アクセス数はそれほどでもないのに、6,7日の閲覧数が2000を越えています。6日が2,242で、7日が2,296。しかも、4日と7日が、エントリーなしなのにこの数字!
よって、閲覧数が、アクセスの十倍を遙かに超えるというこの多さの原因は、明らか。アクセスした多くない人々が、過去ログを色々遡って読んで下さった。それだけ、直近のエントリーが興味深かったと推察できて、とても嬉しいものがありました。
さて、そんな読者の中には、ネトウヨ諸君も多いのでしょう。ここには、ネトウヨ諸君が入れ替わり立ち替わり、どんどんやってきますから。9条という名を付けたブログだし、次のような彼らが「許せない」と応答しやすい問題を扱うことも多いからです。
慰安婦初め朝鮮と日本の歴史
南京大虐殺はじめ日中関係史
満州事変から始まるアジア・太平洋戦争史や天皇の戦争責任
最近では福島や辺野古、彼らがお好きなアベノミクス
などなどと。
ところで、彼らの反論はいつも同じ。その同じ反論を、何度か論破しても、いろんな人物が入れ替わり立ち替わり同じ文章で蒸し返して、応えてくる。表現、口調や、その単純な反論パターンまで同じなのだから呆れてしまうが、ネットウヨクとの自覚もなく実質そうだという人も含めて、自分らの世界にだけ流布している「文献」だけを読んでいて、それで答えてくるのが明らかと分かるから、笑えるんです。その文献も、歴史学者などのものはほとんど無く、自分で充分に考えてこれを読み、答えているという形跡もまるでなし。「お得意のその文献」さえよく読んでいないようで、「あれ読め、これ読め」という応答コメントが多いのは要約さえ出来ない事を示していると思われるんです。つまり、誰かさんの受け売り、鸚鵡返しですらないから、笑えすぎてまさに抱腹絶倒。なんです。それも、状況の進展とか、新発見や新資料の紹介とかも無視した一昔前の反論論拠が多いんです。そう指摘すると、そんな指摘にはすぐに沈黙が帰ってくるだけですし。つまり、相当に反論を続けて、こちらが新たに勉強し直す必要が僕自身に生じた例さえ皆無なんです。このブログを始めて10年、その初めの5年ほどで僕が勉強し直した内容でほとんど答えられる。
でもまー、こんなに不勉強でも、「知識」をちょっと囓っただけでも、それでもって他人に公開反論してみようとなる世の中は、民主主義的で良い時代とは言えましょう。ただ、相対的燕雀が相対的鴻鵠に対するとき、負けるとすぐに暴力的言辞に及ぶから、これが困ったものです。
「チョンは黙っておれ!」
「死ね!」
「このシナやろう!」
「日本から出て行け!」
「そんなことを語る人は日本人ではないな。在日ですか?」
こういうのが現れると、僕もついつい言葉が汚くなってしまう。「あんたは日本人というだけが誇りなのかね?!」、「そんなことでどうして威張れるの?!」とかね。流石にこれ以上酷いのは僕も慎まねばならないかも知れない。泥沼にして、このブログの信用を落としてやろうという戦術かも知れませんしね。
最後に上記関連でちょっと考えても分かることを、一言。
物事の証明方法とか、真の証明方法と親類のような反論方法とかは、中学校でも習いますよね。国語でも習いますが、最も相応しいのは中学の幾何学、図形の証明などで。証明って、こういう進め方をしますよね。その問題に関して最も確かと考えられる出発点(公理、定理)を見つけ出して、その定理公理の条件と問題の条件とを照らし合わせることなどを必要にして充分な最少限度の言葉で説明して、結論に結びつけていく。あーいうことが苦手だった人は、公開討論、ディベートにはあまり向いていないと言いたい。すぐに負けて、上のように毒つくのが落ちです。つまり、こういうことでしょう。幾何学が苦手だった自分をその後に反省して訓練し直したこともないのに公開討論に参加しようというのは、無自覚、無謀、猪武者というものです。別エントリーで述べ続けているように、抽象的言語能力、それに基づく論理思考力は、大人になってからではもう遅く、身につかないものですから。ご自分のそんな弱さを多少なりとも自覚して欲しいものと、僕は良く思いますね。
このブログでは、そういうお人も無視せず、大歓迎していますが、そんなことも押さえておいて下さい。人間、自覚というものは、凄く大切ですよ。と言っても、証明とか論争能力などは、人間の長所、美徳のほんの一部分にすぎません。が、自覚はこれら以上に大切なことと僕は考えてきました。