文章にもいろいろあるが、以下のような知識は案外知られていないのではないか。文を書く人誰でもが、持ち、意識していた方が良いと思うのだが。まず、僕ら同人の月刊冊子今月号、後書きの文章、その一部をご紹介してみよう。
『 来新春発行の同人誌を編集していて考えさせられた。千字程度の冊子作品と年一度の同人誌作品とでは、書き方が大きく異なるはずだ。創作文の、報告文や説明文との違いも改めて論じ合ってみたい、などと。無意識な時系列だけの文章は長々しく感じるし、細かく書き込まれたところが見えにくい「粗筋」作品は、長文になるほどに平板、平凡に感じられる。だから、モチーフの構成、焦点などは、長文作品になるほどに難しくなると思う。千字ほどの作品を二時間で書くある人が、その執筆計画時間を二十分ほどとする。五千字の文章なら、その五倍ほどの時間を考えるのでは、到底済まないと思うが、どうだろうか。』
同じようなことをもう一つ、俳句の世界等でいつも言われていることを書いてみる。自由律も含めて、同人にもやっている人が多いのだ。報告や説明だけの句には、こんな声があがるらしい。「それで、どうした!」、と。「事情は分かった。それで、君はどう感じたの、それがないのは、話にならんよ」、というわけだろう。自分の内面を表現してこそ文芸文、と。考えてみると人間の心を最もくっきりと現わせるものは、文章、言葉だろう。音楽はもちろん、絵画でさえが、感じ入る度合いは別にして解釈という点では多様性が生じるようにしか表現できないはずだからだ。そういう文章というものを、自分自身の外の世界の「報告」、「説明」にだけ使うのは、実に大変もったいないと思う。ひょっとしてそれとも、日本人が元々「自分の心を覗く(「表現する」とは、ちょっと違う積もり)」のが苦手なのかも知れない等とも考えてみる。
同じことを、もう一つ別の側面から見てみたい。
歴史物好きは、何というか「事実」好きであって、最近の日本では男性に多かったようだ。仕事とその報告文章などばかりで、自分を覗く暇もなかったから? 文芸好きは女性に多く、何か夢を見ているようにも思われ、「文芸=フィクション」という偏見も世に多いのではないか。この両極端が協力し合って、「心を描いてリアルな作品なんて、存在しない」とでも語りあっているような日本に見えるのである。推理物とかSF物とかばかりで、単なる「粗筋作品」が多すぎる世の中の影響もあるのかも知れない。そして、心は、単に、お喋り、と。
でも人間は大昔から「汝自身を知ってないことが分かったかね!」とか、「全てを疑え。すると、そう疑っている自分だけは存在すると分かるはずだ」とかを大事なこととしてきた。その点今の日本社会は、人類文化の大道から相当に遠い? こういう点から見ると「文芸」という言葉も、何かちっぽけなものに感じられないか。「芸?」、というわけである。本来は文化産物と学芸ということらしいのだが。