★表題のテーマで数回に分けて品川氏の講演を掲載します。講演を記録していた後藤茂昭氏は昭和区九条の会の学習会などで講師として平和・護憲の問題についてお話をいただいている論客であります。またピースあいちの中心的なボランティアとしても活躍してみえます。(まもる)
=================================
6月20日、講演を聴いた。講師は品川正治氏である。氏は、現在85歳である。過去に日本興亜損保の社長、会長を歴任し、1993年~97年の間、経済同友会代表副幹事を務め、現在も同会の終身幹事である。また、財団法人国際開発センター所長であるとともに全国革新懇の代表世話人でもある異色の経済人である。現在九条問題について、全国各地で講演活動を精力的に行っている。今回も2時間を超える講演を原稿なしで、淡々と諄々とお話しされ、受講生は引き込まれて聞き入っていた。
講演内容
私の戦争体験
「私は一身に二生を生きた」。1924年に生まれ、22年間は大日本帝国憲法の下、天皇の赤子として、その後は、日本国憲法の下の国民として生きた。太平洋戦争末期、私は第三高等学校(全国に第一から第八まであったナンバースクールといわれ、卒業生は東大、京大等の帝国大学へ進むエリート高等学校。第三は現在の京大教養部にあたる。)の学生であった。
在学中の1943年、戦況の悪化により、それまで大学生、専門学校生に認められていた「徴兵猶予」が廃止され、学徒動員が発令された。当時の高等学校生の中には、20歳を超えたものもかなりいて、召集された。死と直面した中で、当時の学生はみな「死ぬまでに読みたい本」を1冊決めていた。私は、カントの「実践理性批判」をドイツ語の原語で読み、読み終わった3日後に召集された。学生時代には、仲間が次々応召し、寮や料亭で寮歌「紅萌える…」や逍遥歌「琵琶湖就航の歌」を涙ながらに歌った。一番忘れられないのが、詩人三好達治のことである。当時、学校は死んでゆく学生のために、「誰の講義が一番聞きたいか」希望を取り、全国から教科に関係なく講師を招いた。その一人が三好達治である。五日間の講義が終わった時、突然、達治が教壇に突っ伏して号泣した。達治は涙ながらに「若い君たちを戦争に送って、僕にはもう詩を書けない」と言った。
応召後間もなく中国の延安という最前線に送られた。共産党軍や国民軍の眼前であり、死ぬことが確実の戦線であった。手榴弾攻撃や白兵戦もやった。私の足には、今も爆弾の破片が入っている。ある時、隣の塹壕から「助けてくれ」という戦友の悲鳴が上がった。すぐに飛び出そうとした私に、同じ壕の戦友が馬乗りになって押さえつけ、首を横に振った。飛び出せば、撃たれて死ぬことが確実だった。しかし、このことは私の一生のトラウマとなった。戦後東京にいた私は亡くなった戦友のお母さんの訪問を受けた。息子の最後を知りたくていろいろ調べて私をつき止め、島根の山奥から、村の人たちから旅費を出してもらって上京された。私は、畳に顔をすりつけ暫く何も言えなかった。そのことは更なるトラウマになった。やっと終戦になったが、自分たちの武装解除は11月まで行われなかった。すでに国共の戦いが始まっており、双方の思惑の中で解除がなされなかったようである。
戦争体験が話されない理由
戦争経験者が寡黙である理由は次のように思われる。
1. 日本の戦争があまりにも惨めだったこと。
ニューギニア、レイテ、インパール等での死者の7割は、餓死である。体力も気力もなくし、地面にへたりこんでの戦友との別れがそのまま戦死である。それを思うと「中国戦線のことなどおこがましくて」という気がする。
2. アッツ、サイパン、硫黄島、沖縄での戦いは、最初から勝つことは考えられず、いつ玉砕するかだけの戦いだった。
3. 戦争を語る際、「どうしてあなただけ生きていられたのか」という問いがトラウマになる。
戦争は天災ではない。起こすのも止めるのも人間である。75歳まではトラウマで話せなかったが今は、「今話さないと」という気持ちである。語ることが戦闘体験者の務めだと考えている。
=================================
6月20日、講演を聴いた。講師は品川正治氏である。氏は、現在85歳である。過去に日本興亜損保の社長、会長を歴任し、1993年~97年の間、経済同友会代表副幹事を務め、現在も同会の終身幹事である。また、財団法人国際開発センター所長であるとともに全国革新懇の代表世話人でもある異色の経済人である。現在九条問題について、全国各地で講演活動を精力的に行っている。今回も2時間を超える講演を原稿なしで、淡々と諄々とお話しされ、受講生は引き込まれて聞き入っていた。
講演内容
私の戦争体験
「私は一身に二生を生きた」。1924年に生まれ、22年間は大日本帝国憲法の下、天皇の赤子として、その後は、日本国憲法の下の国民として生きた。太平洋戦争末期、私は第三高等学校(全国に第一から第八まであったナンバースクールといわれ、卒業生は東大、京大等の帝国大学へ進むエリート高等学校。第三は現在の京大教養部にあたる。)の学生であった。
在学中の1943年、戦況の悪化により、それまで大学生、専門学校生に認められていた「徴兵猶予」が廃止され、学徒動員が発令された。当時の高等学校生の中には、20歳を超えたものもかなりいて、召集された。死と直面した中で、当時の学生はみな「死ぬまでに読みたい本」を1冊決めていた。私は、カントの「実践理性批判」をドイツ語の原語で読み、読み終わった3日後に召集された。学生時代には、仲間が次々応召し、寮や料亭で寮歌「紅萌える…」や逍遥歌「琵琶湖就航の歌」を涙ながらに歌った。一番忘れられないのが、詩人三好達治のことである。当時、学校は死んでゆく学生のために、「誰の講義が一番聞きたいか」希望を取り、全国から教科に関係なく講師を招いた。その一人が三好達治である。五日間の講義が終わった時、突然、達治が教壇に突っ伏して号泣した。達治は涙ながらに「若い君たちを戦争に送って、僕にはもう詩を書けない」と言った。
応召後間もなく中国の延安という最前線に送られた。共産党軍や国民軍の眼前であり、死ぬことが確実の戦線であった。手榴弾攻撃や白兵戦もやった。私の足には、今も爆弾の破片が入っている。ある時、隣の塹壕から「助けてくれ」という戦友の悲鳴が上がった。すぐに飛び出そうとした私に、同じ壕の戦友が馬乗りになって押さえつけ、首を横に振った。飛び出せば、撃たれて死ぬことが確実だった。しかし、このことは私の一生のトラウマとなった。戦後東京にいた私は亡くなった戦友のお母さんの訪問を受けた。息子の最後を知りたくていろいろ調べて私をつき止め、島根の山奥から、村の人たちから旅費を出してもらって上京された。私は、畳に顔をすりつけ暫く何も言えなかった。そのことは更なるトラウマになった。やっと終戦になったが、自分たちの武装解除は11月まで行われなかった。すでに国共の戦いが始まっており、双方の思惑の中で解除がなされなかったようである。
戦争体験が話されない理由
戦争経験者が寡黙である理由は次のように思われる。
1. 日本の戦争があまりにも惨めだったこと。
ニューギニア、レイテ、インパール等での死者の7割は、餓死である。体力も気力もなくし、地面にへたりこんでの戦友との別れがそのまま戦死である。それを思うと「中国戦線のことなどおこがましくて」という気がする。
2. アッツ、サイパン、硫黄島、沖縄での戦いは、最初から勝つことは考えられず、いつ玉砕するかだけの戦いだった。
3. 戦争を語る際、「どうしてあなただけ生きていられたのか」という問いがトラウマになる。
戦争は天災ではない。起こすのも止めるのも人間である。75歳まではトラウマで話せなかったが今は、「今話さないと」という気持ちである。語ることが戦闘体験者の務めだと考えている。