家永教科書裁判、「100人斬り競争」裁判、「夏淑琴はニセモノ」裁判など、負け続けてもなお「南京はなかった」と頑張る理由があるようだ。今回のシンさんとの打ち続いた議論で、初めて分かった思いがした。にわかには信じ難いが、どうも日本国をこのように変えたい人々が、有名な日本会議を中心に存在することから来ているようだ。以下のような国を作ろうとすると、「南京、慰安婦はなかった」「東京裁判は不当なもので、大日本帝国は立派な国」と、国民にどうしても認めてもらわねばならない。これが彼らの方針なのである。シンさんは、こう述べた。
『自主憲法をつくるならば、神道を国教とし、ただし、信仰の自由は認める。天皇は神と規定し、ただし、政治に口を挟まない。とするべきだと思う。
天皇とは神であり、日本は千年以上にわたって、神道が国教だったというのは、歴史的事実です。国教になると、信仰の自由がなくなるとか、無神論者が信仰を強制されるとか、あり得ないから。国教がある国はたくさんありますよ。国教だと、その宗教の宗教行事に税金が使われるという事であって、それは、現在、ただ今、使われています』
そして、ネットで見つけた「日本会議がめざすもの」という文書は、こんな書き出しになっている。
『 1 美しい伝統の国柄を明日の日本へ
皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません。この皇室と国民の強い絆は、幾多の歴史の試練を乗り越え、また豊かな日本文化を生み出してきました。多様な価値の共存を認め、人間と自然との共生を実現してきたわが民族は、一方で伝統文化を尊重しながら海外文明を積極的に吸収、同化して活力ある国を創造してきました。
125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。
しかし、戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。国際化が進み、社会が大きく変動しようとも、常に揺るがぬ誇り高い伝統ある国がらを、明日の日本に伝えていきたいと思います。私たちはそんな願いをもって、皇室を敬愛するさまざまな国民運動や伝統文化を大切にする事業を全国で取り組んでまいります。』
こういう書き出しから、以下「2 新しい時代にふさわしい新憲法を」と繋がっていく「めざすもの」の「新憲法を!」なる文章を、一体どう見たら良いのだろうと、僕は一種悲しい気分に陥ってしまった。『皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません』等という感覚・感情が憲法に書き込まれたら、これぽっちも敬愛しない僕のような日本人は一体どう見られ、待遇されるのか。僕が自分の心をちょっとでも口に出したら、相手は間違いなく「非国民」と対するから、「敬愛してません」等と言える国ではなくなっているだろう。そんな国の国会議員等は皆、こういう「心」を持つ人物になるだろうし。現憲法の「象徴」下でさえ、河村たかし名古屋市長のように「表現の不自由展における天皇の扱いは日本人の心を踏みにじるもの」と叫ぶ輩がいるのである。こんな「美しい伝統の国柄」を憲法にしたらどうなってしまうのだ。ぞっとして、悲鳴が出るのである。日本会議の人々ような感覚・感情を持っていて、これを国民にも広げたいと考えていれば、そりゃ、南京も慰安婦も、そして東京裁判も、ない事にしたくなるよな!
「皇室を敬愛する国民の心」「皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝」を憲法にし直した国って、僕から観たら全体主義国家そのものである。そういう「心」を国のあらゆる所、場面で押しつけられるに決まっているからだ。これと異質な人間、その言動に出会ったら即座に「日本人の心を踏みにじるもの」と反応されるなどによって。河村たかし名古屋市長の言動は、そういうこと全てを今既に示している。そして、河村氏ご本人にはそんな自覚もないのだから、僕から観たらまことに恐ろしい人種になる。