第7回で、『随筆「国語(科)は学問ではない!」?』というのを書きました。その続きがあるので再掲します。第7回で述べた「言語力、思考力、社会性」は、どのように結びついているのか。この事について20世紀の発達心理学が明らかにした知見の一部を紹介しています。
『 随筆「国語(科)は学問ではない!」?』の続き 2015年02月11日 | 小説・随筆・詩歌など
この拙稿は、1月29日エントリー『随筆「国語(科)は学問ではない!」?』の続きです。アクセス記録数などによるとこのエントリーを読んで下さる方が意外に多いようだし、一読者の「難解だった」という電話感想もあったので、そこの最も大事だけど難しい部分を詳論しようと思い立ちました。
29日にはこのような事を述べさせていただきました。深い思考力とは、言語能力とともに発達していく。そういう言語能力は小学校中学年で出現し、そこで最も飛躍的に伸びていく抽象的言語能力の事ですが、それが実はその子の社会性と共に進んでいくということ。「机」とか、「走る」とかの目に見えるようなものについての言語ではなく、真善美とか、喜怒哀楽(その名詞、形容詞)、「したがって」などの接続詞等目に見えないものの言語能力が、特に社会性と結びついているということ。その場合の社会性とはさし当たって、『他人の言動が見え、分かり、共感するということなど』を述べさせていただきました。
さて、この抽象的言語能力と社会性の関係をより詳しくまとめる事が、今回のテーマです。他人(のごく単純な状況。これを、後で述べます)が見えてこなければ小学校中学年段階の抽象的言語能力は伸びないといっても良いということです。そして、そういう子は学年が上がるに従って学力一般が落ちていくものです。勉強とは先ず記憶であると誤解しているような子がそうなのですが。
こんな実験をした学者がいます。
①ボール紙切り抜き3組、各3枚ずつを用意します。両面赤く塗った丸3枚。同じく青の三角、緑の四角それぞれ3枚。因みに、色と形がそろっている点がミソです。
②それを、小学生低学年の子の目の前で3枚3組に分けて見せてから、「今度はあなたが、お仲間同士に分けてみて」とお願いします。当然分けることができます。
③次に、そこへ大人を一人連れて来て目隠しをさせ、その子にこうお願いします。「この人が。この9枚をさっきみたいなお仲間に分けられるように、何でも良いから言葉で教えてあげて」
さて、正解は「貴方の前に紙があるから、触ってみて同じ形の組に分けて」とか「前にあるボール紙に触って、丸、三角、四角3枚ずつに分けてください」なのですが、小学校低学年では平気で色の事を語る子がいます。「赤くて丸いの」とか。つまり、「目が見えない相手」という事にほとんど気付かず、配慮がない子も多いんです。もっというと、「相手の立場で物事が見られない」。この遊び、僕も昔我が子などによくやってみたものですが、賢い子ほど上手だとはっきりしています。小学中学年でこれができる子が飛躍的に増えるから、ここで成績の差が付いていく。そしてここが大事なのが、「相手の立場で物事を見ようとしていないと、抽象的言語が苦手になる」ということでしょう。例えば、電話で他人に道順を教えるやり方を考えてみて下さい。大人になってもこれが苦手な人がいますよね。何故なんでしょう。
道順を教える要点はこういう事でしょう。「誰でも分かる目印」と、誰でも分かる方向、および客観的な距離です。「(自分がよく遊ぶ場所)」とか、「かなり遠くまで行って」などは、主観的な言葉で、ダメなんです。
これはつまりこういうこと。抽象的言語内容は誰でもの心の中にあるようなものだから、他人の立場が見えない人にはその内容は分からない。分かってもいい加減な使い方しかできない、と。そして、幾何学のような抽象的言語を操る学問が苦手になるし、さらに一歩進んで例え論理操作はできても、それを人間を見る事には適用できない、と。
ちなみに、上の実験は20世紀の発達心理学で大問題の一つになった「自己中心的言語」という概念を巡る論争の中から、その結末の辺りで生まれたものでした。自己中心的では論理操作ができないし、これができてもそれを人間分析には使えないというようなことです。
さて結論です。目にも見えないし、手でも触れないモノを扱う抽象的言語は、人々、人間全体がそれをどう捉え、どう使用しているかを気にしなければ、身につけられないものです。言語自身が元々人と人のコミュニケーションの必要から生まれたものでしょうが、抽象的言語(の中身)は特に、人の心の中にしか存在しないようなものだから、自己中心的人間には苦手なわけです。大人でもすぐに、こういう人が多いですよね。「具体的に語ってくれ!」。
結論 他人が見えてくるに従って、抽象的言語がちゃんと身につき、抽象的言語が正しく使えるようになり始めてこそ、以下も発達していく。論理性・思考力、さらには人間的感性、情緒など。これらの関係理解について最後に一言だけ。抽象的言語能力、思考力、社会性のそれぞれが、他に不可欠にして重大な必要条件であるということ。また、それぞれ他に作用するだけでなく、独自の発達もとげるということ。これらは言うまでもありません。』
『 随筆「国語(科)は学問ではない!」?』の続き 2015年02月11日 | 小説・随筆・詩歌など
この拙稿は、1月29日エントリー『随筆「国語(科)は学問ではない!」?』の続きです。アクセス記録数などによるとこのエントリーを読んで下さる方が意外に多いようだし、一読者の「難解だった」という電話感想もあったので、そこの最も大事だけど難しい部分を詳論しようと思い立ちました。
29日にはこのような事を述べさせていただきました。深い思考力とは、言語能力とともに発達していく。そういう言語能力は小学校中学年で出現し、そこで最も飛躍的に伸びていく抽象的言語能力の事ですが、それが実はその子の社会性と共に進んでいくということ。「机」とか、「走る」とかの目に見えるようなものについての言語ではなく、真善美とか、喜怒哀楽(その名詞、形容詞)、「したがって」などの接続詞等目に見えないものの言語能力が、特に社会性と結びついているということ。その場合の社会性とはさし当たって、『他人の言動が見え、分かり、共感するということなど』を述べさせていただきました。
さて、この抽象的言語能力と社会性の関係をより詳しくまとめる事が、今回のテーマです。他人(のごく単純な状況。これを、後で述べます)が見えてこなければ小学校中学年段階の抽象的言語能力は伸びないといっても良いということです。そして、そういう子は学年が上がるに従って学力一般が落ちていくものです。勉強とは先ず記憶であると誤解しているような子がそうなのですが。
こんな実験をした学者がいます。
①ボール紙切り抜き3組、各3枚ずつを用意します。両面赤く塗った丸3枚。同じく青の三角、緑の四角それぞれ3枚。因みに、色と形がそろっている点がミソです。
②それを、小学生低学年の子の目の前で3枚3組に分けて見せてから、「今度はあなたが、お仲間同士に分けてみて」とお願いします。当然分けることができます。
③次に、そこへ大人を一人連れて来て目隠しをさせ、その子にこうお願いします。「この人が。この9枚をさっきみたいなお仲間に分けられるように、何でも良いから言葉で教えてあげて」
さて、正解は「貴方の前に紙があるから、触ってみて同じ形の組に分けて」とか「前にあるボール紙に触って、丸、三角、四角3枚ずつに分けてください」なのですが、小学校低学年では平気で色の事を語る子がいます。「赤くて丸いの」とか。つまり、「目が見えない相手」という事にほとんど気付かず、配慮がない子も多いんです。もっというと、「相手の立場で物事が見られない」。この遊び、僕も昔我が子などによくやってみたものですが、賢い子ほど上手だとはっきりしています。小学中学年でこれができる子が飛躍的に増えるから、ここで成績の差が付いていく。そしてここが大事なのが、「相手の立場で物事を見ようとしていないと、抽象的言語が苦手になる」ということでしょう。例えば、電話で他人に道順を教えるやり方を考えてみて下さい。大人になってもこれが苦手な人がいますよね。何故なんでしょう。
道順を教える要点はこういう事でしょう。「誰でも分かる目印」と、誰でも分かる方向、および客観的な距離です。「(自分がよく遊ぶ場所)」とか、「かなり遠くまで行って」などは、主観的な言葉で、ダメなんです。
これはつまりこういうこと。抽象的言語内容は誰でもの心の中にあるようなものだから、他人の立場が見えない人にはその内容は分からない。分かってもいい加減な使い方しかできない、と。そして、幾何学のような抽象的言語を操る学問が苦手になるし、さらに一歩進んで例え論理操作はできても、それを人間を見る事には適用できない、と。
ちなみに、上の実験は20世紀の発達心理学で大問題の一つになった「自己中心的言語」という概念を巡る論争の中から、その結末の辺りで生まれたものでした。自己中心的では論理操作ができないし、これができてもそれを人間分析には使えないというようなことです。
さて結論です。目にも見えないし、手でも触れないモノを扱う抽象的言語は、人々、人間全体がそれをどう捉え、どう使用しているかを気にしなければ、身につけられないものです。言語自身が元々人と人のコミュニケーションの必要から生まれたものでしょうが、抽象的言語(の中身)は特に、人の心の中にしか存在しないようなものだから、自己中心的人間には苦手なわけです。大人でもすぐに、こういう人が多いですよね。「具体的に語ってくれ!」。
結論 他人が見えてくるに従って、抽象的言語がちゃんと身につき、抽象的言語が正しく使えるようになり始めてこそ、以下も発達していく。論理性・思考力、さらには人間的感性、情緒など。これらの関係理解について最後に一言だけ。抽象的言語能力、思考力、社会性のそれぞれが、他に不可欠にして重大な必要条件であるということ。また、それぞれ他に作用するだけでなく、独自の発達もとげるということ。これらは言うまでもありません。』