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生存競争社会とその思想   文科系

2016年08月28日 13時53分28秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 25日の『随筆紹介 「不寛容社会」』に付けたコメントを、大幅に補足修正して、エントリーとさせていただく。何度書いても良い事と思うから。

「対立」の理論化の末に・・・ (文科系)2016-08-28 12:06:41 ドイツは、2度の世界大戦を戦った。兵器の生産力を競う史上初の世界「総力戦」、第一次世界大戦がドイツ社会にもたらした後遺症はもの凄いものだったから、1度目で懲りたはずなのに2度までも。なぜだったのだろうとは、世界でも度々話題になることであって、今の日本こそ何度でも考えてみるべき事と愚考する。ドイツにはこれだけの要素や結末が揃っていたと言われてきた。

①1929年の世界大恐慌で世界中に失業者が溢れていて、国、会社、個人の世界的競争が極限まで厳しくなっていた。エントリーに見る、不寛容社会ということだろう。ちなみに日本も、こういう大恐慌時代への対処として「満蒙開拓」に国家戦略的活路を見出そうとしていた。両方ともが、遅れて発達した「持たざる先進国」と、僕等は世界史で学んだものだ。

②ヒトラーは、膨大な失業者をこのようにして「救った」。軍隊と軍事生産の大増強によって。ちなみに、この事によってヒトラーを支持した最右翼が主婦たちであったと言われてきた。家政を預かる身であってみれば、子どもを喰わせられるということが、こんな時代にどれだけ大きな意味を持ったかということであろう。このことは、この8月17日「中日新聞」の「ナチスの時代を見つめて(中)」で知った。ヒットラー政権下の33年から36年までに、ドイツの失業者は601万から155万人へと4分の1に減り、GNPは5割も増えたと、同記事にあった。

③優生学的な民族優越思想とその敵(ユダヤ、ロマ、障害者、有色人種)を説き、広めて、一つの全体主義社会をまとめ上げた。勿論暴力政治と一体としてこれが進められた。「敵対者」を殺すというのは、最大の暴力である。全体主義は、反対派に対する暴力、抹殺を伴い、それへの恐怖によってこそ強化されていくものと言われる。こういう国家全体主義思想が、上記①②を逆にまた強化していくということだ。よく言われるように、思想は現実から生まれ、その現実を逆に強くもするということだろう。

④以上への、補足として、ある余談をご紹介しておきたい。これも前記「ナチスの時代を見つめて(上)」(16日)で知ったことである。ヒトラー・ドイツから米国に亡命したアインシュタインらの物理学者らが「ヒトラーを倒すためなら」と原爆製造に手を貸した。ヒトラーが出なければ、広島、長崎原爆投下はなかったはずだ。原爆自身はいくらか遅れて生み出されていたとしても。ファッショの時代に入ってしまえば、それへの反対派も黙ってはいないということだろう。皆が野獣になり、究極の対立を演じるということではないか。

 さて、今の世界、日本には、このほとんどが揃っていると思う。以下のように。
①不安定労働者、相対的貧困者が圧倒的に多い先進社会で、人々は景気、株価に一喜一憂している。世帯主の年収は15年ほど前と較べて100万円ほどは下がっているはずだ。失業者が若者に多いので、結婚出来ない男性も増えている。
②武器輸出三原則は放棄され、武器で立ち行く会社もどんどん増えていくことになった。その暴力でイスラムなど世界から嫌われているアメリカへの憎しみを、集団安保強化で日本国自らも引き受けることになったわけだし。ちなみに、兵器生産はいったん始まると後戻りも出来ず膨らんでいくだけだから怖い。縮小すればこの物作り不景気の中ではたちどころに景気が下がり、失業者も増えるから、「行く所まで行くしかない」という性格を持つからだ。この好例がヒトラー、アメリカであろう。
③朝鮮、中国の民族や政治的左派へのヘイトスピーチ、蔑視(丸出し)言動も、当局は一向に押さえる気配がない。北や中国を仮想敵国のように扱いたい人々も多いのだろう。仮想敵が「深刻」でなければ、軍隊増強は出来ない。ソ連が無くなった後のアメリカが「テロとの戦い」を大々的に掲げなおしたように。アメリカはいつの間にか、あの冷戦時代に比べて2倍の軍事費になっている。

 どんな人も、政治家も何も好き好んでこんなファッショ・戦争世界を作りたがるわけではないと、僕は考えてきた。現実と思考・思想との悪循環の中から、時々の政権、最悪の政権でさえ気付いてみたらそうなっていたというようなものというのが実相だと愚考してきた。ヒトラーや東條には確かにそういう人間疎外論では説明できないような思想的能動性があるとも思うが、ある思想というもの自身がそれ以前の社会的諸条件を踏まえてしか広がりえないという意味で純粋に「好きこのんで生み出された」とは言えないと考えてきたのである。

 誰かが意図してファッショを招くというならばかなり分かりやすいが、いくつかの既成事実が積み重なっていつしか取り返しが付かない状況になっていたというものだから、人類愚行は繰り返されたのではないか。とすると、「そういう既成事実」が何かという問題こそ最も重要なことであろうに、そんなことを考える保守政権はごく少ないだろう。それこそが、ファッショを阻止する最大の難問なのではないか。

 とは言え、何という社会になりつつあるのか!   

コメント (15)
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