九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

日本人が元気になる合言葉   らくせき

2010年10月01日 19時20分30秒 | Weblog
族譜。
朝鮮で一族の代々の当主が家系図とともに
それぞれの時代の出来事を書き残し、
子々孫々に伝えるもの。
梶山季之・原作、ジェームス三木・脚本、
青年劇場の公演を見ました。

興味深かったのは、父が自殺、許婚も獄死した
女性が言った台詞。

日本人が元気になる合言葉を知っていますか?
それは「愛国心」です。

というもの。

   

韓国や中国で愛国心が元気の源になっているみたい。
あれから60年以上経った今、日本では、
このキイワードでは元気はイマイチ。
しかし盛り返そうという動きも。

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昭和区九条の会の「平和美術展」の日程と展示室が決まりました。    まもる

2010年10月01日 10時27分07秒 | Weblog
 
 

  毎年春に開催している「昭和区平和美術展」の日程と展示室が決まりました。

 六月に名古屋市博物館に申請していた、「第五回平和美術展」の日程と展示室の

 連絡が博物館からありました。両方とも第一希望が通りました。

  日 程・・・2012年 4月19日(火)から 4月24日(日)の六日間です。

  展示室・・・三階 第8と第2と第3と第4展示室の隣り合った四つの部屋です。

         前回より一室増やしました。

  展示作品・・絵画・写真・書・彫刻・工芸・手芸など400点を目指しています。

        また、市民参加作品では「愛知の戦跡写真展」を計画しています。

 ★来年の春には、是非おいでください。

     
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僕のスポーツ哲学  文科系

2010年10月01日 06時59分01秒 | スポーツ

 僕はここに、スポーツの記事を続々と書いている。見るスポーツとして以上に、やるスポーツということで。これに関して述べてみる。
 もちろん、第一に好きだから書いているわけだ。が 単にそれだけの小さな扱いだという積もりは、全くない。もっと遙かに大きな人生的意義を与えている。スポーツは先ず、以下に見るように人生に潤いを与える文化・芸術だと考えている。そしてさらに、他の芸術よりも人生にとって遙かに大きな意義があるとも考えている。健康や、どんな美容・高価な服装、装飾品よりもはるかに価値が高い「自分自身の美」に繋がるものだとも考えている。そして、こんなスポーツ哲学も。以下は、ここにも載せた中編小説から抜き出したものである。所属同人誌に掲載した小説だ。

 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。
 これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要があるような時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。
 スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、不摂生のためすっかり体型がくずれてしまったかに見える体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」はどこか遠くに置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても、「言行不一致」を免れることはできないだろう。
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