新聞などを見ても、宗教欄などはあっても、無神論のことは案外どこにも書いてないなーといつも観てきました。だからこそ、こんな事を以下のように、いつかどこかで改めて論じてみたいと考えてきました。団体が宗教に触れることは案外難しいことですが、個人としてそう論ずる場合には何の差し障りもないから、自由に話せることでもありますし。
今まで書いてきたことから多分既にお分かりのように、無神論者です。それどころか、霊魂も信じません。もし、人間各人の身体を離れてその霊魂のようなものが存在するとしたら、身体(自身の世界)とは別にそれが生まれた世界というものが想定され、この世のものならぬもの、この世ならぬ世に行き着かざるを得ないことになると考えるからでもあります。こうしてつまり、この世以外のものを僕は信じていないということです。また、霊魂が存在するかどうかというこの問題は、もっともっと普通に論じられて良いことと考えてきました。ここが日本では案外、実質的にタブーのようになっていなかったでしょうか。キリスト教やイスラム教の国とは違って、霊魂を論じる動機、機会も原理的に少なかったからかも知れませんが。こんなところに案外、若者が得体の知れぬ新興宗教、カルトに引き込まれていく原因があったのかも知れないと観てきました。
宗教と同様に、身体を離れた霊魂が存在するかどうかという問題が、案外原理問題として大事だと観ています。
なお、無神論というとすぐに出てくるある批判にも、お答えしておきたい。倫理、善悪のようなことはどうなるのか、人生とは食いかつ楽しむだけなのかという批判があります。これに対しては、僕はこう答えます。この世だけが存在すると観ても、人間関係というものがある。人間の倫理とか善悪というのは、人間関係の中から生まれたものだろうと。例えば、孔子が人生の中で最も大切なことは「思いやり」と述べて、恕という言葉をこれに当て、この言葉を「自分が望まぬ事は他人にもしてはいけない」と説明したと、覚えています。倫(理)という言葉も元々はそういう意味だったはずで、仲間とか「人がまもるべき道」とかの意味があり、「人間同士の間でまもるべき道」という意味なのでしょう。これらのことは別にあの世がなくとも、この世自身の中に求められるということです。恕、思いやりって、他人がいるからこういうことはしてはいけない、他人がいるからそれ故こう振る舞うのが善なる、美しいことなのだと、倫理とか善というのは原理的にそういうことなのだと、僕は考えてきました。