不滅と思うばかり♪
 そして、この大ヒットを足がかりにして彼は音楽業界に入り、紆余曲折はあったものの、当時の有名プロデューサーであったレスター・シルに弟子入りして研鑽を積み、さらに彼の推薦を受けて今度はニューヨークの音楽業界で裏方として働きながら人脈を作り、少しずつ現場での製作に携わっていきます。
 こ~して1961年、ロスに舞い戻ったフィル・スペクターは、レスター・シルと共同で「フィレス」というレーベルを立ち上げ、1960年代半ばまで、数多くのヒット曲を世に送り出していきますが、その特徴は所謂「ウォール・オブ・サウンド=音の壁」と呼ばれる音作りでした。
 もちろんこれは、前述した「逢ったとたんに一目惚れ / To Know Him Is To Love Him」で聞かれたサウンドを発展させ、完成形にしたものです。
 今日復刻されているそれらの音源を聴くと、エコーが強くて何だかモヤモヤした感じにしか聴こえませんが、当時は最高に迫力があるものとして玄人筋にも人気があり、後に大スターとなるビーチ・ボーイズやビートルズ等々、世界中に信奉者が出現してきます。
 しかし皮肉な事に、フィル・スペクターの全盛期はビートルズの登場によって終焉を迎えます。

 

で、そのフィル・スペクターが、どういう経緯でビートルズの「レット・イット・ビー」をプロデュースする事になったのかは、良く分かりません。

ただ……、1964年初頭にビートルズがアメリカへ行った際の飛行機の中で、彼等とフィル・スペクターが一緒に写っている写真が残されており、また当時から彼はビートルズと仕事をしたがっていたという事実もある様ですが、その後の彼は事実上、1967年頃から引退状態になります。

しかし、1969年には一時的にカムバックし、またイギリスでは人気が継続していたという事に加えて、ビートルズの経理担当であるアレン・クラインがフィル・スペクターと繋がりがあった事も関連しているのかも知れません。

記録によれば、フィル・スペクターがビートルズ関係の録音に初めて携わったのは、1970年1月末に行われたジョンの3枚目のシングル盤A面曲「Instant Karma!」のプロデュースで、それはジョージの推薦だったと言われております。

今となっては良く知られているとおり、その頃のジョージはアメリカの南部系音楽、所謂スワンプロックに傾倒しており、その周辺で活動していたドラマーのジム・ゴードンは、フィル・スペクターが1960年代にプロデュースしたセッションの常連スタッフだった事からの繋がりも無視出来ないところです。

この辺りの複雑な人脈と群像劇は壮大な美しき流れになりますので、追々に取上げたいのですが……。

それはそれとして、その仕事に深い感銘を受けたジョンとジョージが例のマスター・テープのプロデュースを彼に依頼したというのが、現在の歴史です。

その作業は、1970年3月23日~4月2日の間に行われ、ついにアルバム「レット・イット・ビー」は完成するのですが、その現場にはジョージと何故かアレン・クラインだけが立ち会っていたそうです。

つまり現場の責任者としては、ジョージ・マーティンもグリン・ジョンズも外されていたわけで、そのあたりが後々までも確執を生み出す要因になっていきます。

ちなみに、「プロデュース」という仕事について、サイケおやじの知り得るところでは、まずレコード制作の実際の現場、つまり録音やミックスダウン等々の仕切りは言うに及ばず、スタジオやバックミュージシャンの手配、収録楽曲の選定や編曲に携わるスタッフ集め、さらにはレコードジャケットのデザインや仕様の決定にまで強いリーダーシップが求められる激務であり、その後のプロモーションや販売実務さえも責任の範疇だというのですから、業界の内外に幅広い人脈を持っている人物でなければ、到底やれる職業ではないと思いますねぇ~~。

似た様な職種に「ディレクター」と呼ばれる担当者がレコーディングの現場に携わっている場合も、殊更我が国では多いんですが、「ディレクター」は、あくまでも現場監督の立場であって、宣伝や販売には、それほどタッチしていないと思われますが、いかがなものでしょう。

ということで、「レット・イット・ビー」の成立に大きな役割を果たしたフィル・スペクターの登場は、現在に至るも、賛否両論が尽きる事はありません。

何故ならば、次に発生する最終的な大事件に強く関与していたのですから……。

【参考文献】
 「ビートルズ・レコーディング・セッション / マーク・ルウィソーン」

注:本稿は、2003年10月1日に拙サイト「サイケおやじ館」に掲載した文章を改稿したものです。

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