随筆紹介 「私の生まれたこの街で」 S・Hさんの作品です
一、近所の喫茶店にて
横になったままカーテンをめくると、外は雨だった。今年で後期高齢者となる良平は近年妻を亡くし独り者であった。二月の中旬になるというのにこのように寒い日が続くのは起きるのがちょっと億劫だった。
床に敷かれた布団からすっぽり抜けてすぐ近くの喫茶店に出かけた。モーニングが朝食代わりのつもりで行った。
店に入るとよく知った少々赤ら顔の女性が度の深い眼鏡で新聞を読んでいた。この店のママさんである。髪は白髪になっている。すでに八十歳を超えている筈だ。この店はもうかれこれ三十年以上になるだろうか。彼女の夫が定年退職してから家を改築してこの店を開いたのだ。その亭主もとっくに亡くなってそれからも女手一つで開いている。
開店当時、ママさんはまだまだ若かった。小柄ではあったが理知的で色白な美人だった。おまけに気遣いのできる女性であった。夫もスリムで彫りの深い紳士であった。何となく優雅な夫婦にみえた。
開店当時は近くに出来た物珍しさもありよく出向いたものだった。コーヒー券も買い、しばらくは通った。それも続かずについに行くこともなく記憶にも止まらない存在になっていた。
ところが近くの、これまた独り者の良平より十歳ほど年上の男性と親しくなって時々通い始めた。その男性は吉川という。
心境の変化というやつだろうか。若い頃はしゃれた喫茶店の方が良かった。わざわざ、ひなびた狭いその店などに行こうとは思わなかった。それがどうしたことだろう、良平はこの店にまた来るようになった。
良平が朝の挨拶をすると、そのママが少し曲がった腰をかがめてゆっくりと席を立ち準備に取り掛かった。
良平は空いている席に腰かけて店内を見渡した。ほとんどが常連客らしい。といっても居るのは四~五人で店内ががらんとした様子である。
良平の少し前にもうとっくに九十を超えている女性がそれでも裸眼でしっかりとした目つきで雑誌を読んでいる。良平は生まれも育ちもこの地なのでそのご婦人が何処に住んでいてどういう人か分かっている。
もともと裕福な家の娘で夫はかつて市会議員をしていた。とうに亡くなっている。アパートなどの資産を沢山持ち、彼女が死んだら相続税はどのくらい払うのだろう。この地に住むものなら一度くらいはそう思うに違いない。しっかりお金を貯めているので相続税などはどうってことはないとも噂されている。
ところで、彼女は一人っ子で夫は養子になって家に入ってきたのだ。彼女は生まれつき鷹揚で優しかったので、夫は内でも外でも随分威勢がよかった。みんなから親分と呼ばれ親しまれてきた。二人の子供たちはそれぞれに家庭を持ち外に出てしまったので、今は少し淋しそうだ。良平も少しはそういう興味で彼女を見ていた。彼女は良平を見てちらっと目礼をした。
他にも二、三の人が決まった席でそれぞれのスタイルでくつろいでいた。良平と同じくらいの女性はいつものようにどこかのマガジンのクイズを解いていた。
この女性は夫の浮気ですったもんだの騒動の挙句、いつの間にか独り者となっていた。子どもはいない。
良平はそういうことをみんな知っていた。ここにいる誰もがそういう一人ひとりの過去を知っていた。みんながみんなそういうような過去の記憶を共有しながら、今は今の状態で何事もなかったかのよう知らん顔でここに居る。
コロナが蔓延しているせいもあろうが誰もがしゃべらない。静かな時間が止まってしまった空間にいるようだ。そのことがかえって良平をくつろがせた。
店内の奥の壁の棚の古いテレビから低い音量の声が聞こえてくる。韓国ドラマをやっているらしい。テレビの音だけが目立った。
良平のテーブルの上にコーヒーとサラダと焼いた食パンセットを置くと、ママは何事もなかったようにテレビを観た。
良平は野菜サラダを食べコーヒーをすすりながら、この地の生い立ちや自身の小さいころのことや最近の出来事を思い浮かべた。
ふと最近のあることが思い出された。
二、回想(地域の生きる高齢者たちー)
この店の前の道路の真向かいに住む吉川さんのことである。ある日良平が散歩をしていて、近所の話好きのご婦人とすれ違い近所の噂話を聴いた。
「あんたんとこの近くの吉川さん最近ちょっとおかしいんじゃないの。みんなが気持ち悪いと言っているよ」
吉川さんは、最近あちらこちらの草むしりをしている。それもたった一人で薄暗い公園や人家で座り込むような格好で。手元が分からなくなる夜まで延々と草を引き抜いているという。その様が少し気違いじみているというのである。夫人は別れ際に自分の頭を指さして、言った。
「少し認知が入ってきたのかもね」
彼女にそういわれると良平の心に反発心が湧いた。同じ伴侶を亡くした身、とことん付き合ってやろうではないか。
そのことがあって、良平はしばしば吉川さんをこの店に誘った。コーヒー代金は無論割り勘であったが、良平は吉川さんの財布具合に思い当たるとコーヒーの付き合いは彼にとっては負担なのかもしれないと思い、やがて遠のいた。
今度は吉川さんを公園の落ち葉掃除に誘った。良平は公園清掃のボランティアの人々に誘われるままその作業を手伝っていたが、吉川さんも誘ったのだ。彼は、昔は寿司屋の包丁人をしたり大工をしたりパチンコ台の釘師をしたり職を転々としながらいわゆる器用貧乏であった。だから落ち葉拾いよりも、その公園の立木の剪定を好んだ。彼の表情は得意げであった。
一、近所の喫茶店にて
横になったままカーテンをめくると、外は雨だった。今年で後期高齢者となる良平は近年妻を亡くし独り者であった。二月の中旬になるというのにこのように寒い日が続くのは起きるのがちょっと億劫だった。
床に敷かれた布団からすっぽり抜けてすぐ近くの喫茶店に出かけた。モーニングが朝食代わりのつもりで行った。
店に入るとよく知った少々赤ら顔の女性が度の深い眼鏡で新聞を読んでいた。この店のママさんである。髪は白髪になっている。すでに八十歳を超えている筈だ。この店はもうかれこれ三十年以上になるだろうか。彼女の夫が定年退職してから家を改築してこの店を開いたのだ。その亭主もとっくに亡くなってそれからも女手一つで開いている。
開店当時、ママさんはまだまだ若かった。小柄ではあったが理知的で色白な美人だった。おまけに気遣いのできる女性であった。夫もスリムで彫りの深い紳士であった。何となく優雅な夫婦にみえた。
開店当時は近くに出来た物珍しさもありよく出向いたものだった。コーヒー券も買い、しばらくは通った。それも続かずについに行くこともなく記憶にも止まらない存在になっていた。
ところが近くの、これまた独り者の良平より十歳ほど年上の男性と親しくなって時々通い始めた。その男性は吉川という。
心境の変化というやつだろうか。若い頃はしゃれた喫茶店の方が良かった。わざわざ、ひなびた狭いその店などに行こうとは思わなかった。それがどうしたことだろう、良平はこの店にまた来るようになった。
良平が朝の挨拶をすると、そのママが少し曲がった腰をかがめてゆっくりと席を立ち準備に取り掛かった。
良平は空いている席に腰かけて店内を見渡した。ほとんどが常連客らしい。といっても居るのは四~五人で店内ががらんとした様子である。
良平の少し前にもうとっくに九十を超えている女性がそれでも裸眼でしっかりとした目つきで雑誌を読んでいる。良平は生まれも育ちもこの地なのでそのご婦人が何処に住んでいてどういう人か分かっている。
もともと裕福な家の娘で夫はかつて市会議員をしていた。とうに亡くなっている。アパートなどの資産を沢山持ち、彼女が死んだら相続税はどのくらい払うのだろう。この地に住むものなら一度くらいはそう思うに違いない。しっかりお金を貯めているので相続税などはどうってことはないとも噂されている。
ところで、彼女は一人っ子で夫は養子になって家に入ってきたのだ。彼女は生まれつき鷹揚で優しかったので、夫は内でも外でも随分威勢がよかった。みんなから親分と呼ばれ親しまれてきた。二人の子供たちはそれぞれに家庭を持ち外に出てしまったので、今は少し淋しそうだ。良平も少しはそういう興味で彼女を見ていた。彼女は良平を見てちらっと目礼をした。
他にも二、三の人が決まった席でそれぞれのスタイルでくつろいでいた。良平と同じくらいの女性はいつものようにどこかのマガジンのクイズを解いていた。
この女性は夫の浮気ですったもんだの騒動の挙句、いつの間にか独り者となっていた。子どもはいない。
良平はそういうことをみんな知っていた。ここにいる誰もがそういう一人ひとりの過去を知っていた。みんながみんなそういうような過去の記憶を共有しながら、今は今の状態で何事もなかったかのよう知らん顔でここに居る。
コロナが蔓延しているせいもあろうが誰もがしゃべらない。静かな時間が止まってしまった空間にいるようだ。そのことがかえって良平をくつろがせた。
店内の奥の壁の棚の古いテレビから低い音量の声が聞こえてくる。韓国ドラマをやっているらしい。テレビの音だけが目立った。
良平のテーブルの上にコーヒーとサラダと焼いた食パンセットを置くと、ママは何事もなかったようにテレビを観た。
良平は野菜サラダを食べコーヒーをすすりながら、この地の生い立ちや自身の小さいころのことや最近の出来事を思い浮かべた。
ふと最近のあることが思い出された。
二、回想(地域の生きる高齢者たちー)
この店の前の道路の真向かいに住む吉川さんのことである。ある日良平が散歩をしていて、近所の話好きのご婦人とすれ違い近所の噂話を聴いた。
「あんたんとこの近くの吉川さん最近ちょっとおかしいんじゃないの。みんなが気持ち悪いと言っているよ」
吉川さんは、最近あちらこちらの草むしりをしている。それもたった一人で薄暗い公園や人家で座り込むような格好で。手元が分からなくなる夜まで延々と草を引き抜いているという。その様が少し気違いじみているというのである。夫人は別れ際に自分の頭を指さして、言った。
「少し認知が入ってきたのかもね」
彼女にそういわれると良平の心に反発心が湧いた。同じ伴侶を亡くした身、とことん付き合ってやろうではないか。
そのことがあって、良平はしばしば吉川さんをこの店に誘った。コーヒー代金は無論割り勘であったが、良平は吉川さんの財布具合に思い当たるとコーヒーの付き合いは彼にとっては負担なのかもしれないと思い、やがて遠のいた。
今度は吉川さんを公園の落ち葉掃除に誘った。良平は公園清掃のボランティアの人々に誘われるままその作業を手伝っていたが、吉川さんも誘ったのだ。彼は、昔は寿司屋の包丁人をしたり大工をしたりパチンコ台の釘師をしたり職を転々としながらいわゆる器用貧乏であった。だから落ち葉拾いよりも、その公園の立木の剪定を好んだ。彼の表情は得意げであった。
(つづく、2回連載です)