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愛国心と9条は仲良くできますか? 落石

2009年07月04日 09時34分31秒 | Weblog
愛国心についての投稿で良いコメントが続きました。
問題点を整理する必要がありそうなので、
投稿にしました。
再度、コメントをお願いします。

   

私が投げ出した問題は、愛国心は2つのありうるということでした。
簡単にいえば「良い」愛国心=「人類愛」に立脚した愛国心。
もうひとつが「悪い」愛国心=「排外主義の差別的な」愛国心。

これに対して、危惧する意見が寄せられました。
愛国心は危ない、というものです。

   

愛国心に二つあるとすれば、一つは社会共同体を背景とした
「愛郷心」といってもいいものであり、
今一つは、政治共同体からの「忠誠心」を太骨としたもので、
先の教育基本法改悪の中味にしようとしたものです。
私には、愛郷心ならあります。
それがあれば、ことさら愛国心などなくともいいんじゃないですか。
国が在って、人々が存在するのではなく、
村人、町人、市民があつて国というものは成り立つ。
これが戦後、私たちが学んだことでした。

少なくとも国家=悪と断じればいいというわけではありません。
国家はレーニンのいうごとく、軍隊や警察、
そして監獄に限定されないからです(それらの機能も含みますが)。
ほかにも、財政や教育、インフラや福祉など、
広範囲な機能を持った装置といえます。
問題はこの機能の束を誰のためにどう働かせるかであって、
それが専制国家であったり、相対的に民主的な国家であったりします。
従ってここには、広く国民のために働く相対的に良い国家と、
そうではない国家とがあります。
それらはそれぞれの国家に内属している性格ではなく、常に変動するものです。

こうしたよりよき国家へ向かっての努力は否定すべくもありませんが、
ただし、こうした機能の束ねのような国家を、
それ自体自律するものとして実体化し、
「愛国」という名称で固定することはどうかと思うのです。

   

国民国家を実体化して「愛国」という名で固定することは、
どうか?と思うのです。
というところが、ポイントですね。

    


過去の苦い経験は、「友愛的な愛国心」との差異は明確になることなく、
ついにはナショナリストのそれに統合されるような気がいたします。
戦前における軍国的愛国心のそれも、大多数の国民にとっては、
当初は郷土愛であったり、伝統への敬愛であったり、
ようするに「友愛的な愛国心」であったのではないかと思うのです。
ナショナリストは、そうした様々な愛国心をすくい上げ、
すべからく国家主義へと統合するのです。

   

こうした過去から、どう学ぶのか?
そこが大切なポイントです。
それは愛国心はいらない、ということでしょうか?

たとえば9条と愛国心は両立するのか?と問われたとします。
只今さんは、両立しないとお考えのようですが、そのほかの人たちは
どうでしょうか?
特に若い人は・・・
どうして、それが対立するものかは、全然理解できないでしょう。
過去の文脈がスッポリと抜けているから。

今の文脈で、この「9条と愛国心は両立するのか?」
という質問を考えたら、両立していると答える人が結構いるのでは?

私は両立すると思っていますよ。
人類愛に立脚する愛国心と9条は、なぜ、両立しないんでしょうか?

さて、ここからが大切です。
人類愛に立脚する愛国心は貫けるのか?
ナショナリズムに足元をすくわれるのでは?
という危惧です。

これはどうでしょうか?  
過去が過去ですからね。


論点の理解がずれていたらゴメンナサイ。
その点もふくめてコメントを下さい。

(一言、追加です。憲法9条を持っている国民が
愛国心を持たないって?どういうこと?
というのが私の素朴な疑問です)




コメント (9)
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腐ったゲーム、グラ鹿島戦  文科系

2009年07月04日 01時59分51秒 | スポーツ

改めて1日の鹿島戦を見直してみた。腐ったゲームだ。その次第を書いてみたい。

前半20分過ぎまではよく攻勢をとっていた。全力で攻めていたのだろう。惜しいシュートも3回ほどはあったのではないか。22分に鹿島が得点してからがいけない。

さて、僕が最近ここに書き続けてきたダビである。確かにアリバイ作りのような守備しかしていない。ごく近くに来る敵ボールにしかプレスをかけないし、そのプレスの時もとろとろ走り寄っていくだけで、守備時のダッシュというものはほとんど見られない。彼の守備がこうだから、ディフェンス陣は攻撃の時でも去年の好調時のようにはなかなかラインを上げられない。いつボールを取られて、ダビ周辺の敵陣から一気に攻められるか、そんな不安があるからだ。よって、こんなことが起こる。
敵ボールを奪って反転攻勢という時も、見方ボールの位置は低く、ダビは高い位置にいるので、当然陣地が長くて、攻撃が遅くなる。これだけ遅い攻撃ばかりでは、既に敵が帰陣してがっちり固めているから縦への攻撃ができなくて、敵陣かなり前でやたらに横パス、バックパスを繰り返しているだけだ。

やはりダビがチームとしてのコンパクトさを乱していると思った。それでも彼だけに得点を上げさせてきたからということなのだろう、彼を換えられない。よって彼はますます上に構えて、得点中心のプレーを心がけることになる。この悪循環ぶりでは、チームとしての信頼関係が崩れ、監督不信はもう深刻だろうと思った次第だ。

このダビ、去年札幌でも同じことをやってきた。彼がリーグ2番目の得点を上げても、チームは2部に落ちたのである。この事実はむしろこう表現すべきなのかも知れない。
「彼が得点に専念したからこそ、チームが2部に落ちた」

サッカーではこういうことがよく起こる。たとえ得点力がリーグ随一の選手でも、チームコンセプトを乱すならば、それ以上の害があるということだ。彼がいることによって生じるストイコビッチの「攻勢的守備原則」上の破綻が、彼の得点程度ではカバーできなかったのだと言い換えても良いだろうと思う。
コメント (3)
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