九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

NHKのニュースより  らくせき

2016年08月05日 19時31分09秒 | Weblog

稲田防衛大臣は閣議のあとの記者会見で、中国との関係について、「歴史認識は両国のいろいろなレベルで率直に話し合うことが重要だ」と述べたうえで、信頼関係を構築して防衛協力を強化していくため、中国訪問に意欲を示しました。

アメリカ国務省のトナー副報道官は、稲田防衛大臣が毎年、靖国神社に参拝してきたことについて、日本と中国や韓国との関係悪化につながらないよう、慎重に対応することが重要だという認識を示しました。
これについて、稲田大臣は閣議のあとの記者会見で、「安倍内閣の一員として適切に判断して行動してまいりたい」と述べました。
また、稲田大臣は中国との関係について、「歴史認識は両国のいろいろなレベルで率直に話し合うことが重要だ。お互い、意見を言いながらも理解を深めていくことができると思う」と述べました。
そのうえで、稲田大臣は「ぜひ私も機会があれば中国を訪問して、防衛協力で信頼関係を構築し、建設的な協力関係を強化していくことは極めて重要だ」と述べ、中国訪問に意欲を示しました。

 

このニュースどう解読します?

稲田さんは、アメリカに遠慮して、靖国を参拝しないのでしょうか?

 

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

案の定                            1970

2016年08月05日 12時53分43秒 | Weblog

アジア予選のときからザル守備を叩いていたが、まあ世界は見逃さないよな。

それにしても酷い守備だった。

とにかくボールを見るだけ。ずるずる下がる。

ボールを奪うスキルが無さ過ぎる。

点差がついて相手が流したから点は獲れたが殆ど意味は無い。

相手が勝手にミスしてボールを渡してくれるアジアだから勝てたが世界を相手に

あのサッカーが通用するはずもない。

手倉森の守備に対するコーチングではアジア以上のチームにはいいサンドバックに

なるだけなんだよな。

ミスもあったがそもそもミスが生まれるような守備のやり方だからああなる。

残念でした。

後は得意の運頼みだなw

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランスの週刊誌の記事の紹介 ①   らくせき

2016年08月05日 09時17分00秒 | Weblog
LA FACE CACHÉE DE SHINZO ABE(安倍晋三の隠された顔)
と題された VINCENT JAUVERTさんの記事を翻訳したものの紹介です。
 

経済改革者のイメージと程遠く、日本の総理大臣は、帝国への回帰を称える極右団体に関係している。
それは国際政治で、大幅に無視されているとはいえ、主要な事実だ。
世界第三の経済大国である日本は、数か月前から、(総理大臣、安倍晋三も含めて)
閣僚の4分の3が、歴史修正主義で権威主義の極右団体、「日本会議」と呼ばれる、
目立たないが影響力のある団体に属していることだ。
 
  2012年12月に政権に復帰したとき、安倍晋三が、新自由主義的であると同時に
戦前に郷愁を抱く強硬な右翼出身の政治家であることを知らない者はなかった。
プーチンやインドの国粋的指導者モーディを称賛していることも知られていた。
安倍が近かった、祖父の岸信介が1932年に大日本帝国によって併合された満州のナンバー2であり、
次に戦争中に東條内閣の一員であったこと、そして結局、1945年の敗戦の後、
A級戦犯として投獄されていたことも、誰もが知っていた。
しかし明らかに、反動的で反民主主義的なイデオロギーへの安倍晋三の
政治的根強さは過小評価されていた。
「数か月前まで、安倍の最終目的は有名なアベノミクスによって日本経済を立て直すことだと多くの人が考えていた」、
上智大学‘国際教養学部)教授の中野晃一は分析する。
「今日、安倍が本心を隠さないで行動しているのか、戦後に採択された平和的で自由で民主的な憲法の根本的な改変を
日本人により容易に”売り込む“、という目的のためだけに
経済的成功を追及しているのではないかと疑問視されている。
そうして、彼が1997年の創設時から加入している団体、
日本会議に特有の、帝国主義に憧れを持つ、古い秩序への回帰を押しつける目的でも。」
 
  「逆説的だがこの非常に重要な団体は日本では未だに真価を認められていない」、
日本版『リベラシオン』ともいえる『東京新聞』に昨年夏、日本会議に関する初めての長い記事を書いた佐藤圭は言う。
「その出発から、日本会議はレーダーに現れないようにあらゆる注意を払ってきた。
広告も出さないし、テレビにも出ない。戸別訪問的な活動をしながら、視線の及ばないところで前進していた。
その集会はメディアに開かれていない。そして、会員たちには会談の間も、写真を撮る権利もない。」 
この信じられない「ステルス性」にはもう一つの理由がある。
「日本会議は、より反動的な、地方で発展してきた」と、日本の右翼運動の専門家である法政大学の政治学者、山口二郎は説明する。
「大手メディアは、元々ローカルだったこの団体を見下していた。
2012年12月の安倍内閣の指名と、さらに昨年秋の内閣改造後、日本会議所属の閣僚の数がさらに増えて、その強大さに面食らうまでは。それまでは田舎の、片隅のものと見なされていたこの極右団体が、日本の政治の中心にいたのだ。」
 
  日本会議は1997年、一つは満州侵略を率いた帝国軍元司令官によって、
もう一つは主に神道の宗教団体によって設立された、二つの極右団体の合併により生まれた。
「反動的で1930年代に郷愁を抱くこれら二つの集団は、日本が戦争中に行った残虐行為の過ちを告白することに耐えられなかった。
彼らによれば、日本人は帝国に誇りを持たなければならなかった」と、山口二郎は説明する。
「分裂したままではイデオロギー闘争に敗北しつつあったと理解したときに、合併した。」
 彼らの自覚は1995年8月15日に起こった。村山首相が有名な謝罪宣言を述べたときである。
その日、世界は第二次世界大戦終結の50周年を記念していた。
この機会に、日本が1930年代と1940年代に、「植民地支配」を押し付けるためにアジア諸国を「攻撃した」ことを、
日本の政府のトップが初めて、公に、そして公式に認めたのだ。
この認識は、帝国軍が政敵奴隷に頼っていたと1993年に認めた、内閣のナンバー2、河野洋平の宣言の後に来たものだ。
婉曲に「慰安婦」と呼ばれた女性たちは、朝鮮やフィリピンの村で誘拐され、強制的に軍の売春宿に住まわされた。
反動主義者と超国粋主義者には、もう我慢できなかった。反論し、新しい運動、つまり日本会議を建設することが急を要した。
新しい団体の事務総長職は、1970年代の極右学生のリーダーで、今も強大な力を持つ、椛島有三なる人物に委ねられた。
そしてこの団体は今、3万5千の会員と200の支部を数える。
 
289人の議員メンバー
 
10年前に祖父が亡くなった安倍晋三は1997年に国会議員になる。
お友だちと一緒に、直ちに「日本会議」に、次いで日本会議を支持する議員団体に加入する。
「当時彼らは、保守のジミントーでも周辺的だった」と、中野晃一は言う。
「20年近く経った今日、彼らはジミントーと内閣を席巻している。
そして日本会議は、国会の40%に相当する、289人の議員を集めている…」
 彼らのスローガンとは? 戦後の日本、「アメリカに押し付けられた」制度と生活様式から決別することだ。
彼らは、「勝者の正義」、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の正当性を認めない。
彼らは歴史を自らの味付け、敗者の歴史を書き直したがっている。
 
日本帝国はアジアの民衆を「解放した」と声高らかに断言したい。
1938年の日本軍による南京大虐殺は作り事であり、最悪でも、民間人に変装した数百人の中国兵が死亡しただけだ
(日本人も含めてまともな歴史家は少なくとも数万人の民間人が拷問された後に殺戮されたと考えているのに)。
日本会議の歴史修正主義者らは、「慰安婦」は勇敢な日本兵を慰めて月末に手取りを増やして喜ぶ、
単なる自発的な売春婦だったと断言する(この主題に関して帝国軍に反対する証言が圧倒的であるにもかかわらず)。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする