随筆紹介 イノチ S.Yさんの作品です
「風が吹いて、時間によって明るさも変わり、小鳥がさえずる。みんな意味なんてない。意味がないものを、自然というんです」。
養老孟司氏のこの言葉にハッ! とした。まさに自然は意味のないものに満ちている。
現代は、特に都会は意味のあるものだけに取り囲まれて暮らしている。そしていつのまにか意味のないものの存在を許せなくなってきている。
数年前に相模原市の障害者施設で起きた十九人殺害事件。
「人の手を借りないと生きられない人生にどういう意味があるのか」犯人が言ったそうだ。つまり、すべてのものには意味がなければならない。その意味は自分にはわかるという思い込み。だから自分がわからないことは意味がないと決めつける。
それらのことにドキリとしたのは、私も似た感覚を持っていたからだった。
十年以上、現在も植物状態の義理の叔父がいる。連れ合いである叔母が叔父の病院近くに家を借りて看病を続けていた。その叔母が晩年認知症を患い、昨年九十五歳で亡くなった。むろん叔父は知る由もなく今も眠り続けている。
私は当時から叔父夫婦を見ていて、生きる意味があるのだろうか。生きるってなんだろうと思っていた。私も遠からず歳老いて、人の手を借りて生活しなければならなくなるかもしれない。ましてや自分で何ひとつできずに寝たきりになった場合、私は生きているのが辛いと思う。そうまでして生きる意味があるのかと、自問自答する日々になるだろう。
これはあくまでも今現在そう思うのであって、その時にならなければわからないこともあるのかもしれないが。
その亡くなった叔母の姉である私の母親は、九十八歳で元気だ。相変わらず便せん二枚にぎっしりと達者な文字で書かれた手紙が来る。その手紙で母の様子がわかり、私も安心できて嬉しくなる。母の寿命がいつ尽きるのか、誰にもわからない。
作家の佐野洋子氏が言っていた。「老人になってわかったことがある。何しにこの世に来たか。さしたる用もないのである。用はないが死ぬまで生きなければならないのである」
死ぬまで生きる。至極当然ながら、私は妙に納得できた。生きる道は選べるが、死にゆく道のりは選べないのだから。
生命に人間がわかる「意味」なんてありません。養老氏もそう言い切っている。